23 若き国王と王兄①
約半年前、サレイユ軍がフェリエの寡兵により退けられた国境戦。
そもそもの発端は、フェリエがサレイユの承認を受けずに十六歳の新国王を立てたことにあった。
サレイユでは、「他に候補がいないからといって、強引に若き王を即位させたフェリエに咎がある」という見解だったが、何ということはない。
病没した先代国王は遺言できちんと、「王太子エドゥアールを次期国王にすること」と述べているので、フェリエはそれに従っただけのことだ。
さらに言うと、フェリエはサレイユの属国でも何でもない。昔から、大陸の諸国では国王の没後、他国の王の承認を受けて新国王を即位させることになっている。
とはいえ、近隣諸国の議会に新国王の即位に関する報告を行う義務はあるが、他国の君主による承認制度自体は既に形骸化しており、異を唱えてもほとんど意味をなさない。
サレイユ王は、先代国王の急死、そして王太子がまだ年若いことに目を付け、フェリエを属国化させようとしたのではないか、とサラは踏んでいる。
サレイユの人間は異能を恐れているが、もし属国化させられたのならば、異能は脅威にならず――むしろ、フェリエの人々を酷使できると狙ったのではないか。
だから、エドゥアールはサレイユのいちゃもんを突っぱね、戦争を吹っかけられたときにも堂々と立ち向かった。
そうして勝利を収めサレイユの王女を人質として嫁がせることを条件に、相互不可侵条約を結ばせたのである。
(……でも、サレイユは本物の王女ではなく影武者である私を送り込んだ。それが露呈したら……私は殺される。そして今度こそ、サレイユに血の雨が降る)
サラは国王と会うために応接間で待たされていたが、今になって「自分」という人間の重みを感じ、膝の上でぎゅっと拳を固めた。
正直なところ、ふわふわ笑いながらサラの思いを踏みにじったエルミーヌや、そんなエルミーヌのためならサラを犠牲にすることも厭わない国王にかける温情はない。むしろ、自分がフェリエに戦争を吹っかけて敗北したのだから、娘を差し出してでも償いをしろ、と言いたくなる。
だが、もう切り捨てたつもりではあるがあの国はサラが生まれ育った場所で、そこには政治とは無関係の人々がたくさん暮らしている。男爵令嬢時代、サラは両親に連れられて積極的に市井と関わり、そこで生きる人々と触れあってきた。
自分の命は惜しい。屈辱にまみれ、「偽物」と罵倒されて殺されるなんて、絶対に嫌だ。
だがそれに加えて……サラのことなんて知らない、王族になんて会ったこともない、今を生きるだけでも精一杯の人たちまで犠牲になれ、とも思えなかった。
「……君、大丈夫か?」
「……え?」
声がしたので隣を見ると、並んで座るリシャールが眉を垂らし、気遣うような眼差しでサラを見ていた。
彼との距離は、拳一つ分ほど。そんなリシャールだからか、サラの拳が震えていることに気付いたようだ。
「震えているようだが……雨が降っているし、寒いのなら上掛けでも持ってこさせよう」
「……い、いえ。寒くはないです。その……緊張していて」
「エドゥアールに会うことが、か? ……大丈夫だ。弟は、俺と違って社交的で会話もうまいし、まあまあ優しいやつだ。公務の書類の中に、君のことを聞かせろという落書きをねじ込むような性格だから、緊張するまでもない」
「……殿下も十分お優しいと思いますよ?」
国王のことは分かったがあまりにも自分を卑下しすぎだと思って突っ込むと、リシャールは気まずそうに視線を逸らしてしまった。
「……俺は今、そういう話をしているのではない。……とにかく、弟は君のことをとても気にしていた。質問攻めが鬱陶しいと思うことはあっても、君を怖がらせたり傷つけたりするような発言は絶対にしない。もしするようなら、さすがに俺も物申す」
「……あはは、なーんだ! 兄上、お妃様とうまくやっているんじゃないか!」
しっとりしていた室内にいきなり明るい笑い声が満ち、サラはぎょっとして思わず隣にいたリシャールの腕に抱きついてしまった。
いつの間にか開いていたドアからこちらへやって来たのは、柔らかい銀髪の少年だった。キャラメル色の上質なコートを着ており、リシャールと同じ緑色の目はおもしろいものを見つけた子どものようにニッと細められて、口元にも笑みが浮かんでいる。
リシャールが月なら、この少年は太陽だ。同じ系統の色の髪、同じ色の目を持っていて――同じ父親を持っていても、彼らの纏う雰囲気は全く異なっていた。
彼はリシャールに抱きつくサラと、じとっとした目で自分を見るリシャールを眺め、ふふっと笑った。
「ああ、妃殿下にはご挨拶が遅れましたね。……お初にお目に掛かります、エルミーヌ姫。私はそこにいるリシャールの弟で、フェリエ王国国王のエドゥアールと申します」
「お初にお目に掛かります、陛下。サレイユから参りました、エルミーヌでございます」
「わっ、可愛い声。……兄上が羨ましいな。こんなに可愛いお妃様とずっと離宮で暮らせるんだから」
国王エドゥアールはうりうり、と兄の肩に肘を入れるが、対するリシャールは半眼になって鬱陶しそうに弟の胸を押しやった。
「妃の前だ、やめなさい。……見てのとおり、弟はこのような人間だ。だから、そう肩肘張らなくても大丈夫だ。……あと、そろそろ離れてくれないか」
そういえば、さっきからずっとリシャールにくっついたままだった。
「あ、そうですね。すみません」
「そんなこと言って、兄上。本当はお嫁さんにもっと抱きついてほしかったんでしょう?」
「からかうんじゃない。……まったく、皆の前ではお利口にしなければならない気持ちも分かるが、俺の前だからといって気を抜きすぎだ」
脚を組んだリシャールが苦言を呈するが、向かいのソファに座った国王は懲りた様子もなく笑顔でひらひら手を振った。
「いいじゃないか、家族の前くらい。……ああ、そうだ。エルミーヌ姫もこれから私の家族になるんだよね。これからは義姉上と呼んでもいいかな?」
「……えっと、陛下のお気持ちのままに」
「ありがとう! ……ああ、そうだ。かなり遅れてしまったけれど……二人とも、結婚おめでとう」
改まった様子で言われたので、少しこの国王との距離感を掴みかねていたサラも姿勢を正し、リシャールと揃ってお辞儀をした。
「……ありがとうございます、陛下」
「……感謝する」
「どういたしまして……ってのも変かな。サレイユを牽制するためとはいえ、兄上たちが結婚することになったのは私が原因だからね」
腕を組んだ国王が少し困ったように笑うので、サラは顔を上げてゆっくりと首を横に振った。
「そのようなことはございません。わたくしは……多くの民に血を流させることになった父の判断の責任を負うことも、フェリエとの信頼関係を築くために身を投じることも、承知の上でフェリエに参りました。そんなわたくしは、離宮で不自由のない暮らしをさせていただいています。陛下のご配慮に、深く感謝しております」
……話しながら、なんと白々しいことだろうか、と笑い飛ばしたくなる。
無駄な戦争を仕掛けた「父」はサラの父親ではないし、その「父」は自分の娘可愛さのあまり、サラを代理にするということでフェリエを裏切った。
真実を知られたら、間違いなくサラは処刑される。
そして、何も知らない多くの民が敗戦時以上の報復を受けることになる――
胸の奥で薄暗いことを考えるサラの気持ちを知ってか知らずか、国王はさもありなんと言わんばかりに頷いた。
「どういたしまして。……ただ、義姉上がこちらに来たからあの戦いの全てを水に流したわけではない。我々は精鋭の異能持ちによってサレイユ軍を退けたけれど、こちらにだって被害は生じている。死者だって出た。私の即位に難癖を付けて戦争を仕掛けたのは、サレイユの方だ。その罪が消えることはない」
「……はい」
「もちろん、深窓の姫君だった義姉上が政治に関与するわけがないし、あなたの兄君である王子殿下も僻地に追いやられているそうだから、進軍を決行したのは国王や宰相が原因だ。とはいえ義姉上は人質のようなものだから、これからも目を光らせ――ちょっとちょっと、兄上。『殺されたいのか』って目で私を見ないでくれる?」
「……分かっているのなら、あまり俺の妃をいじめるな」
隣で唸るようにリシャールが言ったので、国王の言葉を甘んじて受けていたサラは驚いて隣を見やった。
リシャールは黙って弟の話を聞いているのだと思っていたが、明らかに顔は不機嫌そうだし、苛立ちを表すように指の先がとんとんと膝頭を叩いている。そして、先ほどの発言。
(殿下、私のために怒ってくれたの……?)