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27 触れた真実②

 ルーンは親指一本分ほどの直径のつやつやとした緑色の果実で、表面の薄皮を剥いて食べる。その皮はナイフなどの先端で一箇所切れ目を入れることで、つるっと全てがきれいに剥ける。


 サラはクレアからナイフを借り、房になったルーンの実の中でもとりわけ大粒できれいなものを二つ選んで、皮を剥いた。


「お持ちしますね」


 剥いたルーンの実を皿に載せ、フォークを添えてデスクに向かった――とたん、サラは身を強張らせた。


(あの臭いが、強くなった……?)


 ただの犬や猫とは違う獣臭さと、鉄さびのような――血の臭い。


 思わず取り落としそうになった皿をしっかり掴みつつ、サラは目を見開き、臭いの出所――リシャールを凝視してしまう。

 皿を持ったまま動きを止めてしまったサラを不審に思ったのか、書き物をしていたリシャールが顔を上げた。


「……どうかしたのか?」


 リシャールが首を捻り、わずかに髪が揺れた。

 ――血の臭いが、強くなる。


「……で、殿下!」

「な、何だ!?」

「どこか……お怪我をなさっているのですか?」

「……俺が怪我を?」


 思いきって問うたが、リシャールはきょとんとするばかり。

 確かに、負傷して体のどこかに不調が生じている様子でもない。だが、サラは自分の鼻と勘の方を信じていた。


 サラはルーンの載った皿を置き、両手を胸の前で組んでじっとリシャールを見つめる。


「……俺はどこも怪我をしていない。いきなり何を言っているんだ?」

「それは……殿下から、血の臭いがしまして」

「えっ……」


 仮面の向こうで、リシャールの緑の目が限界まで見開かれた気がした。


「それから、動物のような臭いがするので……もしかして殿下は、野生動物にでも襲われたのか――」


 バンッ! と凄まじい音を立ててデスクが叩かれ、最後まで言葉にならなかった。


 弾みで皿が傾き、転がり落ちたルーンの実がぺしゃりと床で潰れる。その他にも、デスクに危うい角度で積まれていた本や資料なども滑り、バサバサと落ちていく。


 デスクを叩くと同時に立ち上がったリシャールを前に、サラは何も言えなかった。仮面で隠れていない彼の唇は忌々しそうに歪められ、ぎりぎりと噛みしめられた犬歯が見えている。


 ……彼が仮面を被っていて、正解だったのかもしれない。

 間違いなく今の彼は、憎悪と怒りに満ちた眼差しをサラに注いでいるのだと分かったから。


「……で、んか……?」

「……出ていけ」

「あ、あの、すみません、私、余計なことを……」

「……分かっているのなら、ここから出ていけ!」


 唸るようにリシャールが言った。

 ……いや、実際に彼は、唸った。


 ざわり、と書斎の空気がざわめき、悪寒が走ったかのように肌という肌が粟立つ。

 獣の臭いが、濃くなる。

 息が苦しい。訳も分からず、涙が溢れそうになる。


(これは……何?)


 サラは、何も言えなかった。

 デスクに叩きつけたままのリシャールの手が震え、手の甲に血管が浮かび上がる。軽く俯いた姿勢の彼がゼイゼイと荒い息をついたところで、サラと同じく放心していたらしいクレアが駆けつけてきてサラの腕を引っ張った。


「エルミーヌ様、こちらへ!」

「うっ……」

「ダニエル!」


 クレアが叫んだところで、異変を感じたらしいダニエルも書斎に飛び込んできた。そのままサラの体がふわっと浮き、ダニエルの方まで引き寄せられる。彼が異能を使ってサラをリシャールから引きはがしてくれたのだ。


 思考停止していたサラはダニエルに庇われるように抱かれながら、震える唇を開いた。


「ダ、ダニエル……」

「こちらへ!」


 有無を言わせずダニエルはサラを抱えて書斎を飛び出し、そのままエントランスも駆け抜けると廊下に出た。

 そこまで来てようやく、息苦しさから脱することができて、サラはけほっと咳き込んだ。


「ご、ごめんなさい。あの、ダニエル。今のは――」

「どうか……どうか、何もおっしゃらないでください」


 尋ねようとした声は、懇願するようなダニエルの言葉を聞いて呑み込んだ。

 いつもぱりっとしているお仕着せをぐしゃぐしゃに乱し、髪も逆立てたダニエルは辛そうに視線を落とし、床に尻餅をついていたサラを引っ張って起こしてくれる。


「殿下はずっと、苦しまれていたのです。……エルミーヌ様が色々尋ねられたい気持ちは、よく分かります。ですが今は――」

「……」


 それ以上何も言えず、サラは唇を閉ざした。


 まぶたを閉じて思い出すのは――低い咆哮を上げるリシャールではなくなぜか、床に落ちて潰れたルーンの実だった。











 夜遅く。

 低い話し声に続き、クローゼットを開けたり閉めたりする音が聞こえ、サラはベッドから体を起こした。


 ルームシューズだけ履いて寝室を出るとその先のリビングには、待ちかまえていたように部屋の中央に立つクレアの姿があった。普段、彼女は夜になると自室に戻るので珍しい光景だ。


「クレア……」

「……エルミーヌ様。申し訳ありませんが、お部屋から出さぬようにと言われておりますので」

「分かっているわ。……殿下がご出発なさるのでしょう? ご挨拶をしたいの」


 サラが強気に言うと、明らかにクレアの顔が歪んだ。サラの言葉に不快感を催したというより、サラの決意を痛ましく思っているような、憐憫の籠もった眼差しだ。


「……おすすめしません」

「分かっているわ。……今夜はまだ、おやすみを申し上げられていないの。それを言うだけだから」

「……」


 なおもサラがしつこく食い下がるからか、やがてクレアは白旗を揚げ、ガウンだけ着せてくれた。

 彼女に礼を言い、サラはドアの前でしばし待機した後、書斎のドアが開く音を確認してエントランスに出た。


 ほのかな灯りに照らされ、ちょうど書斎から出たところらしいリシャールの姿が目に入り――サラの目尻から、ほろりと涙がこぼれた。

 黒衣と顔面を覆う仮面を身につける彼は最初、サラを見て息を呑んだようだが、しばらくの沈黙の後にくぐもった声が聞こえてきた。


「……なぜ、君が泣く」

「……分かりません。殿下のお姿を拝見したら、なぜかこうなりました」

「……」

「……おやすみなさいませ、殿下。お戻りを、お待ちしております」

「……君」


 目的は達成したので部屋に引っ込もうとしたら、呼び止められた。

 振り返ると、両手の拳をぎゅっと固め、エントランスに立つリシャールの姿が。


「……君は、もう、気付いているのではないか」

「……」

「……明日の夜、君を部屋に呼ぶ。それまで部屋から決して出るな」


 いつもなら「出ないでくれ」と柔らかに表現するリシャールの命令口調は、心臓が冷たくなるほど悲しい。

 だが、それを口にするリシャールの方もひどく傷ついているのだろうと容易に察せられ、サラは大人しく頷いてお辞儀をした。


「……かしこまりました」


 リシャールは、何も言わない。


 コートの裾をひらめかせてエントランスを歩き去っていったリシャールからは、ほんのわずかだが、サシェの甘い香りが漂っていた。

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