1 王命と決意
『あなた、お父様とお母様を亡くしたそうね』
金色の天使が、悲しそうに言っている。
当時十二歳だったサラは頷き、喪服代わりの黒いドレスの胸元をくしゃっと掴んだ。
『かわいそうに……辛かったでしょう。あなたがこれから、お世話になる家は決まっているの?』
いいえ、決まっていません。私は独りぼっちになってしまいました。
そう言うと、天使はふわっと微笑んだ。
『それなら、わたくしのところにいらっしゃい。……あなたはわたくしの、はとこなのでしょう? わたくしとよく似た親戚の女の子がいるって聞いて、ずっと会いたいって思っていたの。これから、一緒に暮らしましょう』
サラは、顔を上げた。
自分よりも幼い天使は微笑み、サラの手を取る。
『お父様も、きっと許してくださるわ。ね、わたくしたち、お友だちになりましょう。わたくし、あなたとこれからずっと、仲よくしたいの』
天使の言葉は、両親を喪ったばかりのサラの胸に染みこみ、ドレスの色に染まっていた心を柔らかく照らしてくれた。
――そうしてサラは、居場所を与えられた。
天涯孤独の身になったサラをすくい上げてくれたのは、サレイユ王国の王女であるエルミーヌ。
サラは、彼女のために一生を尽くすと誓った。
自分を助けてくれた王女のためなら、彼女が微笑んでいられるのなら、なんでもしよう。
その誓いを立てた六年後。
十八歳になったサラは国王に呼び出され、「エルミーヌの代わりに他国へ嫁げ」と命じられたのだった。
大陸の中央西寄りの盆地を治める、サレイユ王国。
昔ながらの伝統を守り続けるこの国は他国と比べるとやや時代遅れで、政治的にもあまり強いとは言えない。だが古き良き文化はサレイユの誇りであり、戦を好まない代々の国王の方針に国民たちは、感謝していた。
――そんなサレイユ王国の王城の、謁見の間にて。
質素な水色のドレス姿のサラは目を見開き、玉座から自分を見下ろす国王と、その隣でさめざめと泣く王女エルミーヌを見上げていた。
(……今、陛下は何とおっしゃった?)
サラは拳を固め、厳格な表情の国王を見つめる。
「……陛下、発言してもよろしいでしょうか」
「許す」
「その……わたくしがエルミーヌ様の代わりに嫁ぐ、ということですが……もう少し子細を伺ってもよろしいでしょうか」
なかなか衝撃的な命令だったが、サラはここで子細も聞かずに「はい、分かりました」と即答する質ではなかった。前提を聞いた上で命令を遂行するべきだという家臣としての信念はもちろんのこと、ただ単に国王の命令が理解しきれなかったというのもある。
六年前にサラを娘の侍女として登用した国王は、サラの性格もよく把握している。彼は頷き、傍らにいた宰相に命じて台座に載った書類をサラの前に持って行かせた。
「こちらは、半年前の国境戦において我が軍を追いつめ、停戦条約を締結したフェリエ王国との講和会議内容をまとめたものでございます」
宰相から受け取った手袋を嵌め、書類を手に取る。
どきどきしながら読み進めたそれには、「和平の証しとして、サレイユ第一王女エルミーヌを、フェリエ王兄リシャールのもとに嫁がせること」という旨が書かれていた。
「王兄リシャール……」
「フェリエの現国王は、十六歳の若者です。国王は、自分の異母兄であるリシャールのもとに王女殿下を嫁がせ、我々に対する抑止力としようと企んでいるのです」
あまり政治経済に詳しくないサラのために、宰相が分かりやすく教えてくれる。
「フェリエはサレイユの半分程度の国土面積しか持たない小さな島国ですが――先の国境戦で我々の軍を追いつめた原因は、あなたも知っていますね」
「……はい。フェリエは昔から異能持ちが生まれやすく、小国ではあるものの王家はそういった者たちを集めた軍隊を組織しており、半年前も異能持ちの軍隊の前に我が国軍が敗走したと伺っております」
そもそも半年前の国境戦が勃発したのは、フェリエが先代国王の死後、サレイユの反対を押し切って当時たった十五歳だった王子を国王にしたことが原因だ。
サラにはどちらの国が悪いという判断はできないが、小国の分際で勝手に物事を進めたフェリエをサレイユは快く思わず、揺さぶりを掛けるために国境で競り合った結果、敗走を余儀なくされた――と、サラは理解している。
異能持ちの中には両手から炎を噴き出す者や触れた相手を気絶させる者など、様々な力を持つ者がいた。その中でも強力なのは黒い獣を操る異能持ちで、今回の死傷者の大半はこの恐ろしい獣の餌食になったのだと言われていた。
国境戦のことは宰相たちにとっても苦い思い出らしく、彼は少し顔をしかめて頷いた。
「国境戦における敗北により、我々がフェリエのエドゥアール王の即位を認めること、そして和平の証しとして王女殿下を王兄妃として差し出すことなどが決められたのです」
「……それで、わたくしをエルミーヌ様の身代わりとして……?」
ちらっと壇上を見ると、ハンカチで口元を覆ったエルミーヌがふるふると首を横に振った。サラの卵色の髪とよく似た艶やかな金髪が揺れる。
「わたくし……国のためなら、わたくしにできることをしようと思っておりました。しかし、異能の集まりであるフェリエに嫁ぐのは怖くて、不安で……」
エルミーヌの声は、まるで繊細な楽器のようだ。
顔かたちはサラとよく似ているが、この可憐な声はサラの声帯では出すのが難しい。ほんの少しなら頑張って似せられなくもないが、すぐに喉をやられてしまいそうだ。
(……エルミーヌ様のお気持ちは、よく分かる)
胸に手を当て、サラは唇を噛んだ。
異能は、恐ろしい力だ。かつては大陸のあちこちに存在していた異能持ちも、今ではフェリエに生まれるだけ。あの島国は精霊に愛されているとかで、フェリエで生を受けた者はかなりの確率で何らかの異能の力を有している。しかもたまに、恐るべき力を持った子が生まれることさえあるという。
過去には一人の異能持ちにより、百人の兵がものの数秒で殲滅させられたことさえあるという。そんな国、しかも半年前に自国軍を敗走させたところに嫁ぐなんて、不安に決まっている。
そもそも、エルミーヌは可憐な深窓の姫君で、心も強くない。六年間彼女と共に育ってきたサラだが、エルミーヌはいつもサラの後ろを歩いて、風の音にさえ驚き、幸福な結婚を夢見るようなか弱い少女だった。
(国王陛下は、エルミーヌ様のことをとても大切になさっている。だから、私に身代わりを命じたのだろうけど……)
「陛下、質問してもよろしいでしょうか」
「許す」
「六年前にエルミーヌ様に助けられたこの身を、国のために差し出せるのであればこの上ない名誉でございます。しかし……フェリエにわたくしが嫁いだとして、気付かれたりはしないでしょうか」
六年間で、国のため――厳密に言うとエルミーヌのために働くという精神は、しっかり鍛えられた。だから、主君のために身代わりになるという行為に躊躇いはあるものの、断る道理はないと分かっている。
それより、相手方にばれないかの方が心配だ。異能にも色々あるらしいが、もし人の心を読めるような者がいれば、入れ代わりに気付かれてしまうのではないか。
サラの質問に、「その心配は無用だ」と国王はあっさり言う。
「おまえが完璧にエルミーヌの身代わりを務めさえすれば、気付かれることはない。異能にも様々なものがあるが、相手の精神に作用するものは存在しないという。また、フェリエでエルミーヌの顔や声を知っている者はいない。せいぜい肖像画ぐらいだろうから、おまえが正しく振る舞えば誰にも気付かれることはないのだ」
(……そう、か)
ぽつん、と胸の奥で小さな感情の滴が垂れる。
それは納得なのか、諦めなのか、悲しみなのか、サラには判断できない。
だが、サラに「嫌です」と言う権利はない。
(陛下やエルミーヌ様に、これまでのご恩が返せるのなら……)
「サラ」
国王に呼ばれ、サラは頷くと書類を宰相に返し、その場で深く頭を垂れた。
「謹んで拝命いたします。……この身は、サレイユのために」
自分が我慢すれば、努力すれば、エルミーヌは笑っていられる。
たとえ自分が嫁ぎ先の人々を欺いたとしても、エルミーヌのためならサラは生きていけるのだから。