20 ゆらぐ夜
「それでは、おやすみなさいませ。エルミーヌ様」
「ええ。お茶をありがとう。いつも通り、ティーカップはテーブルに置いておくわね」
クレアがお辞儀をして出て行ってから、サラは大きく伸びをした。
毎晩、クレアは寝る前のお茶を一杯用意してからサラの寝室を出て行く。サレイユでは寝酒はあったが寝る直前に茶を飲むという習慣がなかったので聞いたところ、フェリエには体を温めたり眠気を誘ったりする効果のある薬草が多く自生しているので、これらを使った茶を寝る前に飲むとよい睡眠が取れると言われているそうだ。
といってもサラは特に不眠症ということはないので、睡眠効果ではなくいつも香りがよくて体の血行をよくする茶を飲むようにしていた。ほんのり甘くて温かい茶を飲むと確かに、ベッドに入っても体がぽかぽかしていて、いつも以上にぐっすり眠れるのだ。
(今晩は、殿下に挨拶ができなかったな……)
サラとしてはそれが残念で、閉ざされた白いドアをちらっと見やった。
結婚してからほぼ毎日就寝の挨拶をしているのだが、今日は忙しいからということでダニエル越しに断られたのだ。確かに、耳を澄ませるとこそこそと隣の部屋で作業をする音や、ダニエルとリシャールが小声で話をしているらしい声が微かに聞こえる。まだこれから仕事があるのかもしれない。
クレアが置いていった茶は、まだ蒸らしている途中だった。これは蒸らすのに少々時間が必要な茶らしく、トレイには砂時計も置かれている。砂が落ちきるまでまだ時間が掛かりそうなので、せっかくだからサラは先日借りてきた本を持ってきて、茶の香りを嗅ぎながら読むことにした。
(やっぱり気になるのは、異能についてだな)
ダニエルの力で様々な本を持ってきてもらったが、サラが率先して読むようにしているのは異能についての書物だった。
紙製の栞を挟んでいた箇所を開き、「異能の種類」という見出しから読み始める。
(異能にはいろんな種類があるけれど、「対象に作用を加える」ものか「何かを発生させる」がほとんど……と)
つまり、ダニエルの「近くのものを移動させる」力や、クレアの「触れたものの温度を変える」力は前者にあたり、先の国境戦で出撃した兵士たちの「炎を起こす」力や庭師が使っていた「風を起こす」力は、後者にあたるのだ。
これについてはサラも既に本で知っていたが、わざわざここに栞を挟んでいたのは、少し疑問に思うことがあったからだ。
(国境戦でサレイユの死傷者の大半を生み出したのは、真っ黒な獣だと言われている……)
サラも実際に見たわけではないのだが報告書を読むに、「フェリエ軍の中から飛び出した巨大な漆黒の獣が、次々にサレイユ軍に襲いかかり、鋭い爪と牙で戦場を血に染めた」とのことだった。
サラやエルミーヌに報告書を見せてくれた宰相は、「おそらくフェリエには戦闘用の獣がおり、それらを操る異能があるのでしょう」と言っていた。そして研究論文を読んだところ、動物と心を通わせたり命令したりできるという異能もなきにしもあらずだと分かった。
(でも、巨大な漆黒の獣なんているのかな?)
どちらかというと、そちらの方が気になった。今日の昼頃にクレアに聞いたところ、「そんな凶暴な野生動物はいないし、飼育もしていない」とのことだった。彼女も戦争で活躍した例の獣については明るくないようで、「近頃フェリエで争いが起きたらどこからともなく現れる、守り神のような存在らしいです」と教えてくれただけだった。
(ということは、異能とはまた別の存在なのかな? でも、サレイユ軍と一緒に戦うくらいなら、その正体を誰も知らないということはないだろうし……)
黒い獣について語るときのクレアはあまり乗り気ではなかったし、話を聞きつけてきたらしいダニエルからは、「それ、あまり口外しないでくださいね」とさえ言われた。
ふと横を見やったサラは、砂時計の砂が既に落ちていることに気付いて慌ててポットを引き寄せた。
(あ、いけない! せっかくクレアが作ってくれた……あれ?)
蓋を開けたサラは、目を瞬かせる。
そして小首を傾げると、白いドアの方を見やったのだった。
夜、隣の部屋でがたがたと物音がしたため、サラは体を起こした。
(殿下の部屋から……?)
目を擦るが、正直あまり眠くはない。きっと、あの茶を飲まなかったからだろう。
クレアは「体を温める効果がありますよ」ということで作って置いていってくれた。だがサラは、葉を蒸らし終えた茶から、保温効果のハーブ以外の匂いがすることに気付いたのだ。
あれは、サレイユでもしばしば使われていた強力な睡眠薬の匂いだった。植物の根を煎じたその汁は甘くてとろみがあるが、独特の匂いがある。かなり人を選ぶ匂いのためサレイユでは、香りのよいハーブと混ぜて使うことが多かったのだ。
(クレア、間違って入れてしまったのかな……?)
どちらかというと、睡眠薬を欲しているのはリシャールの方だろう。今もなにやら隣室で動く気配がするので、睡眠薬入りの茶を飲めなくて眠れず困っているのかもしれない。
(もうお茶は冷えてしまったけど……茶葉は揚げているから、冷茶としてなら飲めるかも?)
薄手の寝間着の上に一枚ガウンを羽織ってからリビングに向かい、テーブルに置いたままのティーポットに触れてみる。やはり冷たいが、ハーブに混じって例の睡眠薬の匂いがしている。この状態でも飲めば効果があるだろうし、結局サラは一口も飲まなかったので量も十分にある。
ポットを手に、そろそろとドアの方へ向かう。リシャールが出てこなくても、ダニエルや他の侍従に託せばいいだろう。断られても、いずれ茶器は下げてもらうのだから徒労にはならないはず。
(そのときに、おやすみなさいを言えたらいいんだけど……)
微かな期待を胸に、サラがドアを開けてエントランスに顔を覗かせる――と同時に、右の方からドアが開く音がした。
ほのかな灯りが灯るエントランスに出てきたのは、リシャールだった。いつもの口元まで覆う仮面を装着済みで、少しぶかっとした黒いコートを着ている。暗がりに浮かぶ黒衣と白い仮面はなかなか不気味で、慣れてきたはずのサラも一瞬身を震わせてしまう。
最初横顔を向けていたリシャールだが、気配を察したようでさっとこちらを向く。仮面の向こうで、彼の緑の目が見開かれたような気がした。
「……な、なぜ、君が……?」
まさかここにサラがいるとは思わなかったようで、彼は明らかに動揺した様子で一歩身を引き、後ろに立っていたらしいダニエルが「うわっと、殿下!?」と叫ぶ声が聞こえた。どうやらダニエル同伴で、どこかに行くつもりだったようだ。
明らかに迷惑そうで、訝しげな視線を投げかけられ、ついさっきまでサラの胸に灯っていた小さな期待の炎はさっと消された。ポットを持つ手が震えそうになるが、意を決して口を開く。
「あ、あの……物音が聞こえたので……こ、これ、クレアが置いていってくれたのですが、間違えていたみたいで、睡眠薬入りだったので……殿下のところに持っていこうかと……」
「……俺のところに?」
鬱陶しがるような声を上げられ、しゅんっとサラは頭を垂れてしまう。
明らかに、出方を間違えた。こんなに迷惑そうにされるのなら、大人しく茶を飲んで朝までぐっすり眠っておくべきだった。
「……す、すみません。あの、わたくし、戻ります」
「……そうしてくれ。俺は忙しい。茶のことなら明日、クレアに言えばいい。……君」
「は、はい」
「見ての通り、俺は今から出かけるが、止めないでくれ。それから、今夜のことはやたら口外もしないように。……いいな」
……サラに「否」の言葉を言わせない、雑で愛想の欠片もない命令。
だがそんな彼の物言いに反駁するつもりにはならず、サラはポットを両手に持って大人しく頷いた。
「……かしこまりました。あの……いってらっしゃいませ」
「……」
勇気を出して言ったのだが、リシャールは返事をしてくれなかった。コートの裾を翻すとさっさと歩き出し、エントランスを抜けて廊下に出てしまう。
後から書斎から出てきたダニエルはサラを見ると、「すみません」と口の形だけで言い、主君の後を追っていった。
彼らが立ち去るとその場には静寂が訪れる。
寂しくて、心細くて、悲しくなるほどの静けさだった。
(殿下……)
結局誰にも飲まれることのなかった茶入りのポットを抱えてリビングに戻り、サラはすとんとソファに腰を下ろした。
いつもなら、仮面を外して素顔を見せてほしいと思うのだが……今日に限っては、彼が仮面を付けてくれて助かったと思った。
そうでなければきっと、怒りと苛立ちに満ちた彼の視線をまともにぶつけられることになっていただろうから。
先ほどのリシャールからは、ただ単にサラを鬱陶しがるだけではなく、明らかな苛立ちや焦燥感が感じた。本当は、エントランスで立ち止まってサラの言葉を聞く間すら惜しかったのではないか。
リシャールとは、少しでも仲よくなりたいと思っている。だが、それがサラの一方通行とか善意の押し売りではありたくないし、リシャールの気持ちや考えを踏みにじるつもりも微塵もない。
(私、調子に乗っていたのかな……)
ポットを置き、代わりに衣装ケースを開けて一番上に置いていた木箱を手に取る。そうして美しい薔薇のコサージュを手の中に載せ、そっと額に押し当てた。
「……私、殿下のこと、考えて差し上げられなかった……」
こうすれば仲よくなれるはず、こうすればリシャールも喜ぶはず、という勝手な気持ちで動いていた。
その結果、リシャールを困らせるしダニエルやクレアにも要らない仕事をさせてしまったのではないか。
「……明日、ちゃんと謝ろう」
ええ、そうしなさい、と母が言ってくれる気がして、サラはコサージュに頬ずりする。
カーテンの隙間から差す月光を浴び、小さな滴が朝露のように、薔薇の花びらを濡らしていた。