25 王兄の過去
国王とリシャールが小声で話し合っている、ちょうどその頃。
隣の部屋でサラは、本城の侍女が淹れた茶で一服していた。
「おいしい……」
侍女は茶だけ淹れるとしずしずと去っていき、ダニエルも「僕は廊下にいますね」ということで、狭い応接間にはサラ一人だけになった。
狭いといっても、先ほど国王と話をした部屋よりも小振りというだけで、十分くつろげる。棚に飾られた置物や果物を描いているらしき絵画、星くずの光を纏っているかのように炎を揺らめかせるシャンデリアなど、調度品もサラの趣味に合っていて居心地がいい。
(それにしても、国王陛下は思っていたのとはちょっと違ったけれど、殿下とのご兄弟仲もよさそうだし、お会いできてよかったな)
ずばずばと切り込まれたときには答えに窮してしまったが、国王の立場としてはサラを警戒するのも当然のことであるし――何より、すぐにリシャールが声を上げ、サラのために怒ってくれたのが嬉しかった。
『あまり俺の妃をいじめるな』
苛立ちを込めたリシャールの低い声が、頭の中に蘇り――ぽっ、と頬が熱くなる。
リシャールはサラのことを、名前で呼ばない。呼ぶときは「君」だし、他人の前でも「妃」と呼ぶ。
それについて、サラの方から物申したことは一度もなかった。リシャールなりに考えがあってこう呼んでいるのだろうし、正直なところサラにとってもありがたかったからだ。
(「エルミーヌ」と呼ばれたら、私はエルミーヌ様の身代わりになってしまう。でも「君」なら、私だけを示すのだと思える……)
それは、浅はかで幼稚な自己満足なのかもしれない。
だが、「君」と呼んでくれるリシャールの声や、呼ぶときの眼差しを――サラは、とても好ましく思っていた。
正装姿のリシャールのことをぼんやりと考えていたサラは、風が窓を打つ小さな音ではっと我に返った。
(って、何ぼんやりしてるの! 私は偽物の王女だし、殿下とは政略結婚だし、勘違いしている場合じゃないのに!)
もし……もしもリシャールがサラに好意を抱いてくれても、彼を欺いているということに違いはない。とはいえ、もし彼がサラのことを「エルミーヌ」と呼べば――心にひびが入り、ばらばらに砕けてしまうかもしれない。
(……うう、頭が煮えそう……外、出られるかな……)
幸い、ちらっと見やった窓の外は小雨も止んでおり、相変わらずの曇天ではあるが外に出ても濡れる心配はなさそうだ。
立ち上がり、ベランダに続くガラス戸を押し開ける。その拍子にぱたぱたと降ってきた雨粒をかわし、サラはしっとりとしたベランダに出た。
手すりはびしょびしょに濡れているが、ガラス戸付近に立っているだけなら濡れなさそうだ。雨上がりの空気は澄んでいて、土と泥と、雑草を千切ったときのような匂いがした。
ほどよい湿気は、肌にも潤いを与えてくれる。
(……ああ、でも殿下は、髪がはねるから湿気は嫌いだっておっしゃっていたっけ)
そう呟いていたときのリシャールの顔を思い出し――せっかく頭をすっきりさせようと思って外に出たのに、また頬が熱くなるのを感じてしまう。
(……私、こんなに殿下に入れ込んでしまっていたのかな……)
フィルマンと交際していたときにはこういうふうに、折に触れて彼のことを思い出したり彼の言葉や表情が脳裏に浮かんだりすることはなかった。リシャールよりフィルマンの方が付き合った年数も圧倒的に長いのに、どうしてここまでの差が生まれたのだろうか。
「……あら、雨が止んでいたのね」
「いい風が入ってくるし、開けておきましょう」
しっとり濡れた庭を見下ろしながらぼんやりしていると、下の方からドアの開く音に続き、複数の女性たちの話し声が聞こえてきた。どうやら一階下の部屋で若い女性たちがおしゃべりをしているようだ。
(そういえばサレイユ城にも遊戯室や談話室があって、貴族の人々の交流の場になっていたっけ……)
なんとなくその場に立っていると、潤いを含む風に乗って女性たちの声が届いてくる。
「それで……何の話だったかしら?」
「殿下よ殿下。離宮の引きこもり殿下。今、珍しくも本城に来てらっしゃるそうじゃないの」
……まさか、こんなタイミングでリシャールの噂話を聞くことになろうとは。
すぐにきびすを返して部屋に戻ることもできたが、胸の奥から湧いてきた好奇心を抑えることができず、サラは息を潜めて女性たちの会話に耳をそばだてた。
「らしいわね。なんでも、王兄妃殿下を伴って来るよう、陛下に命じられたとか」
「王兄妃って……サレイユの王女殿下でしょう?」
「そうそう。わたくしもご本人を見たことはないけれど、離宮の使用人曰く、可愛らしくて愛嬌のあるお方らしいじゃない。それなのに殿下の妃なんて……サレイユの人間とはいえ、おかわいそうだわ」
盗み聞きをしている身分で偉そうなことは言えないが、サラはむっと唇を尖らせた。
離宮の使用人がどのような噂をしているのかは知らないが、自分を褒められることよりもリシャールを貶すような言い方をされる方が気になった。
(というか、いくら引きこもりとはいえ自国の王兄殿下に対して随分な物言いじゃないかな……)
サラと同じようなことを思った女性は、階下にもいたようだ。
「およしなさい。殿下もおかわいそうな身の上なのだから」
「そうよ。……わたくしたちが物心付くよりも前の話だけれど、妾妃様は相当厄介なお方だったそうじゃない」
「殿下が異能持ちでないと知って、異様に殿下に執着するようになったとのことだけど……それが本当なら、確かに殿下もお気の毒だわ」
(なるほど。そういうふうに考えられているのか……)
リシャールが異能持ちでない可能性が高いことはダニエルから、亡き妾妃が息子リシャールと一緒に引きこもっていたというのはクレアから聞いていた。
確かに、王位につけるかと期待した息子が王侯貴族に現れやすいという異能を持っていなかったため、妾妃はショックを受けて心を病んでしまった、というのは十分考えられることだろう。
(……でも、これ以上は野暮になりそう)
噂はあくまでも噂だ。
噂に踊らされ、リシャールその人を見なくなることがあってはならない。
そう思ってきびすを返しかけたサラだが、聞こえてきた声にぴたっと足を止めた。
「でも、本当なのかしら……妾妃様は殿下を必要以上に束縛したために、『黒き獣』の制裁を受けたのだ、って噂」
「堂々とは言えないけれど、そう考えている人は多いわよね。……半年前のサレイユとの国境戦でも『黒き獣』はフェリエ軍の前に現れたそうだし、つい最近も『黒き獣』が郊外に現れて、指名手配中の罪人を処刑したそうじゃない」
「妾妃様のご遺体にも、たくさんの傷があったとのことでしょう? まるで、獣に襲われたかのような……」
おそらく、彼女らが話題に挙げた「黒き獣」は、サラもしばしば耳にしていた何らかの異能関連のことだろうが――さすがにこれ以上聞くと、正常な判断ができなくなりそうだ。
音を立てずに部屋に戻って、ドアを閉める。
テーブルに向かってティーポットに触れたが、今の間に茶はすっかり冷めてしまっていた。
(殿下……)
妾妃の息子で、おそらく異能の力を持たないだろう王兄リシャール。
彼の幼少期がどのような日々だったのか、きっとサラには想像できないだろう。
(実の母親に束縛された末に、「黒き獣」によって殺されたなんて……)
ただ単に辛いとか悲しいとかではないだろう。
おそらく、容易にサラが踏み込んでいい領域ではない。
ふう、と息をついたところで、ドアがノックされた。顔を覗かせたダニエルが、「殿下たちのお話が終わりましたよ」と教えてくれる。
「お茶を楽しまれているところ申し訳ありませんが、そろそろ戻りましょうね」
「分かったわ」
サラは返事をし、冷ましてしまった紅茶に申し訳なく思いつつ席を立った。
これからリシャールと一緒に離宮に戻るのだ。
彼の前で、変な顔はしたくなかった。
ダニエルに付き添われたサラが応接間を後にした、その頃。
「『黒き獣』ね……それって本当に異能なの?」
「よく分からないわ。夜にしか現れなくて、罪人を殺すと返り血を浴びたまま、風のように去っていくという噂だけど……」
「悪人を退治してくれるのだからありがたいとは思うけれど、王都周辺には近寄らないでほしいわよね」
王兄妃が盗み聞きしていたことを知らないまま、令嬢たちの噂話は続いていた。