29 解けた心②
「……あなたの異能は、漆黒の獣に変化する力。あなたはその力で、国に仇為す者と戦ってきた――ですか?」
「……そんな、正義の味方のような存在ではない。所詮は、怒りに身を任せて変化し、感情の赴くままに人を殺す化け物だ」
リシャールの物言いが、サラの出した結論に「是」の返事をした。
……本城で聞いた、「黒き獣」の噂。
サレイユとの国境戦でもどこからともなく現れて、異能たちと共にサレイユ軍を殲滅した生き物。その他にも、国に仇為す者に牙を向けているようだが――それだけではない。
(本城で聞いた噂が本当なら、殿下は子どもの頃に――)
サラが静かに瞳を向けると、リシャールはクッと喉の奥を鳴らし、それが皮切りになったかのようにくつくつと笑い始めた。
「……ああ、そう、そうだとも。俺は化け物だ。俺が殺したのは、サレイユ兵や盗賊だけではない。俺は……この呪われた力で、母親さえ殺したんだからな」
「……そう、なのですね」
本当だったのか、とサラは目を伏せた。
リシャールの生みの母である妾妃は、息子を束縛しすぎたために「黒き獣」の制裁を受けた――のではなく、変化した息子によって殺されたのだ。
そして先代国王や王妃は王子による妾妃殺しを隠すために、妾妃殺害事件をうやむやにして闇に葬ったということなのだろう。
「……太后様や国王陛下も、殿下のお力のことをご存じなのですか」
うるさい、黙れ、と一蹴されることを覚悟で問うたが、リシャールは思いの外素直に頷いてくれた。
「もちろん。……俺が最初に変化したのは、二歳頃のこと。君はそういうことには鈍感なようだが、様々な異能が存在するフェリエでも、俺のように自身の肉体そのものを変化させる力は昔から忌み嫌われている。王侯貴族の子にこの力が現れれば、幼少期に始末されることも昔はざらにあったという」
淡々としたリシャールの言葉に、サラは浅く息を吐き出す。
そのようなことは確かに、借りた本にも書かれていた。「本人の体を変化させる」異能は非常に珍しいが、その異能持ちが大暴れし、一つの町を滅ぼしたり国の危機を引き起こしたりといった事例が多く存在している。
だからたいていの親は自分の子がそういう異能を持っていたら、幼いうちに殺すか一生家に閉じこめる。将来家を継がせる必要がある貴族なら、たとえ正妻の子だろうと容赦なく殺す者の方が多いくらいだという。
「母は……元々意志の強い方ではなかったが、俺の異能を知って完全に病んでしまった。母は、俺なら次期国王になり、自分が王妃を差し置いて国母になれると信じていたようだ」
「……先代国王陛下はいかがなさったのですか?」
「父か? 父は俺の異能をそれほど異端視しなかったようだが母は一人で思い悩み、俺を連れて離宮に籠もった。……そうして、おまえは呪われた子だ、死んでしまえ、と呪詛を吐かれる一方で、おまえなら国王になれる、おまえは優秀な子だ、と褒められながら育てられた」
……それは、穏やかな両親のもとで育ったサラには想像もできないような過去だった。
忌まわしき力を持つ息子が、憎い。だが、王家の血を継ぐ子は愛おしい。
殺意と同時に、愛情を注ぐ。このときにはもう、妾妃の心は元に戻らないくらいまで壊れてしまっていたのだろう。
静かにリシャールの言葉を聞いていたサラは、はっとした。
妾妃もリシャールが幼いうちは、「呪われた力を持っていても、この子が王になる」と信じて過ごせただろう。
だが数年後、王妃が王子を生んだとしたらどうなる?
自分の息子は妾妃の子で、忌まわしき異能持ち。王妃の息子は――サラは彼の異能を知らないが、少なくともリシャールとは違うだろうし、なんといっても王妃がやっと生めた第二子だ。
「エドゥアールが生まれ、母はついに自制がきかなくなってしまった。そして――」
――妾妃は息子のため、エドゥアール王子を殺そうとした。
夜中に部屋を飛び出した母の異変に気付いた当時九歳のリシャールは、母の後を追った。
そして、母が弟の寝所に押し入り、ナイフを振り回す姿を見て――とっさに獣に変化し、弟を殺そうとした母の喉を爪で掻き切ったのだという。
「考える間もなかった。おかしくなってしまった母と、これまでにも密かに遊んでやったりした弟。どちらかを取れ、と選択を迫られた俺は、弟を選んだ。母が絶命してもなお、俺はすやすや眠るエドゥアールを見て……よかった、と思った」
「……だから、太后様は殿下を引き取られたのですか?」
サラの問いに、リシャールはこっくり頷く。
「そうだろうな。太后陛下は元々俺のことを怖がらない奇特な人だったが、母殺しを知ってもなお俺に優しくしてくれた。エドゥアールにも十歳くらいの頃に真実を打ち明けたら、涙を流しながら抱きついてきた。父である先代国王も、俺を排除したりはしなかった。……だから、もう十分だった」
「……」
「父は、腫れ物に触れるような扱いではあったが俺を認めてくれた。太后陛下は、俺に恩を感じて離宮を住まいとして与えてくれた。エドゥアールは、真実を知ってもなお俺を慕ってくれる。ダニエルやクレアは、俺のために仕えてくれる。……だから、もうこれでいいんだ」
ふ、とリシャールは笑う。
それは先ほどのような箍の外れた笑い方ではなく、哀愁に満ちた嘆息のようだった。
「他の者には化け物と言われようと、俺を見てくれる人はいる。俺はエドゥアールの政務を手伝いつつ、あの子の治世を脅かすような存在を排除できればいい。妃も子も必要ない。世の者からは引きこもりの変人だと嘲笑われながら、俺はひっそり死ぬ。それを望んでいた」
「……私の存在は、やはり邪魔だったのですね」
「ああ、邪魔だった。俺の人生計画を狂わせるような存在は、厄介きわまりない。だが……もしかするとエドゥアールは、君が来ることによって俺が少しでも、この世に執着するようになれば、と思ったのかもしれないな」
リシャールは、サラを見た。
そしてサラがずっと寝たままだったのに今気付いた様子で、そっと両腕を引っ張って起こしてくれた。押し倒したときとは真逆の、いつものリシャールらしい丁寧な所作だった。
「……異能に馴染みのない国の王女だと聞いてうんざりだったが、かえってそれがよかったのかもしれない。……俺は怒れば、獣になる。獣になれば――努力はしているがかなり自制がききにくくなるから、君を殺すかもしれない」
「……本当に残酷な人なら、自制しようという努力なんてしません。それに、この仮面だって……他人と接することで感情を動かし、獣にならないための工夫なのでしょう?」
そっと仮面に手を伸ばすと、リシャールは少しだけ顎を引いたが拒絶はしなかった。
指先で触れた白い仮面は、ひんやりしている。
この仮面は――これまでずっと、リシャールを守ってきたのだ。
彼を疎ましく思う者、気味悪がる者からの視線を遮断し、感情を表に出しにくくする。そうすることでリシャールは自分を――そして周りの者たちを、守ってきたのだ。
思うままに変化し、思うままに爪を振るう方が楽だろう。爪と牙があれば、彼を罵倒する者だって一瞬で切り裂き黙らせられる。彼に刃向かう者はいなくなる。
(でも殿下は、その道を選ばなかった。むしろ陛下のために出陣したり、夜な夜な城を離れて悪漢を倒したりして……)
手を滑らせ、リシャールの手の甲にそっと触れる。一瞬びくっと震えたが彼は抵抗せず、優しく手の甲の筋をなぞり、爪を撫でさせてくれた。
もう、その爪は伸びていない。いつもの、書類をめくったり菓子を食べたりするリシャールの手――サラにとって愛おしい、優しい手だ。
「……血の臭いが、しないか?」
「今日は大丈夫ですし、あなたが怪我をした血でないのなら、平気です」
「俺は、人殺しだ。君の祖国の民も殺したし、母も殺した。罪人だけでなく、巻き添えになった無辜の民に手を掛けたこともある」
「それは、あなたが欲望のままに行動した結果ではありません。異能だって、あなたが人を殺したくて欲した力ではありません」
「……俺は、散々君を粗雑に扱った。それなのに、俺が憎くないのか?」
「粗雑に扱われたことは少々ショックですが、お話を伺えばそれも仕方のないことだと分かりました。それにそもそも、私は厄介者ですからね」
リシャールは、押し黙った。
サラも何も言わず、少し俯くリシャールのつむじを見ていたが、やがて思いきって尋ねた。