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2話

 朝食の片付けを終えた私は、そのまま自室へと足を運んだ。

 起きた時と同じで、カーテンは締め切られていて部屋はほんの少し薄暗い。 私はそのまま部屋の奥へと進んで行き、戸棚の上に置いていたぬいぐるみを持ち上げる。


「もう何十回も洗ってるのに、全然破れないな……」


 優しく、ボロボロになったぬいぐるみの頭を撫で、ぎゅっと強く抱きしめる。

 私、狩沢かりさわ十華とうかと赤音の間に血の繋がりはない。私たちの関係は、再婚相手の娘。本当の姉妹ではない。

 だけど、血の繋がりなんてどうでもいい。私にとって赤音は、本物以上に可愛い妹なのだから。

 

『そんなものは戯言だ』


 不意に聴こえる、いないはずの人物の声。

 私は振り返ることはなく、強く抱きしめていたぬいぐるみからゆっくりと力を抜いていく。


『おぞましい奴だ。血の繋がりがある人間が死んでもなんとも思わなかったお前が、血の繋がりのない、赤の他人の、偽物の妹を愛するなど』

「うるさい……」

『お前に人の心なんてない。そんなお前が、幸せになんてなれるわけがない』

「うるさい……」


 幻聴が私を責めたてる。聞きたくもないことをベラベラと、私の幸せを、感情を否定していく。

 聞きたくない、低い、男の声。よく知っている、消し去りたいその声は私を苦しめる呪いのような存在。


『自惚れるな。お前は純粋に人を愛する事なんて出来ない。お前は、俺の子なんだから』

「うるさいっ!」


 部屋から浴室に行けば、私は叩きつけるようにぬいぐるみを洗濯機に入れ、そのままボタンを押した。

 ズルズルとその場に座り込み、私は幻聴の声を遮断するように両耳を手で塞いだ。


「うるさい……うるさい……私は、赤音がいれば、それでいいんだ」


……………


………



 実の父親はろくな人間じゃなかった。

 すぐに感情的になって、私や母に暴言を吐き、暴力を振るった。


「なんで俺の気持ちがわからないんだよ。俺が、どれだけお前たちのために!」


 父は母を激しく踏みつけると、いつもこうやって怒鳴りつける。

 自分の中のモヤモヤを、私たちに何度もぶつけた。それはとても痛くて、苦しいものだった。


「おかぁさん……」


 幼い私は、倒れこむ母に泣きながら寄り添った。無気力だった母は必死に口のはしをあげ、私を抱きしめて宥めてくれた。


「大丈夫よ、気にしないで。これはあの人の愛情表現なの」

「あい、じょう?」

「そう。あの人はちょっと不器用なの、これしか、私たちに気持ちを伝えられないの」


 私のことを強く強く抱きしめる母。

 その時の母の瞳はとても冷たく、生きているのに死んでいるような……


「だから大丈夫。きっと、十華もわかるわ」



 諦めの目をしていた……



 遠くなって行く父の足音。大きな舌打ちの後に、玄関が閉まる音がした。

 私も母も、あの男から解放されることはない。逃げようとすれば、離れていこうとすれば、また殴られたりする。ずっとこのままなんだと……


 だけどそれは、あまりにも突然のことだった。




 父が死んだ




 お葬式、お坊さんがお経を唱える声が右から左に流れていく。

 周りからはヒソヒソと話す男女の入り混じった声が酷くはっきりと聴こえた。

 父の死はあまりにも突然のことで、私は放心状態だった。悲しいという感情が全くなくて、しばらくして、あぁ死んだんだ。と、まるで他人事のように納得した。


「ん?どうしたの?」


 隣に座る母も、私と一緒で泣いていなかった。


「だいじょうぶ?」

「えぇ。もう少しで終わるから、いい子でおとなしくしててね」


 にっこりと笑みを浮かべて、私の頭を撫でる母。

 その時の手は酷く冷たく、私に向けるその瞳もあの時と同じで、生きているのに死んだような……頭を撫でるこの手と同じくらい、とても冷たかった。



 父が亡くなって数年。二人で生活していたが、母は変わらず冷たい目をしていた。

 声をかけてもぼんやりで、食事もいつものんびりしていた。まるで、心の中が空っぽになって、人の体をした人形のようになってしまっていた。

 そんな母の姿を見ていると、いつも胸の奥が苦しくなって、涙が溢れ出しそうになる。早く、早く母を助けたい。母に、また笑ってほしい、幸せになって欲しい。毎日毎日、私は本当にいるのかもわからない神様にお願いし続けた。

 そしてある日、私の願いを聞き入れてくれたのか、神様は一人の男性と母を引き合わせたのだった。

 その出会いが、母と私に幸福をもたらした。


「お母さん、再婚しようと思うの」


 その男性はバツイチで、私よりも五つ下……十一歳の娘がいる。

 話を聞いた時、私は反対しなかった。母が幸せになれるのならと。

 それに、妹ができるのは少し楽しみだった。



 それから数年後。

 

「あっ、来たみたい。十華ぁちょっとお鍋見てて」

「はーい」


 インターホンが鳴ると、母は少し慌てながら玄関へと向かった。

 私は雑誌のページをめくりながら返事を返す。

 玄関から楽しそうな声が聞こえ、それに聞き耳を立てながら雑誌を閉じ、台所の方に足を運ぶ。

 グツグツと煮込まれるお鍋の中身。たまにお玉で軽くかき混ぜて焦げないようにした。


「十華ぁー」


 母に呼ばれ、私は鍋の火を止めて蓋を閉じ、そのままリビングを出て玄関先に行く。


「あっ、えっと……今日からお世話になります」

「うん、よろしく」


 この日、私に新しい家族と可愛い妹ができた。

 あの地獄なような、不幸な生活から、私も母もこれからきっと幸せな生活を送ることができるだろうと、そう思っていた。


……………


………



 テーブルに置いたままだった食器を、一枚一枚丁寧に洗っていく。


「晩御飯どうしよっかなぁ。ふふっ」


 赤音たちと暮らし始めて六年がたった。

 最初はお互いたどたどしくて、実際に義父と親子、赤音と姉妹になる。言葉では納得していたが、あまり実感はなかった。

 過去のこともあり、色々と生活に不安はあった。だけど四人で生活した日々は、今までに味わったことのないほど、暖かいものだった。


「あっ、そういえばテスト近いって言ってたし、元気が出るようにカレーにしようかな」


 私は美味しそうにカレーを食べている赤音の顔を想像しながら、残りの洗い物を済ませていった。


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