32 ふたりの夜
夜になった。
「……ふふふ」
「どうしたの、クレア。さっきからずっと嬉しそうだけれど」
「当たり前ですよ。……だって、エルミーヌ様がこんなに頻繁に殿下に召し上げられているのですから」
そう言いながらクレアはサラの髪を梳き、いい匂いのする香油も練り込む。クレアの丹誠込めた手入れのおかげで、サラの髪は昔よりずっとさらさらできれいになったし、肌も柔らかく白くなったと思う。
殿下に召し上げられる……つまりは夜、寝室に呼ばれるということだが、確かに最近リシャールは頻繁にサラを呼んでいる。「仕事」が舞い込んだ日は致し方ないが、その日でも彼は出発前にサラに会いに来て、「いってきます」「いってらっしゃい」のやり取りをするようになっていた。
(ま、まあ確かに、殿下が妃を寝所に呼ぶというのは普通、そういうことだろうけど……)
顔が火照るのを感じつつ、サラは苦笑した。
「召し上げられるといっても、おしゃべりをしてから一緒に寝るだけなのよ」
「今は、ですよ。いつ殿下がエルミーヌ様に触れられてもよいように、エルミーヌ様もお心の準備をなさっていてくださいね」
「……分かったわ」
今の上機嫌なクレアに何を言っても無駄だと思われたので、サラは素直に頷きつつ――案の定、鏡に映る自分の顔が赤くなっていたため、火照りやすい自分の肌を心底恨んだ。
しばらくして、白いドアが開く。そこで待っていたダニエルはネグリジェ姿のサラを見ると満足そうに微笑み、寝室の方を手で示した。
「こちらへどうぞ、エルミーヌ様」
「ありがとう。おやすみなさい、クレア、ダニエル」
「ええ、よい夢を」
「よい夜を、エルミーヌ様」
従者たちにそっと挨拶を返され、サラは既に灯りの落ちた寝室に入った。
リシャールは既にベッドに入っているらしく、薄いカーテンを開くと掛け布団がこんもりしているのが分かった。
「殿下……?」
「ああ、来てくれたか」
呼びかけるともぞりと上掛けが動き、リシャールが身を起こした。彼がぽんぽんと自分の隣を叩くのでそこに滑り込むと、毛布を掛けてくれる。
「もうお休みになっていたのなら、申し訳ありません」
「いや、起きていた。……今日は時季のわりに冷えるから、君が来たときに震えたらかわいそうだと思った」
横になったリシャールが言うように、今晩は少し冷え込む。だがサラが潜り込んだシーツはリシャールの体温のおかげで、ほんのり温かかった。
「ありがとうございます。でも、本当なら殿下の寝具を温めるのはわたくしの仕事なのですが……」
「いや、女性の方が冷えに弱いというではないか。君が体を冷やすことがあってはならない」
リシャールは少し眉根を寄せて当然のように言う。
こういうことを当たり前のように言い、当たり前のようにサラの体を気遣ってくれるリシャールは、本当に素晴らしい男性だと思う。
枕からは、優しい匂いがした。ほとんどはリシャールが使っている洗髪剤の香りだろうが、そこに混じってリシャール本人の匂いがするようで、頬を埋めていると安心できる。
「……ああ、そうだ。今、本城にサレイユからの使者が来ているようだが……君も聞いているよな?」
リシャールが話題を振ってきた。
ベッドに入ったからといって甘い時間になるわけではないと分かっているので、サラは頷く。
「そのようですね。先ほど、使者から書簡を受け取りました」
書簡――エルミーヌの父である国王が書いたもので、そこに記されているのはまさに、娘を想う父親が書いた愛情に溢れている文章だった。
これを書いている間、きっと国王は苦虫を噛み潰したかのような顔をしていたのだろうな……と思うと妙に楽しくなり、それを見ていたクレアが「お手紙をもらえてよかったですね」といいように解釈してくれたものだ。
リシャールは「そうか」と相槌を打った後、少し眉間に皺を寄せてサラを見た。
「……君には、父君と兄君がいらっしゃるだろう。それにしては、あまり祖国や家族のことを口にしないな」
「……そうでしょうか?」
何気ないふうを装って返事をしたが、内心かなり慌てていた。
(そ、そういえばエルミーヌ様はしょっちゅう、王子殿下のこととかを話していたよね……)
本物のエルミーヌなら、父親やあまり王都に戻ってこられない兄のことを懐かしがったりするだろう。だが、温厚で気弱な人という印象のあった王子のことはともかく、サラにとっての国王は父親代わりですらない。
(でも、そんなこと言えるはずもないし……)
「……わたくしは、この国に根付く覚悟をして海を渡りました。ですので……今はこの国をわたくしの祖国、そして殿下や太后様、陛下のことを家族だと思うようにしております。……わたくしは、残酷な王女でしょうか」
「い、いや、そんなことはない。そう言ってくれて……俺は嬉しいよ」
リシャールは急いた様子で言った後、こほんと咳払いし、寝返りを打って仰向けになった。
「……その、明日の茶の時間、俺が準備しようと思っているんだ」
「え、殿下がですか?」
「俺だって一通りのティーサーブは心得ている。……サレイユの使者が、サレイユ産の茶葉を持ってきてくれたのだ。きっと君の舌に合うだろうから、俺が振る舞いたい」
リシャールは仰向けなので、サラとは視線が合わない。サラはそんな彼の横顔を凝視し、何度もまばたきを繰り返した。
(殿下が、私のためにお茶を淹れてくださる……)
「……いいのですか?」
「君はいつも、俺に茶を持ってきてくれるだろう。だから、いつもの礼……とは違うな。まあ、いい。とにかく、覚えていてくれ。連絡は以上だ」
最後はかなり早口で言い、さらに寝返りを打ったリシャールはとうとうサラに後頭部を向けてしまった。
背中を見せられるのは少し寂しいが、逆に言うと気を許した相手でないと後ろ姿――しかも寝ているときの背後を見せたりはしないだろう。
どきどきしつつ手を伸ばしてリシャールの背中に触れると、ぴくっと震えつつもサラの手の平を享受してくれた。
「ありがとうございます、殿下。明日、楽しみにしていますね」
「……ああ」
素っ気ない返事だが、その声は限りなく優しかった。