30 解けた心③
「……仮面、取ってもいいですか」
「……取ってどうする」
「あなたのお顔が見たいのです」
「……」
リシャールはまたしても黙ってしまった。これは諾の反応と見ていいのだろうか、と思いつつサラがそっと仮面に触れるが、リシャールは反応しない。
思いきって彼の耳の後ろに手を伸ばすと、細い紐の感触があった。それを辿ることで、リシャールの癖毛に隠れるように後頭部で紐が結ばれていることが分かる。
腕を伸ばし、結び目を解いた。するりと紐が緩み、リシャールの目元を覆っていた白い仮面が外れる。
夜の闇に浮かぶリシャールの瞳は、悲しげに揺れていた。だが悲哀に満ちてもなお、王兄のかんばせは息を呑むほど美しい。なんとなく、以前本城で話をした国王と目の形が似ていると思われた。
仮面をシーツの上に置くと、リシャールはふいっとそっぽを向いた。その耳がほんのり赤いので、恥ずかしがっているのだと分かる。
「……あまり、見ないでくれ」
「だめですか?」
「……君に見つめられると、胸の奥がぞわぞわしてくる。感情を、抑えられなくなりそうなんだ」
「えっと、それは獣に変化するのとは別方向ですよね……?」
念のために聞くと、こちらを見たリシャールは少し呆れたように眉を垂らす。
「……俺が変化するのは基本的に、腹が立ったときだ。今、君に関して抱いているのは……そういうのではない」
拗ねたように言うリシャールがなんだか可愛らしくて、サラはくすっと笑ってしまう。
そうして、むっとしたリシャールの頬に手を伸ばし、目を細めて夫を見つめた。
「……殿下。これからも……私をお側に置いてくれますか」
「……むしろ、君が俺に愛想を尽かして出ていくと思っていた。君の方こそ、こんな俺のことを知ってもなお、側にいてくれるというのか」
「当たり前です。さっきも言いましたが、私は殿下の異能が変化の力だから怖いわけではありません。それに……ある意味、私に行き場はありませんので」
リシャールの瞳が、揺れる。
両手が遠慮がちにサラの肩に触れ、ほんの少し力を入れて掴む。
「……俺の手が、汚らわしくないのか。この手で……こうやって触れても、いいのか……?」
「はい。殿下のお気持ちのままに触れてくださいませ」
「その言い方はどうかと思うが……いや、いい。ただ、俺以外の者にはそういう言葉を掛けるな」
不機嫌そうに言われたのでサラはくすっと笑い、リシャールの耳に掛かる緩い癖毛をそっと指先で弄んだ。
「……はい。殿下の仰せのままに」
「……ふん」
リシャールはそっぽを向く。だが、サラの肩を掴む手はどこまでも優しくて、サラは愛おしさに目を閉じた。
(……私は、殿下のお側にいたい)
エルミーヌの代わりだとか、政略結婚だとか、国と国との云々だとか、そんなのを抜きにしても、リシャールと共にありたい。
この、不器用だけれど他人思いで優しい人を、少しでも支えたい。
……そう思って手を下ろした、のだが。
サラが手を下ろしたことで、ネグリジェの首元が緩む。そして、異変を感じたらしいリシャールが肩に触れていた手を離した、とたん――
すとん、とネグリジェが一気に腰まで落ちた。これはそういうデザインであり、しかもリシャールの手によって鎖骨付近のリボンを解かれているので、当然のことである。
幸い下にはシュミーズを着ているが、腰までネグリジェが脱げたサラがリシャールと見つめ合うこと、しばらく。
「……な」
「……」
「……な、んて……格好をしているんだ!?」
「えっ、でもリボンを解いたのは殿下ですよ!?」
「それは! そう、だが……い、いや、すまない。よくも考えずに……おい、これはいったいどういう造りになっているんだ!?」
言い訳しながらもサラのネグリジェをたくし上げて着せようとしたリシャールだが、繊細なネグリジェはリシャールの言うことを聞いてくれない。
もたもたしているし、結ぶべきリボンが胸元に入ってしまっているので、顔を赤くして四苦八苦している。女性の服に触れることに慣れていないのが丸わかりだ。
「ちょっと待て、リボンのもう片方はどこに行った? ……っ! あ、いや、悪い、変なところに触れて……って、なぜ笑う!」
「す、すみません。殿下があまりにも可愛らしくて……」
「……可愛いとか、男に向かって言うんじゃない」
いつものリシャールらしい口調で言われ、サラは身を震わせて笑ってしまう。その拍子につるっとリシャールの手が滑り、せっかく彼がたくし上げてくれたネグリジェがサラの腿の上に逆戻りし、彼は目を見開くと悔しそうに赤い顔を歪めた。
「……なんという妃だ。もう知らない。今晩はその格好のままで過ごせばいい!」
「はい、かしこまりました。では、失礼します」
「……いや、待ってくれ」
十分に話はできたし、いい雰囲気になったのでそろそろ引き時だろう、と思ってサラが素直に立ち上がると、言ったそばからリシャールが呼び止めてきた。
ネグリジェの胸元を引き上げた格好でサラが振り向くと、ベッドに座っていたリシャールは唇を噛み、シャツの胸元をぎゅっと掴んでサラを見上げていた。
「……ふ、服ならちゃんと元に戻す。だから……今晩は、ここで寝ていかないか」
「……は、い?」
「い、嫌ならいい。それに、本当に寝るだけだ。はしたない真似はしないと約束する」
しどろもどろな言葉にサラは目を瞬かせ――内側からこみ上げる感情を制御できず、またしてもくすくす笑ってしまう。
(なんて、スマートじゃない誘い文句なんだろう)
だが、リシャールらしい。
そんなリシャールに誘われたから、サラは頷き、彼の隣に腰を下ろした。
「かしこまりました。……殿下」
「何だ?」
「私、フェリエに来てよかったと……心から思います」
エルミーヌの身代わりになり、フィルマンたちには裏切られ、悲しんだ直後に怒りが湧いたものだ。そうしてリシャールの肖像画に向かって、フェリエで絶対幸せになると誓ったのも昔の話。
引きこもりで、人嫌いで、変わり者だと言われていた王兄殿下は、どこまでも優しくて臆病な人だった。
その人の心に触れ、胸の内に押し込めていたものを吐き出してもらい、サラも素直な気持ちを打ち明けることができた。
(お父様、お母様。……私、うまくやっていけそうです)
手を伸ばしてリシャールの左手に触れると、一瞬だけぴくっと震えたがすぐに手の平をひっくり返し、手を握ってくれた。
この大きな手が鋭い爪を擁し、血にまみれ、人の命を奪うことがある。
だが同時にこうして、サラと全く同じ熱を持って優しく握り返したり、茶菓子を摘んだりもできる。
サラの言葉に、リシャールは少し驚いたように目を丸くした後、ふわっと柔らかく微笑んだ。
「……ああ。俺も、妃になったのが君で……本当によかったよ。……その、君」
「はい」
「昨日……君の厚意を足蹴にして、すまなかった。君が剥いてくれたルーンも台無しにしてしまったし……悪いことをした」
「……ふふ」
「おい、なぜ笑うんだ」
「いいえ。また明日、お淹れしますよ」
サラが囁くと、リシャールは安心したようにふっと微笑む。
その笑顔だけで、自分はこれからもやっていける、とサラは思った。