22 お手をどうぞ
しとしとと雨の降るある日、サラとリシャールは揃って本城に呼ばれることになった。
「殿下……大丈夫ですか?」
「行きたくないが、さすがに行かねばならないだろう」
リシャールは、はあっと大きなため息をついた。彼の正面のテーブルには、本城から届いた書状が転がっている。
これが届いたのは、三日ほど前のこと。リシャールの異母弟である国王からで、「いい加減挨拶をしたいから、夫婦揃ってくること。いいね?」という旨がやたら堅苦しい文体で書かれていた。
(そういえば、太后様にはご挨拶をしたけれど、国王陛下にはお会いしたことがないな……)
リシャールと結婚して一ヶ月経ったが、離宮での日々は驚くほど穏やかで、本城との関わりもあまりない。リシャールは引きこもりなので何か用事があるときも本城の方から使者がやってくるため、これまでもほとんど問題はなかったのだ。
向かいに座るリシャールをちらっと見る。
いつもは黒っぽい服を好んで着るリシャールだが、さすがに今日は礼服に着替えていた。フェリエの男性礼服はサレイユのそれよりも上着の丈が長く、ボタンやバッジの代わりに紐やサッシュベルトで服を留めている。
本人はものすごく嫌らしいが、仮面も外している。髪と同じ色の形のよい眉は不快を表すようにぎゅっと寄せられ、眉間にも深い縦皺が刻まれている。髪には櫛が通されているのだが、元々癖持ちであることに加え今日は雨で湿気ているからか、リボンで束ねた髪の先が少しはねているのはちょっとだけ可愛らしいと思ってしまった。
(それにしても……殿下って本当に端整でいらっしゃるな)
あまりしげしげと見ると不快な気持ちにさせるだろうと思って、ちらちらとさりげなく見てみる。
白地に金の模様が入った礼服を着こなすリシャールは、腐っても王族。頬杖をつくという姿勢でもその品位は失われないし、物憂げに半分伏せられた目やため息を吐き出す唇、体の線は細いが男らしいラインを描くのど元など、あちこちに見惚れてしまいそうなポイントが散りばめられている。
いつも書き物をしたり茶を飲んだりする手には白い手袋を嵌めているが、間近で見るとその手は大きく、骨張っていることが分かる。サラの手なんて容易に包み込んでしまえそうだ。
……さりげなく観察しているつもりだったが、じろりと緑の目で睨まれてびくっと身を震わせてしまう。
「……さっきから何だ? 言いたいことがあるのか?」
「あ、ああ、いえ、言いたいことというほどでも……」
「躊躇わずに言うといい。君は俺の妃だからな、君の目から見て何か不自然に映る箇所でもあるのなら変えるから、意見を聞きたい」
「それは……」
「特にありません」と言えばよかったのに下手に誤魔化してしまったからか、リシャールはじっとサラを見てくる。
(今までは仮面越しだから分からなかったけど……殿下って、こんなに真っ直ぐ人を見つめるんだ……)
端整な容姿を持つ男に見つめられ、じわじわと頬に熱が集まってくるのを感じる。それでもリシャールは諦める様子を見せないので、とうとう観念してサラは視線を逸らしつつ口を開く。
「その……殿下がとても、か、格好よくて……」
「……うん?」
「あの、礼服がとても似合ってらっしゃって……それに殿下は、とても端整なお顔ですし……つい見とれてしまいました」
「……」
リシャールは黙っている。
てっきりすぐに不快そうな顔で「何を言っているんだ」などと言われると思いきや、彼は目を細め、何か考え込むようにサラを見ていた。先ほどのような刺すような視線ではないが、少し物憂さを感じる眼差しに見つめられると居心地が悪くなる。
「……あの、殿下」
「……ありがとう」
「えっ」
「えっ、とは何だ。……君は俺のことを褒めてくれた。正直、自分の容姿なんて頓着したことがないのだが……君に褒められるのは、そこまで悪い気がしないと思った。だから礼を言った」
意外だ。
(否定するとか、困るとか、そういう反応されると思っていたけれど……)
実際にリシャールは、そこまで不機嫌でもなさそうだ。褒められて大喜び、にはほど遠い反応だが、サラの褒め言葉を素直に受け取ってくれた。
サラが言葉を失っていると、リシャールは目を細めてサラの姿を上から下までじっくりと見た後、「……それに」と、少し掠れた声で続ける。
「……君も、よく似合っている。ドレスは俺が用意したものだが……そのコサージュは、結婚式でも付けていたな。大切なものなのか?」
サラは、すぐには返事ができなかった。
「よく似合っている」と優しい声で言われ、脳みその動きが一瞬止まった。確かにこの、リシャールの礼服と意匠を揃えたドレスは彼から贈られたものなのだが、あんなにさらりと穏やかな表情で「似合っている」と言ってもらえるとは思わなかった。
(か、かなり嬉しい……かも……)
しばらく沈黙して感動に浸った後、コサージュについて問われているのだと思い出した。
「……あ、えっと……はい。このコサージュは、母の形見なのです」
「母君の?」
「はい。……あっ」
思わぬ褒め言葉に動揺していたため、失言してしまった。
それに気付き、ざあっと体中から血の気が引くのを感じる。
このコサージュは「サラの」母である男爵夫人の形見であり、「エルミーヌの」母であるサレイユ王妃の遺品ではない。
(しまった! ……う、ううん。まだ十分、誤魔化せる……!)
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせ、リシャールの視線を感じつつ必死に頭を働かせる。
不幸中の幸いなことに、エルミーヌの母であるサレイユ王妃もエルミーヌが二歳頃のときに病没している。だから「母の形見」はなんとか押し通せるが、このコサージュは王妃の所有物にしてはあまりにも安っぽすぎるし、エルミーヌは王妃について「全然記憶にない」とあっけらかんと言っていたではないか。
物心付く前に死んだ母の持ち物に愛着を抱くのは、難しいことかもしれない。だが、一度言ってしまった台詞を回収することはできない。
(自分が蒔いた種なのだから、切り抜けないと!)
苦い唾を飲み込み、サラは目を閉じて微笑んだ。
「……はい。母のことは覚えていないのですが、たくさんある形見の中で、これが個人的に気に入ったのです。コサージュなら、結婚先に持っていっても大丈夫だと思いまして」
言いながら、我ながらまともな言い訳ができたものだと感心する。
王侯貴族に嫁いだら、身の回りのものは全て夫が用意する。むしろ、夫以外の者から贈られたものをたやすく身につけてはならないのだ。
だが女親の形見なら問題ないし、コサージュの場合は直接肌に触れるわけでもないので怪訝な顔をされることはほとんどない。
予想通り、リシャールは納得したように眉を垂らした。
「……そういうことか。確かに、とてもきれいなコサージュだな」
「ありがとうございます。……ふふ」
「どうかしたか?」
「殿下、さっきより穏やかな表情になってますよ。今の方がずっと素敵に思われます」
サラが指摘すると、虚を突かれたようにリシャールは目を丸くした。どちらかというと吊り目で、肖像画でさえ不機嫌そうな顔をしていた彼のそんな表情は新鮮だ。
サラに言われて、リシャールはそっと自分の額に手を当てる。表情が緩んだことに今気付いたようで、「……確かに」と呟く。
「君と話をしていると、だいぶ気持ちが楽になった。……行きたくない気持ちは、まだ十分にあるがな」
「では、もしお疲れになったらわたくしに言ってくださいね。殿下は先に離宮に戻っていただき、わたくしが話をしますから」
「そんな情けないことはできない。……やるべきことはきちんとやる。だから、その……よろしく頼む」
……口元を緩め、ほんのわずかな笑みを浮かべてリシャールが言うものだから。
「……はい、こちらこそ」
このまま本城に行かず、リシャールと二人で雨の音を聞いていたい、と思ってしまったサラだった。
離宮から本城まで、晴れている日なら徒歩で移動できるが、本日は朝からずっと雨で足元もぬかるんでいるため、移動は馬車を使うことになった。
「さあ、手を」
「ありがとうございます、殿下」
馬車の中では今日の予定などを話していたサラたちだが、本城の正面階段前で降りるときにはきりっと表情を引き締めた。
先にリシャールが降り、ダニエルが傘を差してくれる中、サラの手を取って下ろしてくれる。サレイユでは妻が先に降りて夫のためにドアを開けるのだが、フェリエでは逆のようだ。
周りには、本城の騎士や使用人たちがずらりと控えている。彼らがお辞儀をする前で、サラはリシャールの腕に掴まり、彼と足並みを揃えて階段を上がる――ことになっているのだが。
「あ、あの、殿下」
「ん?」
「……この握り方でいいのでしょうか?」
サラが示す「この握り方」とは、リシャールの左手がサラの右手をぎゅっと握っている状態のこと。
(離宮でクレアから教えてもらった歩き方じゃない気がするけど……)
だがリシャールは自分の左手を見、サラを見て目を細めた。
「……別に、夫婦がくっついていれば何でもいい。それに、君はせっかくこんなにきれいなドレスを着ているのに、俺の腕にしがみついたら裾を踏んでしまいそうだ」
「……確かにそうですね」
ちらっと周りを見るが、二人がぎゅっと手を握っていても誰も反応しないし、傘を差すダニエルも「高位貴族や王族なら、こういうのもいいんですよ」と耳打ちしてくれた。王侯貴族の特権ならば、そういうものかと納得できる。が。
(……サレイユではこれのことを、「恋人つなぎ」って言ってたっけ)
リシャールと一緒に階段を上がりながら、サラは頬と耳がほんのり熱を持つのを感じていた。
ミトンを嵌めた手でもできるようなつなぎ方なら、サラも父親やエルミーヌとしたことがある。だが、五本の指を絡めるようなこのつなぎ方は、サレイユでは本当に仲のいい恋人や夫婦くらいしかしているのを見たことがない。
(フィルマンも、「このつなぎ方は指が疲れる」って言って、してくれなかったし……)
自爆ではあるが元恋人のことを思い出して少しイラッとしてしまうが、すかさず顔を右に向ければ涼しげな美貌の夫の横顔が目に入り、心が浄化された。
このつなぎ方は、フェリエではそれほど珍しくもないのかもしれない。そうだとしても、サラはリシャールがドレスや歩きやすさのことを考えてエスコートの方法を変えてくれたということが、純粋に嬉しかった。
……少しだけ、右手に力を入れる。
すると、かなりの沈黙の後、リシャールは応えるようにサラの手を握ってくれた。
(殿下……)
もう一度、リシャールの横顔を見る。
彼は若草色の目を真っ直ぐ正面に向けていたが、黒灰色の髪の隙間から覗く耳はほんのり赤かった。