10 ちょっとした特技
「……暇すぎる」
王兄妃生活の感想は、この一言に尽きた。
普通、国王の兄弟に嫁いだ妃は夫と共に公務に出たり、夜会に出たりする。さらに現在の国王エドゥアールは生まれたときからの婚約者はいるが未婚なので、王城で会を催す際、王兄妃が太后と協力して会を切り盛りするようにと命じられることもある。
だが、サラに公務らしい公務は何もない。
それもそうだ。
(私は友好の証しとして嫁がされた人質。そんな私に任される公務なんて、あるわけないか)
おまけに夫たる王兄リシャールは、他人嫌いの引きこもり。弟の公務の補助をしたり書類に目を通したりはしているが、表舞台に出ることはない。よって、そんな夫に同行してサラがどこかに行く必要もないのだ。
サラがすべきなのは、人質らしく大人しく過ごすことのみ。
(それにしても、暇すぎる……)
クレアからは刺繍とか詩の制作とかを薦められたが、エルミーヌならともかくサラは正直あまりそういったことは好きではない。ちまちまとした作業をするより、読書や散歩などの方が好きだった。
(でも、私はあまり外に出ない方がいいみたいだし……)
はあ、とため息をついていると、ドアがノックされた。
「失礼します、エルミーヌ様。お茶をお持ちしました」
この声は、クレアだ。
「ええ、ありがとう。どうぞ入って」
「失礼します」
「……あら? フレーネの匂いがするわね。摘んできたの?」
クレアが部屋に入った途端、ふわっと優しい香りが漂ったので尋ねると、銀のトレイを手にした彼女はぎょっとしたようにサラを見てきた。
「えっ!? あ、はい。庭師がエルミーヌ様のためにと摘んだものをお持ちしたのですが……ご存じでしたか?」
「いいえ、匂いがしたから」
「……よく分かりましたね」
お茶の準備をしつつクレアが言ったので、サラは微笑んで頷いた。
実は、サラはなかなかよく鼻が利く。子どもの頃から、夕暮れ時に厨房から漂う料理の匂いを嗅いだだけで今晩のメニューを当てては両親や使用人たちを驚かせたし、エルミーヌの侍女になってからもなかなか役に立っていた。
僅かな匂いだけでバスケットに盛られた花やハーブの種類を当てるという才能は、エルミーヌから「まるで異能みたい」と褒められたものだ。
(……うん? よく考えるとあれって、本当に褒められていたのかな……?)
今になって気付いたが、クレアの感心したような声で我に返った。
「まあ、そうだったのですね! ……あ、ではひょっとして、今日の紅茶のフレーバーも分かったりします?」
「うーん……マルロの匂いがするから、マルロの櫛切りでも入っているのかな?」
「大正解です! うわぁ、すごいですね!」
大はしゃぎのクレアがティーポットの蓋を開けると確かに、櫛形に切ったマルロの実が入っていた。
マルロは暖かい地方で採れる果実で、サレイユで食べたものもフェリエからの輸入品だと聞いたことがある。やはり原産地だからか、櫛切りになったマルロはかつて食べたものよりも大粒で瑞々しそうだ。
「エルミーヌ様ってすごいですね! まるでエルミーヌ様も私たちと同じ、いの――あ、いえ、何でもありません」
「……」
急に勢いをなくして俯いてしまったクレアを、サラはじっと見つめた。
間違いなくクレアは、「異能持ちみたい」と言おうとしたのだろう。
フェリエの異能に、匂いでものを判断するというものがあるのかどうかは分からない。だがクレアはそれを口にしようとして――途中でやめた。きっと、「異能持ちみたい」と言えばサラを困らせる――もしくは怒らせたり、悲しませたりすると思ったからだろう。
「クレア」
「……あ、あの、先ほどの発言は……」
「気にしなくていいわ。……あなたの言うとおり、まるで異能みたいよね」
そう言って微笑むと、クレアは困ったような目でサラを見てきた。
『まるで異能みたい』
それはかつて、エルミーヌにも言われた言葉。
そのとき、エルミーヌがどんな気持ちでその言葉を口にしたのかは本人のみぞ知ることだ。
だが――今思えば、「鼻が利く」なんて特技はとうてい貴族の娘らしくないし、当時から敵国だったフェリエの人間みたいだという喩えは、どちらかというと揶揄する意味合いが強かったのではないか。
(でも、クレアは違う)
鼻が利くというのは偶然生まれ持った能力であり、異能は関係ないだろう。
だが――この国で「異能みたい」というのはつまり、「自分たちと同じ」という意味なのではないか。
生まれも育ちもサレイユで、嫁いだとしてもお飾りの王兄妃でしかない人質。
そんなサラにとって「異能みたい」の言葉は、この国で生きる一つの方法を与えられたかのように感じられた。
そっとクレアの手を取ると、彼女は怯えた眼差しでサラを見てきた。
「……あまりお上品な能力ではないと思っているわ。でも、ちょっとでもクレアたちに近い人間だと思ってもらえるなら、嬉しいの」
「エルミーヌ様……」
「だから、気にしないで」
微笑むと、少しずつクレアの顔の緊張が緩み、唇の端にわずかだが笑みが浮かんだ。
「……エルミーヌ様は、お優しいですね」
「そ、そうかしら?」
「お優しいですよ。……あの、エルミーヌ様。わたくしにできることなら何でもしますので……どうかこのクレアを頼ってください」
遠慮がちだが、それはきっとクレアなりの「返事」なのだろう。
サラは数度目を瞬かせた後、ニッと――「エルミーヌ」ではなく、「サラ」として笑ってクレアの手を強く握りしめた。
「ありがとう! それじゃあクレア、早速だけど相談したいことがあるの」
「はい! あ、お茶を淹れますので、お茶をお飲みになりながら話してくださいね」
「ええ、そうするわ」
部屋には、マルロ入りの紅茶の香りが優しく漂っていた。




