35 掻き乱されない絆
リシャールが淹れた茶に何らかの毒草が入っていた一件から、サラとリシャールの仲はどこかぎくしゃくとしてしまった。
サラとしては、リシャールがそんなことをするはずがないと信じている。だが、茶葉缶自体には問題がなさそうだった。もし茶葉缶に問題があれば、サラではなくリシャールが毒を飲んでいた可能性だってあるのだ。
いくらフェリエに個人的な恨みがあるだろうサレイユとて、明らかに自国産の茶葉缶のせいだと分かる方法でリシャールを害するような真似はしないだろう。
(まだ使者はフェリエにいるみたいだけど……聞けるわけないし)
使者がエルミーヌの正体はサラであると知っているとは限らない。そんな相手に、博打をする勇気も勝算もない。
それに高位の官僚である可能性が高いため顔を見られれば何か感づかれるかもしれないし、そんなサラが「茶葉缶に毒を入れましたか」なんて尋ねるのも不安だ。使者に「これはエルミーヌ王女ではない」なんて言われれば、これまでの努力や決意が水の泡になる。
(でも茶器を扱ったのは殿下だけだから、私のカップに狙って毒を入れられるのは殿下しかいない……)
彼を信じたいし、彼が自分を害する謂われがないはずだとも思っている。
それでも、リシャールの顔を見れば思わず表情を崩してしまいそうになるし、彼の前で笑顔を保てる自信がない。
(……殿下も、私を避けてらっしゃる)
それも当然のことだろう。
やっと仲よくなれた妃のために、初めて淹れた茶。それを拒絶されたのだから、繊細な彼はひどく傷ついただろうし、もうサラの顔も見たくないと思われても仕方ない。
そういうわけでサラはリシャールと距離を置いて生活しているのだが――
「……もう、よろしいのですか?」
「ええ、お腹いっぱいなの。……今後の食事量を減らすように言ってもらってもいい?」
ナイフとフォークを置いたサラは、心配そうなクレアに微笑みかけた。皿に載った料理は半分以上残っている。
あれから、サラはなんとなく食事を口にするのも怖くなり、食べる量を減らしていた。焼き菓子やパンのようにしっかりと火を通したものならともかく、液体や生の野菜などには手が伸ばしにくく、腹は減っていてもそれ以上食指が動かなくなってしまうのだ。
そんなサラに対してクレアは、かいがいしく世話を焼いてくれる。どうやらダニエルはリシャールの側に付いたようだが、クレアは「何かご事情があったのでしょう」ときりっとした表情で言い、徹底的にリシャールを避けるサラに寄り添ってくれていた。
(私に味方することで、クレアの立場も悪くなるのに……)
実際、昨日の夕方頃にサラは、クレアとダニエルが口論しているのを聞いていた。話題は明らかにサラとリシャールについてで、ダニエルが「殿下は傷ついている。エルミーヌ様は謝るべきだ」と主張すると、クレアも負けじと「今は時間を置くべきです。エルミーヌ様のお気持ちはエルミーヌ様にしか分かりません」と言い返していた。
だからサラは、もう自分のことはいいから、リシャールの方に付いてくれ、とクレアに懇願した。だがクレアは頑として自分の主張を曲げず、「意味もなくエルミーヌ様が殿下を拒絶なさるわけありませんもの」と言っていた。
(平和だった離宮を、私の言動が乱している……)
それを思うと胸が痛くて、涙もこぼれそうになる。だが、リシャールを突っぱねた自分にそんな権利はないとも分かっていた。
リシャールと話をしたい。紅茶のことも謝りたい。
だが、どう切り出してどう結論をつければいいのか分からない。
優しくて傷つきやすい彼と仲直りしたいが、どうすれば正解なのか、分からない。現に一度、サラは選択を誤っているのだ。
鬱々としたまま、時間は過ぎていく。
そうして、紅茶事件から数えて三日後。
窓の側に椅子を持っていき、夕暮れ色に染まる庭園をぼんやり眺めていたサラはふと、リビングの方でクレアが焦った声を上げるのを耳にした。
「……失礼します。エルミーヌ様!」
「どうしたの、クレア」
「実は……殿下がいらっしゃっています。エルミーヌ様にいくつかお尋ねになりたいことがあるとのことで……」
振り返ったサラは、困った様子のクレアの言葉に目を丸くした。
サラとリシャールが距離を置くようになってから数日経つが、彼の方から接触を試みるとは思っていなかった。
(……追い返すことは、できない)
目線を落とし、サラは頷く。
「……分かったわ。お通しして」
「……はい」
どこか辛そうなクレアを伴い、サラはリビングに向かった。
既にリシャールはそこにいて、仮面を被っていないために頬を夕焼け色に染めて緑の目を真っ直ぐサラに向けていた。
「……いきなり押しかけて、すまない」
「いいえ、そんなことありません」
「……少し、話をしてもいいだろうか」
この期に及んでも、リシャールは「いいだろうか」と、サラに最終決定権を委ねる。もしここでサラが「嫌です」と言えば、彼は素直に引き下がり――余計に心を病むだろう。
サラは頷き、リシャールの向かいに座った。
彼はまぶたを伏せ、かなり悩んだ様子の末、口を開く。
「……最近、君の食が進んでいないと聞いている。頬の肉も削げているようだし……体調が優れないのではないか」
「えっ」
早速先日のことを尋ねられるだろうと身構えていたので、思わぬ発言にサラは素っ頓狂な声を上げてしまった。
だがリシャールは痛みを堪えているかのように眉根を寄せ、気遣わしげな視線をサラの全身に注いできた。
「……それに、肌も青白い。もし、君が小食になった原因が俺にあるのなら……そう言ってほしい。俺は女性の気持ちがよく分からないから……俺に非があるのなら、教えてほしい。できる限り改善するし、君の健康を妨げるようなことはしないようにする」
「……」
「もし君が俺に愛想を尽かしたのなら、それも仕方のないことだと受け入れよう。だが、俺が原因で君が病むようなことがあれば、俺はサレイユ王に――お、おい、どう、した。泣いているのか!?」
リシャールに焦ったように言われて初めて、サラは自分が静かに涙をこぼしていることに気付いた。泣いていることに気付ないほど、自分は憔悴していたということだろうか。
ぽろりとこぼれた涙が手の甲に落ち、滴が弾ける。しばし呆然としてその様を見ていたリシャールだが、やがて胸元のポケットからハンカチを引き抜いて立ち上がり、サラのもとに歩み寄ってきた。
「……そ、その。君が許すなら……涙を拭いてもいいか?」
「……す、すみません。あの……大丈夫です」
「大丈夫なわけないだろう。……ほら、目の周りが腫れるから、擦るんじゃない。じっとしていて……」
最初はまるで子どもに説教する親のように、最後には心配そうな掠れた声で言われ、手の甲で目元を擦ろうとしたサラはきゅっと唇を引き結び、リシャールがハンカチで涙を拭うのを許した。
リシャールは明らかにほっとした様子で、サラの頬を拭った後、「隣、失礼する」と断ってから腰を下ろした。そうすると少しだけソファが沈んで体がリシャールの方に傾き、ふわっと漂ったサシェの優しい香りに、胸が苦しくなってくる。
「……いくつか尋ねるから、はいかいいえ、もしくは首の動きで返事をしてほしい」
「……はい」
「君は、俺のことが嫌いになったか?」
随分直球な質問である。
悩むことなくサラが首を横に振ると、ほっとした安堵の息がサラの髪を擽った。
「そうか、それならよかった。……では、三日前のことだが――君は俺のことが嫌いだから茶を飲まなかったのではないのだな」
サラは頷く。
ここまでは順調だったが、次の質問にはなかなか返事ができなかった。
「では……俺が、怖くなったか?」
リシャールが、怖いか。
(……分からない)
分からないけれど、紅茶に混じっていた毒のことを考えると――ハンカチを持つリシャールの指先が怖い、と思ってしまう。
「……殿下」
「ああ」
「……度重なる無礼、お詫び申し上げます。わたくしは……殿下を信じたいのです」
「……」
リシャールが静かに息を呑む気配がし、サラは思いきって顔を上げて彼の澄んだ緑の目をじっと見つめた。
「殿下……無礼とは存じますが一つだけ、質問してもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ」
「……。……殿下は、わたくしが死ねば悲しんでくださりますか」
毒を盛りましたか、殺そうとしましたか、という直接的な質問ではなく、婉曲な尋ね方。
だが、リシャールは何かを察したようだ。目を丸くした彼は驚きこそ見られたが、動揺の色は見られない。
その瞳の動きで彼の気持ちが分かった気がして、サラの胸にわだかまっていたものがほんの少し消えた気がした。
「……悲しいに、決まっている!」
「殿下……」
「妃よ。君が何を抱えているのか俺が知る術はないし、無理に聞き出そうとも思わない。だが、君が何かに思い悩んでいることは分かった。……質問してくれて、ありがとう」
そう言うリシャールの声は、限りなく優しい。
「ふざけたことを言うな」と一喝されてもおかしくない問いかけだったのに、「ありがとう」と言ってくれるなんて思わなかった。
まばたきすると、その拍子にまた一粒涙がこぼれた。リシャールはそっとサラの肩に両手を載せると、自分の方に引き寄せた。
優しい、甘い香りがする。
涙が、リシャールの上着の襟に吸い込まれていく。
「……君は、何か大きな悩みを抱えているのだろう」
「……はい。申し訳ありません」
「いや、よく言ってくれた。……その悩みは、俺たちで今すぐに解決できるものではないのではないか?」
「……そう、思います」
「そうか、分かった。……君は、俺のことを少しでもいいから、好きでいてくれるか?」
その問いの返事に、サラは迷わなかった。
「はい、好きです。とても……好きです」
「……ふふ、ありがとう。俺も……好きだよ」
リシャールの言葉はほろり、とサラの胸に降り注ぎ、砂糖菓子のように甘く優しく溶けていく。
好きだ、と言って、同じ言葉を返してもらえるのが、こんなに嬉しいことだったなんて。
そして同時に、これほどまで切なくて、やるせなくて、歯がゆい気持ちになってしまうなんて。
私はエルミーヌじゃありません、侍女のサラです、と言えたらどんなにいいだろうか。
この前の紅茶に毒草が入っていましたが、私はあなたを信じています、と言う勇気が出れば、どんなにいいだろうか。
だが、真実を口にできないサラをリシャールは咎めることなく、静かに受け入れてくれた。
涙を拭い、抱き寄せ、慈しむように髪を撫でてくれる。
「……君に誓う。いつか必ず、君の心を蝕むものを取り除いてみせる」
「……」
「だから……まずは、食事をしてくれ。一日一度でいいから、君の元気そうな声を聞かせてくれ。君が生きているのだと……俺に教えてくれ」
「……はい」
リシャールは、サラの死を望んでいない。
それが分かっただけで、サラは十分安心することができた。