28 解けた心①
翌日、サラはリシャールに命じられたとおり、風呂や用足し以外では一切部屋から出なかった。
いつもならたわいもないおしゃべりをするクレアも昨日から今日にかけてずっと黙りで、どことなく沈痛な面持ちだった。
リシャールはいつも通り明け方に戻ってきて、昼過ぎまで寝ているようだった。もちろん、いつものように茶を持っていったりしない。
彼の世話はダニエルが行い、壁を隔てた王兄と王兄妃が会話を交わすことはなかった。
……そして、夜。
「……クレア。わたくしは、殿下とお話をするために呼ばれているのよ」
小声で窘めるがクレアはいつになく頑固で、シュミーズ姿のサラに薄手のネグリジェを宛てがう。
「殿下はエルミーヌ様を、寝所にお呼びするのです。となれば、相応の服を着なければなりません」
クレアが淡々と言うので、サラはそれ以上何も言えずに口を閉ざし、クレアにされるがままに着替えと化粧をした。寝る前に化粧をするなんて、初めてのことだ。
(きっとクレアも、「まさかこんな形で呼ばれるなんて」って思っているだろうね)
仕度を終えてしばらく待っていると、白いドアが向こう側から解錠される音が響き、ドアが開いた。
そこに立っていたダニエルが「こちらへ、妃殿下」と堅苦しく言うので、サラはクレアと別れ、一人そちらへ向かった。
このドアが開かれることはないだろう、と思っていたのが、随分昔のことのように思われる。
そんな場合ではないと分かっていても苦笑を漏らしてしまうサラを痛ましげに見つめ、ダニエルはサラをリシャールのベッドに座らせると一礼して去っていった。
(……私、どうなるのかな)
白いドアも閉められ、独りぼっちの寝室でサラは思う。
不思議と緊張や恐怖は感じず、ただただ空虚で悲しかった。
リシャールは、彼の「真実」に触れてしまったサラを許しはしないだろう。元々望まれた花嫁ではないのだ。
サレイユとフェリエだったらフェリエの方に軍配が上がる状況でもあるし、鬱陶しい人質を消すことくらい、フェリエにとってはたやすいことだろう。
そして……サラは本当の王女ではない。もしサラがフェリエで処刑されたとしても、国王はぴくりとも感情を動かさないだろうし、エルミーヌだって「あらかわいそう」で済ませるのではないか。
虚ろな心で詮方ないことを考えていると、エントランスから続くドアが開いた。
柔い灯りを背に立っているリシャールは、寝る前だからか珍しい軽装だった。寝間着まで上下とも黒っぽい色なのは、もはや彼の趣味なのかもしれない。それでもやはり仮面は着けており、感情の読めない薄い唇が見えるだけだった。
リシャールはドアを閉めると、大股でベッドまで近づいてきた。サラが顔を上げると彼の唇がきゅっと引き結ばれ、不快を表す。
「……エルミーヌ・マリア・サレイユ」
「……はい」
結婚前のエルミーヌの名で呼ばれ、サラが従順に応じると、いきなりぐいっと右腕を掴まれて世界が反転した。
「きゃっ……!?」
体が傾いで思わず声を上げるが、サラの体はぽすんとベッドの敷布に受け止められる。
だが右腕はリシャールに掴まれたままだし、いつの間にかサラを押し倒した彼はベッドに右足を乗り上げ、自分の体でサラを縫い止めるかのように覆い被さってきていた。
リシャールが、顔を近づけてきた。拳三個分ほどだろう距離に、真っ白な仮面の顔がある。その二つ空いた隙間から、正体不明の炎を宿した緑の目が覗いているのがはっきり分かった。
「……殿下」
「……拒絶しないのか」
問う声は、こんな状況であるのに存外優しい。
だが隠しようのない悲哀と疲れが滲んでおり、サラの目尻がじわっと熱くなった。
「……殿下がお望みならば」
「……。……泣くほど悲しいのなら、拒絶すればいいだろう。化け物と、詰ればいいだろう。気味が悪いと、罵声をぶつければいいだろう」
「そんなことはいたしません」
ふるふると首を横に振ると、ちっ、と低い舌打ちの音がした。
いつもけだるげではあるが言動には気品が満ちているリシャールらしくもない行為に目を丸くしたのは一瞬だけのことで、彼の右手がぐいっとサラの寝間着の襟元を掴み上げ、繊細なリボン結びを一瞬で解いたためにひゅっと息を吸った。
ネグリジェの全体を支えるリボンが解かれ、首周りが一気に緩む。
リシャールはそこに手を伸ばすと、露わになったサラの首に触れ、親指の腹で頸部の血管をなぞり上げた。
未知の感覚にサラがぞわっと身を震わせると、それをどう解釈したのか、ふ、とリシャールの唇が嘲ったような苦笑を漏らす。
「細い首だ。……俺の爪があれば、君の首なんて一瞬で切り裂けるだろう」
それもそうだろう、と頭の片隅で冷静な自分が同意する。
なぜなら、リシャールは――
にわかに、リシャールが纏う空気が変わる。昨日の昼前に書斎で感じたのと似た空気が寝室に溢れ、サラの喉を掴むリシャールの手に力が込められる。
それだけでなく、彼の爪が伸びている。鋭い爪の先が喉に食い込み、痛さと呼吸の苦しさでサラは思わず顔をしかめてしまった。
「殿、下……」
「……」
サラは、見た。
自分を見下ろす若草色の目が、辛そうに、悲しそうに揺れているのを。
今、サラの生殺与奪の権利はリシャールにあるというのに、唇は引き結ばれ、震えていることに。
――だからサラは、空いている左手でリシャールの右手に触れ、今できる範囲で首を横に振った。
「なり、ません、殿下」
「……命乞いか」
「それも、あり、ます。でも……これを、したら……殿下が……苦しむ……」
「……」
命が惜しい。それは否定しない。
それだけでなく、こんなに辛そうにしているリシャールを放っておくこともできなかった。
彼が嬉々としてサラをなぶったり怒りに身を任せて攻撃してきたりすれば、サラだって全力で抵抗し、命乞いしただろう。
だが、こんなに悲しそうに首を絞めてくるリシャールに対して、声を荒らげることはできなかった。
ただただ悲しくて、泣きたくなってくる。自分の命を彼に握られているというのに、彼を憎むことさえできない。
サラの言葉が響いたのかは、分からない。
だが、ほんの少し彼の右手の力が弱まり、サラの手を拘束していた手も離れて、代わりにベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。
「……君は、俺が、怖くないのか」
「怖い、です。でも、私が怖いと思うのは、あなただけじゃない」
「……」
「あなただから怖いというわけじゃ、ないんです。私は、弱いから。私にとっては、強力な異能を持つ人も、武器を持つ人も、全員怖いから。だから……あなたが特別じゃ、ないんです」
は、と小さく息を呑む音。
迷うように震えていた右手が一度、サラの首筋を爪の先でなぞり――ゆっくりと、離れていく。
ようやくまともに呼吸できるようになったサラが浅く喘いでいると、リシャールはまたしても小さく舌打ちをした。
「……」
「……殿下?」
「君ももう、気付いているだろう。俺の……異能について」
リシャールに尋ねられ、サラはしばし迷った後に頷いた。
本城で聞いた噂。
夜な夜な外出するリシャール。
そんな彼から漂ってきた、獣と血の香り。
そして――書斎でも先ほども見られた、リシャールの変化。