3 裏切られた心①
月の終わりに、フィルマンの所属する騎士団が王城に帰還したという知らせが入った。
サラは王女エルミーヌとして、騎士団長からの報告は受けた。だが「フィルマンは元気ですか」とは口が裂けても言えないので、サラのことをエルミーヌだと信じている騎士団長の話を聞きながらも、胸はもどかしい気持ちでいっぱいになった。
既に、エルミーヌに手紙は送っている。彼女からの返事は特に聞いていないが、橋渡しをしてくれた侍従は「嬉しそうな顔をなさっていました」と言っていたので、問題はないだろう。
そうこうしているうちに、サラの結婚相手についての情報が届いた。
「この人が、リシャール殿下……」
侍女が持ってきた薄っぺらい木箱には、フェリエ国王から届いた手紙、王兄リシャールの情報が書かれた釣書、そして肖像画が入っていた。
大判の画集ほどの大きさのキャンバスに描かれているのは、若い男性の正面像だった。着色はされていないので色は分からないが、肩に掛かるくらいの長さの髪は少しだけ癖があり、目はなぜか半眼。微笑めばかなりの美青年だろうが、不機嫌を表すかのように唇もきゅっと曲げられていた。
(知的な貴公子って感じだけど、普通肖像画で不機嫌そうな顔を描くかな……?)
首を捻りつつ、侍女に肖像画を立てかけてもらって釣書に目を通す。
(殿下は今年で二十四歳。先代国王の妾妃の息子だけれど、妾妃の死後は王妃様の養子になっているんだ……)
そういえば家庭教師が、「フェリエ王国には王妃が生んだ第一王子がいたけれど、二十年以上前に死亡している」と言っていた。その後王妃になかなか子が生まれなかったので国王は妾妃を迎え、彼女が生んだ王子がリシャール殿下ということだ。
その八年後にめでたく王妃が第二子である現国王を生み、母である妾妃を事故で亡くしたリシャール王子も自分の息子に迎えたようである。
(よっぽど懐が深い王妃様――現在の太后様だってことなのかな)
なるほど、と思いつつ読み進めていたが、だんだんサラの顔が険しくなっていく。
曰く、王兄リシャールは極度の他人嫌いで、離宮に籠もってばかり。しかも一日の大半は自室で生活していて廊下にすら滅多に出ず、侍従を通してでないと彼と関わりが持てないという。
曰く、知識は豊富で異母弟である国王も何かと兄を頼っていて政治に携わることもあるが、表舞台には絶対に出ようとしないという。
曰く、本人の希望により彼は常に白い仮面を被って生活していて、「仮面を外してくれ」は禁句だという。
(……とんだ面倒物件じゃない!)
わなわなと震えるあまり、釣書を取り落としそうになったがなんとか堪えた。
エルミーヌはこの噂を知っていたのか分からないが、これは確かに結婚したいとは思えない相手だ。
とはいえ、少々不機嫌そうな顔つきでけだるげな表情だが顔立ちは整っているし、知識も豊富。異母弟からも慕われているようだし、二十四歳という男盛りの王兄殿下となれば、彼の妃になりたいと思う者も多いだろう。それなのに独身なのはひとえに、彼の重すぎる欠点が原因であるはずだ。
(ひょっとしたら、フェリエ国王は尊敬するお兄さんのために、どうにかして花嫁を迎えさせたいと思ったのかも……)
サレイユの王女なら、どんな変人殿下だろうと結婚を突っぱねることはできないし、うまくいくと踏んだのかもしれない。だがエルミーヌ――実際のところサラにとっては非常に迷惑だし、おそらく王兄殿下本人も乗り気ではないのだろう。肖像画が不機嫌そうなのも、弟に泣きつかれて嫌々結婚を承諾したからではないか。
(もうこの時点で、前途多難だ……)
ぐったりしかけたが、慌てて背筋を伸ばす。
たとえ意に添わない結婚だとしても、サラも王兄殿下本人も、背負っているものがある。
王命とはいえ相手を騙す分際で偉そうなことは言えないが、サラだって入れ代わりに気付かれるわけにはいかない。
(だとしたら、どんな変人だろうと仲よく――せめて喧嘩はしないように結婚生活を送らないと!)
よし、と気合いを入れ、サラは肖像画を見つめた。
描かれたリシャールは、この世の終わりのような眼差しでサラを見返すだけだった。
時間は瞬く間に過ぎていき、いよいよ五日後にフェリエに向けて出発するというある日。
「……なに、それ?」
フェリエに関する歴史書を読んでいたサラは、思わず本を取り落としてしまった。
それくらい動揺していたからなのだが、いつもなら細かく指摘してくる侍女も相当慌てているようで、本を拾う暇すらない様子でそわそわと視線を揺らしている。
「その……わたくしが伺っているのは、このことだけで」
「……」
信じられなかった。信じたくなかった。
『子爵家のフィルマンが恋人のサラと結婚するらしい』なんてこと。
「エルミーヌ王女殿下が呼んでいる」となると、断ることはできなかったようだ。
サラは、彼らにもどうしようもない理由があるのだと思っていた。フィルマンはともかく、子爵夫妻は入れ代わりのことを知らないのだから、両親に結婚をせっつかれたのだとか、フィルマンが結婚を急がなくてはならない事情ができたのだとか、何かしらの重大な事情があるのだと思っていた。
……ふわふわ微笑むエルミーヌと、少し気まずそうなフィルマンの顔を見るまでは。
「……いったいどういうことなのですか」
震える声でサラが問うと、フィルマンの腕に抱きついていたエルミーヌがおっとりと微笑んだ。
「そう、わたくしもサラには報告しないといけないと思っていたのよ。……ね、フィルマン様?」
「……え、あ、はい。そうですね……」
やけに楽しそうなエルミーヌとは対照的に、久しぶりに見るフィルマンはかなりおどおどしている。先ほどから一度もサラと視線を合わせようとしないし、かといってエルミーヌの胸に挟まれる腕を引き抜こうともしていない。
……嫌な予感しかしない。
苦くて粘っこい唾を飲み込み、サラは落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせつつ、鉄壁の笑顔で問う。
「はい、わたくしも報告を伺いたくて。……フィルマン、私たちのことは知っているわよね?」
「も、もちろんだ。エルミーヌ様から手紙を受け取っている」
「そう……それで、どうしてあなたとエルミーヌ様が結婚することになったの?」
努めて笑顔で、落ち着いて聞こうと思ったのだが、表情が強張っていて物言いがとげとげしくなっていることに気付かれたようだ。
それまで機嫌がよさそうだったエルミーヌが不安そうな顔になり、小首を傾げた。
「……どうしたの、サラ。とても怖い顔をしているわ」
「……それ、は」
「ねえ、サラはわたくしたちの結婚を祝福してくれないの?」
「し、しないわけではありません。ただ……意外すぎて、驚いてしまって」
下手くそな言い訳だと思ったが、エルミーヌは気にした様子もなく、ぱっと笑顔に戻った。
「ああ、よかった! あのね、サラ。わたくし、フィルマン様のことを好きになってしまったの。これからわたくしはサラとして生きていくのだから、フィルマン様と結婚しても問題ないでしょう? だから……あなたの代わりというのはおかしいけれど、わたくしがフィルマン様のお嫁さんになるわね!」
(私の代わりに、エルミーヌ様が、フィルマンのお嫁さんに……?)
――体が、冷たい。
体に杭を打たれたかのような衝撃と、周りの音が聞こえなくなるようなこの感覚を体験するのは、両親の訃報を聞いたあの日以来だろうか。