21 予兆の香り
翌朝、事情を聞いていたらしいクレアが青い顔で謝ってきた。
「申し訳ありません、エルミーヌ様!」
「いいえ、いいのよ。あの睡眠薬は熱を加えると匂いが強くなるから、クレアも気付かずに間違ってしまったのでしょう?」
サラは鷹揚に手を振って言い、萎縮するクレアに微笑みかける。やはりあれはクレアの間違いだったようで、彼女は本当なら柑橘類の入った茶を用意するつもりだったと分かった。
「今晩は、普通のお茶をお願いね。……それと、殿下はまだ休まれているのかしら?」
「え、ええ。昨晩はダニエルと一緒にお出かけになられたので、まだ眠いそうです」
クレアの言葉に、おや、とサラは目を丸くした。
(……ということは、クレアは殿下が外出なさったことを知っているのね)
リシャールには「口外するな」と言われていたのだが、クレア相手ならよさそうだ。
そう思いつつクレアが持ってきてくれた朝食に手を伸ばすサラだが、クレアは少し躊躇った後、「エルミーヌ様」と呼んできた。
「あの……目が赤いようですが、大丈夫ですか?」
「えっ、そう?」
どきっとして、フォークを持っていない方の手でそっと顔の周りに触れてみる。
昨夜、リシャールとの接し方に悩みはしたが、泣いたのはほんの一瞬だけだ。その後もなかなか寝付けなくてベッドの中で洟を啜ることもあったが、クレアに気付かれるほど目が充血していたとは思わなかった。
「はい。目の周りも赤いですし……昨夜、殿下に何か言われましたか? ダニエルからは、偶然目を覚まされたエルミーヌ様が殿下を見送られた、としか伺っておりませんが……」
「……いえ、何も言われていないから大丈夫よ」
……そう、何も言われていない。
リシャールの個人事情に首を突っ込んではならない、邪魔をしてはならないと、初日に言われていたではないか。リシャールは夜中に起きて自分の行動を邪魔しようとしたサラを叱っただけで、それに対してサラが勝手にショックを受けただけのこと。
サラは頑張って微笑み、かりっと炒めたベーコンを切り分けつつ言う。
「殿下が目覚められたら、お茶をお持ちしたいの。お許しをいただけるかどうか、聞いてもらえるかしら?」
「……かしこまりました」
クレアは礼儀正しく言ったが、どことなく非難するような目を隣室に向けていた。
結局今日、リシャールが起きたのは昼前で、「殿下がお茶をお待ちですよ」とダニエルが教えてくれたのは昼を過ぎてからだった。
「……失礼します、エルミーヌです」
「……ああ、入ってくれ」
緊張しつつ、クレアを伴って書斎に入った。
部屋はいつも通りで、リシャールもあの、口元が空いている仮面を着けてサラを待っていた。待っていた、といっても彼は何か書き物をしており、入室したサラの方は見てくれなかった。
「茶、ありがとう。そこに置いてくれ。後のことは自分でする」
「……あの、殿下」
「……」
「昨夜は……失礼しました」
ぴたり、とリシャールの羽根ペンの動きが止まり、それを見たサラの心臓まで止まるかと思った。
(こ、怖い……でも、言わないと……!)
隣でクレアが気遣わしげな視線を向けてくるのを感じつつ、サラはリシャールが何か言う前にと、急ぎ言葉を続けた。
「わたくし、あなたの気持ちを考えていなくて……仲よくなりたいと思っていたけれど、逆にあなたを困らせたり手間を掛けさせたりしてしまいました。以後……気を付けます」
「……」
「……その、それだけです。失礼しま――」
「君」
呼ばれ、既に退室する気になっていたサラの心臓が飛び跳ねた。
顔を上げると、デスクに頬杖をついてじっとこちらを見つめるリシャールが。口元はいつも通りきゅっと引き結ばれているが、あまり威圧感や不機嫌な様子は感じられない。
むしろ……。
「……君は、馬鹿なのか?」
「……ばか?」
「馬鹿は言い過ぎか。だが……昨夜のことならわざわざ蒸し返さずとも、なかったことにすればいいのではないか? 君が完全な善意で俺のところに来ようとしたというのは、俺も分かっている。それなら、謝る必要なんてないだろう」
「……え?」
「……それに、謝るなら俺の方だ」
頬杖を外し、リシャールが立ち上がった。
彼がこの書斎で立ち上がる姿を見るのは初めてなのでサラがきょとんとする中、リシャールはデスクを迂回してサラの前に立ち、薄い唇を開く。
「昨夜はやることがあり、苛立っていた。そこに君が現れて、俺は君に優しい声掛けができなかった。……夫なら、少々急ぎだろうと妻の気遣いを無下にしてはならないだろうに、君を悲しませてしまった」
持ち上げられたリシャールの右手がそっと、サラの左頬に触れた。親指の腹で目尻の少し窪んだところに触れ、四本の指で耳の下から顎までの骨のラインを辿る。
至近距離で見つめられると、仮面に空いた穴の向こうに瞬く緑の目が見えた。その目が自分の目を――まだほんのり充血している箇所を見ているのだと気付き、かっと頬が熱くなる。
「あ、の、いえ、これは……」
「俺が泣かせたのだろう?」
「違います! これは……昨夜、殿下をお見送りした後に、悲しい物語を読んだからです!」
……しーん、と書斎に沈黙が流れる。
(わ、我ながら下手すぎる言い訳!)
沈黙が痛い。
何か言ってくれ、と目線で訴えると、リシャールは「んっ」と喉を鳴らした。
「……それはもしかして、この前書庫で借りた本か?」
「は、はいっ!」
「ダニエルは、異能や歴史書関連の本しか借りていないと言っていたが?」
「……」
どうやら嵌められたようである。
恨みを込めて軽く睨むと、ふ、とリシャールの口元が緩み、小さなため息が漏れた。
「……やはり、俺のせいなのだな。すまなかった」
「……本当に、いいんです。殿下の個人的な事情に踏み込むつもりは、ありませんし……」
「……正直なところ、そうしてくれるとありがたい。だが、決して君を拒絶したいからとか、君をのけ者にしたいからとか、そういう理由ではないのだ。むしろ……俺に踏み込まない方が、君は安全なんだ」
少し寂しそうに告げられた言葉は、サラの胸をにわかに不安にさせた。
(……どういう、意味?)
視線で問うけれど、リシャールは寂しそうな笑みを浮かべて首を横に振った。
「……改めて、頼む。これから先も、俺が夜中にどこかに行っても……絶対に止めないでくれ。それから、『なぜ出かけるのか』とも、尋ねないでくれ」
「……」
「いいか?」
サラは唾を呑んだ。
リシャールはこの国で国王と太后に次いで偉い王兄なのだから、敗戦国の王女であるサラに対して頭ごなしに命令し、力ずくでも従わせることだって可能だ。
それでも彼は「これをしろ」ではなく、「これをしてくれ」と言う。
かっとなってしまうことはあっても、どこまでも優しくて、不器用で……怖がりな人。
「……かしこまりました。殿下のお気持ちのままに」
「……助かる。では、茶の仕度はクレアにしてもらうから、君は一旦下がりなさい」
「はい」
それまでずっとサラに触れていたリシャールの指先が、離れていく。
そのことに少しだけ寂しさを感じ――ぽっと熱くなった頬をリシャールやクレアに見られないようにと、サラは急ぎきびすを返したが。
(……ん?)
ふと、嗅ぎ慣れない匂いが鼻に届き、きょろきょろと辺りを見回す。
背後では、クレアが早速茶を淹れていた。リシャールはデスクに戻ったようで、茶葉が蒸れるまでと書き物を再開させているようだ。
何の匂いだろうか、と何気なく壁際に近づいたサラは、そこに黒いコートが掛けられていることに気付いた。
(あ、これ、昨夜殿下が着ていた……)
すん、と鼻を鳴らしたサラは小首を傾げる。そして「どうした?」と背後からリシャールに訝しげに聞かれたので、何でもありませんと言って慌てて書斎を後にした。
……どうしてあのコートから動物の匂いがするのだろうか、と思いながら。