15 太后の願い
現国王の生母でリシャールの養母である太后は、王城内でも一等地の、薔薇が咲き乱れる中庭が臨める一角を居住区としているそうだ。
「まあ……いい匂いですね!」
「あら……うふふ。妃殿下はまず、花の匂いを気にされるのですね」
薔薇園の横を通った際に思わず声を上げると、女性騎士たちにくすくす笑われた。決して嫌な笑い方ではなく純粋に楽しんでいるようなのだが、はしゃぎすぎたと気付いてサラはさっと赤面してしまう。
「あ……いえ。花やハーブの香りが好きで……」
「そうおっしゃればきっと、太后様も喜ばれますよ。太后様は、花やハーブなどを手ずから摘んで香り袋を作るのがお好きなのです」
「香り袋……」
そう言われてふと、リシャールの部屋の壁にぶら下がっていた袋を思い出した。
薄暗い部屋に不釣り合いな可愛らしい袋だったので、ひょっとしたらあれはリシャールの趣味というより、太后が養子のために作って贈ったものなのかもしれない。
今日は天気がよくて風も弱いので、太后は薔薇園の東屋で待っているとのことだった。
騎士や傘を差してくれるクレアを従えて、美しく整備された薔薇の小道を歩くことしばらく。
さっと開けた空間は、薔薇の生け垣で丸く囲まれていた。東屋を包むように細い水路が張られていて、水の流れる音が涼しげだ。
東屋のベンチに、ダークグリーンのドレスを着た貴婦人が座っている。ドレスは胸元に銀糸による刺繍が施されているだけで至ってシンプルだが、彼女の落ち着いた美貌と凛とした気配、真っ直ぐ伸びた背筋を見ると、彼女にはこのドレスがふさわしいと思われた。彼女のための一着、とはこういうことを言うのだろうか。
婦人が、東屋の階段下に控えたサラを見る。
緑の目が優しく緩められ、彼女は口元に薄い皺を刻んで微笑んだ。
「ようこそ来てくださいました、エルミーヌ様。お噂はかねがね」
少し掠れた、とても耳に心地良い声だ。確か彼女はもうすぐ五十歳になったと思うが、その声は年相応ながら品があり、同性であるサラでさえうっとりしてしまいそうだ。
ドレスの裾を摘み、サラは震えそうになる体に喝を入れてお辞儀をする。
「お初にお目に掛かります、太后陛下。サレイユより参りました、エルミーヌでございます」
(……こうしてエルミーヌ様の名を名乗ることにも、慣れてしまったな)
頭の片隅でそんなことを思い、笑いたくなってくる。
本物のエルミーヌは今頃、フィルマンの腕にくっついてふわふわ笑っているだろうか。そしてもし、今ここにいるのが本物のエルミーヌだったら、彼女はどんなふうに振る舞っていただろうか、なんて詮方ないことがふと思われる。
太后はサラを向かいのベンチに誘い、座ったところで侍女たちが茶の仕度を始めた。
「まずは、遅れましたが……リシャールとの結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます、陛下」
「……こう言うのも何ですが、リシャールとはどうですか? あの子があなたに何か、失礼なことをしていませんか?」
太后に心配そうに問われ――サラはつい、リシャールの諸々の行動や発言を思い返し、動きを止めてしまった。
だが太后はそんなサラを見て微笑み、「困った子ね」と肩を落とす。
「一生誰とも結婚したくないというあの子の気持ちも、尊重させたいと思っていました。しかし、あなたを王兄妃に迎えることでサレイユへの牽制になる。息子エドゥアールには生まれたときからの婚約者がいる以上、リシャールの妃にするしかない。……そういうことで、あなたを王家に迎えました」
「……はい」
赤裸々に国家事情を口にする太后を、サラは静かに見つめる。
ここであけすけに述べるというのがきっと、太后なりの誠意の表し方なのだろうと察することができた。
サラもサレイユとフェリエの微妙な均衡を知っているので、変に隠されたり「あなたは知らなくていい」と突っぱねられたりするよりずっとよかった。
(殿下……)
そっぽを向く白い仮面のことを思い、サラは息を吸った。
「太后陛下。わたくしは、自分がリシャール殿下にとって望まれた花嫁ではないということを、重々承知しております。そして……一生殿下に顧みられず、敗戦国の王女として虐げられる可能性も考えておりました」
「……」
太后は静かな眼差しでサラの言葉を聞いている。
怒るわけでも、不快そうになるわけでも、驚くわけでもない。「さもありなん」と言いたそうな彼女の眼差しは、とても心地よかった。
「……しかし、殿下はわたくしのために結婚式を挙げてくださりました。ささやかな式でもいいから、白いドレスを着て花嫁になりたい……わたくしが幼い頃から抱いていた夢を、殿下は叶えてくださいました。それに、わたくしが不自由しないように手も尽くしてくださっています」
基本的に「俺に関わるな」姿勢のリシャールだが、サラがこの国に来て身につけているドレスも靴も宝飾品も全て、リシャールから贈られたものだ。
彼は服飾に明るくないそうなのでほぼクレアたちに丸投げ状態になっているようだが、サラが生活する上で困らないように気を配り、必要なものがあればすぐに調達してくれる。
サラは真実を述べたのだが、太后は心配そうに柳眉を寄せた。
「それは夫として当然のことですよ。あの子のことだから、失礼なことでも言っているのではないのですか?」
「……えっと、確かに少し距離は置かれていますし、用がないのなら書斎に来るなとは言われています」
「あら、そうですの? それはよかったわ」
しどろもどろになりつつサラは告白したのだが、なぜか太后は驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。
「よかった……ですか?」
「もちろんですよ。あの子は本当に信頼する者以外、書斎に入れたがりませんもの。かく言うわたくしだって、あの子に会いに離宮に行くことはあっても、書斎に入れてもらえたことはありません」
「えっ」
太后に言われ、サラはさっと青ざめた。
養母である太后でさえ、リシャールの書斎に入れない――入れてもらえないという。それなのにサラは騙し討ちのような形で書斎に突撃したのだ。彼の不興を買うのも当然のことである。
「わ、わたくし、やはりとんでもないことを……」
「とんでもないこと?」
「……その、少しでも殿下と仲よくなりたくて、ダニエルやクレアに協力してもらって――」
サラがぽつぽつと告白する間もずっと、太后は笑顔だった。侍女が茶を淹れ終え、それを上品に啜っている間も嬉しそうで、罪を告白している側のサラは気が気でなかった。
「……あの」
「あなたもお飲みになってください。……どうやら、あの子には荒療治くらいがいいみたいですね」
「荒療治ですか?」
ティーカップを摘み上げたサラが問うと、太后は頷いてほっそりした指先で離宮の方を示した。
「他人と関わりたくないというあの子の気持ちは分かりますし、無理強いをするつもりもありません。……でも、そこまで怖がらなくていい、もうちょっと肩の力を抜いても大丈夫なのだ、と教えてきたつもりです」
「……」
太后の含みのある言葉に、サラはほんの少し眉根を寄せる。
(……もしかして太后様は、殿下が頑なに引きこもりを続ける理由をご存じなのかな)
やはり、ただの人間嫌い、ただの面倒くさがり屋というわけではなさそうだ。
「あなたは、リシャールの心に触れてくれたのですね。あの子があなたを書斎に入れてもいいと言い出したのは、あなたなら大丈夫だと思った証しです」
「そうなのでしょうか……」
「そうですよ。……わたくしは、サレイユの王女殿下はとても大人しい方だと伺っていましたが、所詮噂は噂ですね。あなたはとても活発で前向きな方みたいですし……そんなあなたでよかったと思っています」
(うっ……やっぱり、素を出し過ぎたかな……!)
太后は純粋に褒めるつもりで言ったのだろうが、今の言葉はサラの胸に突き刺さってきた。
昔のサラだったら、どんなときでも感情を押し殺してエルミーヌのふりをすることに徹していただろう。
大人しく、淑やかに、ふわふわと愛らしく、遠慮がちに皆と接する。太后が聞いていた王女エルミーヌの像に違わぬよう、演じただろう。
(でも、これでは本末転倒だと分かっていても、「エルミーヌ様」ではなくて「サラ」の顔を出すのは……あの人にはなりたくないから、なんだろうな)
自分を裏切ったエルミーヌの真似をしてでも、自分を殺したくはない。たとえこの国で自分のことを「サラ」と呼ぶ人がいなくても、サレイユには偽物の「サラ」がいるとしても、自分という人間を死なせたくない。
太后たちは、偽りでない「サラ」のことを好ましく思ってくれている。もしサラが頑固なまでにエルミーヌのふりを続けていたら、リシャールの書斎に入る許可を得ることも、こうして太后から「あなたでよかった」と言われることもなかっただろう。
「……太后陛下にそう言っていただけて、嬉しく思います」
「それはよかったです。……エルミーヌ様、どうかこれからも、リシャールのことを頼みます」
サラは視線を上げた。
太后は緑の目を細めて微笑み、ほんの少し寂しそうな色を唇の端に載せてサラを見ている。
「あなたが自然な態度で接してくれることが、あの子のためにもなるはずです。何か特別なことをしろとは申しません。ただ、リシャールのことを見て、話を聞いてやってください」
女性騎士や侍女を伴い、王兄妃が去っていった。
真っ直ぐ伸びたその後ろ姿を見送る太后は、息子の嫁を前にしたときに見せていた穏やかな笑みを一切消している。だがすぐに眼差しを緩めると、ふうっと大きな息をついた。
「太后様、そろそろ部屋に戻られますか」
「そうね。エルミーヌ様ともいい話ができたし、満足したわ」
女性騎士に尋ねられた太后は鷹揚に頷き、視線を離宮へと向けた。
「……リシャール殿下には、幸せになってもらわないといけないわ。もしエルミーヌ様に、生まれたときからあの方を縛っている鎖を解く力があるのなら、きっと……」