19 あなたとティータイムを②
「それは……そう、だが……俺たちはそういう仲ではないし……妃といっても、何も……」
「殿下……」
「その、本当に君は、俺にじっと見られて嫌ではないのか? 気味が悪いとか、気分が悪くなるとか、そんなことはないのか?」
本気でサラのことを案じているような物言いに、夫の意外な面を見たことで少しだけ浮ついていたサラの気持ちがすっと冷えた。
(……殿下はいったい、どんな人生を送ってこられたのだろう)
普通、あれほど整った容姿と王族として十分に公務をこなす能力を持ったリシャールに見つめられ、嫌な気持ちになる者はいないだろう。肖像画の彼も不機嫌そうな顔をしていたが、頬を緩めて微笑むときっと、令嬢たちがうっとりするような貴公子になるはずである。
不自然すぎるほど卑屈で、自分に自信がなく、他人に怯えている。
サラとて、それほど自分に自信があるわけではない。「どうせ自分はエルミーヌの影武者だ」と思って六年間生きてきたのだから、自信がないくらいがちょうどいいとさえ思っていた。
だが、リシャールの自己否定感には違和感を抱いてしまう。彼がこうなる原因があったのではないか。だから、彼は人嫌いの引きこもりになったのではないか。
(生母である妾妃様のこともあるだろうし……私では想像もできないことがあったのかもしれない)
そんな、想像もできないような「理由」を抱えるだろうリシャールが、限りなく労しい。
サラは目を伏せ、息をついた。
怯える動物と接するのと同じようなものだ。無遠慮に近づいたり無理に抱こうとしたりしたら、余計に怯えさせてしまう。
サラがするべきなのは、「待ち」の姿勢を取り、相手から近づいてくれるのを待つこと。もし近づいてきてくれたならそっと抱きしめ、拒絶されたのならやんわりと引き下がるべきである。
「……気分が悪くなるどころか、私は嬉しいです」
「……嬉しい?」
「はい。だって、殿下が私を見ようとしてくれているってことですから。私は自分が、殿下に望まれた妃でないことは、承知しております。……でも、殿下は私を見てくださった。だから、嬉しいのです」
初日は、「俺に関わるな」とやんわり拒絶された。だがそれはサラを嫌っているからとか、サレイユの王女が憎いからとかではないと、今では分かる。
彼はきっと怖かったし、サラのことが心配だったのだ。
サラのことがよく分からないから、怖い。視線が合うと、どんな言葉を掛けられるか分からないから、最初から触れあわないようにする。不躾な視線を向けると嫌悪されると思ったから、謝ってきた。
彼は必要以上に卑屈で、そして優しいのだ。
きっと自分が傷ついた過去があるから、人も傷つけまいとするのだ。
(……でも、これは私の予想にすぎない。下手に声掛けをすれば殿下を追いつめるかもしれないし、悩ませてしまうかもしれない)
胸に手を当て、サラはじっとリシャールを見つめた。
「むしろ、もっとよく見てほしいと思っています。……もちろん、殿下がお嫌でなければ、ですが」
「お、俺は別に、君を見るのが嫌だとは思わない。……だが、夫婦とはいえ不躾に見るのは失礼だろう」
「そうでしょうか……私には世の一般がよく分からないのですが、私のことは気にされなくていいですよ。私、少々のことで弱ったりはしませんので」
ふふん、と胸を張って堂々と宣言した。
図太さには自信がある。エルミーヌやフィルマンに裏切られたときも、嘆いたのはほんの半日のことだった。翌日にはくそったれ、と思えるくらいには回復したし、ならばフェリエで幸せになって見返してやると逆に燃えることができた。
あの二人と比べれば、リシャールに見つめられることなんて屁でもないどころか、彼と仲よくなりたいサラからすれば大歓迎だ。それこそサラの基準でも「破廉恥」に入らない程度なら、どんどん見てほしいと思う。
……ということを熱を込めて語ったのだが、途中でリシャールはうめき、デスクに突っ伏してしまった。
「わ、分かった。分かったから、俺をあまり追いつめないでくれっ」
「えっ……かしこまりました。はしたないことを申していましたら、お詫びします」
「いや、別に……構わない。ただ、頼むから、今のような言葉を他の者には言わないでくれ。君が見つめてほしい、と言うのは俺に対してだけだ。いいか?」
「……」
それは、卑屈な王兄殿下とは思えないくらい熱の籠もった台詞である。
だが当の本人はそれどころではないようなので、サラは一拍遅れたものの慌てて首を縦に振った。
「わ、分かりました。わたくしを見つめていいのは殿下だけ、ということですね」
「そ、そうだ。肝に銘じるように」
「は、はい。心に刻みます」
それだけ言うと、どうにも気恥ずかしくなってしまい、お互い視線を逸らしてしまった。
(な、なんだろう。すごく、どきどきする……)
わざわざ胸に手を当てずとも、胸骨の向こうにある心臓が激しく脈打っているのを全身で感じる。普段からあまり顔は火照らない方だと思っていたのだが顔も耳も熱いわりに、手からは冷や汗が噴き出ていた。
(な、何か気分が変わることでも言わないと! えーっと……あっ)
「あ、あの、殿下。ケーキ、残りを食べましょうか」
「ん。そう、だな」
ずっと俯いていたリシャールも言ったところで、それまで空気と同化していたクレアがさっと進み出て、ポットの紅茶を温め直してくれた。
(ずっと見ていたのなら、手助けしてほしかったのに……)
ちょっとの恨みを込めてクレアを横目で見るが、彼女は清々しいほどの笑顔でサラの視線を無視し、用事だけを終えるとまたダニエルの隣に戻った。
ダニエルも腹が立つほど爽やかな笑みを浮かべていて、サラを見ると「よくやりました」と口の動きだけで伝えてきた。後で恨み言の一つでもぶつけよう、とサラは決めた。
サラのケーキもリシャールのケーキも、半分くらい残っている。意図せず二人はほぼ同時にケーキにフォークを刺し、口元に運んだ。
紅茶とマルロの甘い香りが、優しく広がっていく。
「……甘くておいしいですね、殿下」
まだ頬が赤いサラが微笑んで言うと。
「……ああ。甘くて、おいしいな」
薄い唇をほんの少しだけ緩め、リシャールも呟いた。