第八回 杖無峠の山姥
鈴虫がけたたましく鳴く夜の闇の中、居倉村の観明寺に戻った雷蔵を待っていたのは、鼠のように歯を剥き出しにした貞助だった。
袖なしの打裂羽織に、野袴。相変わらず武士の恰好が似合わぬ貞助は、緩やかな坂を登って山門に辿り着いた雷蔵を、満面の笑みで迎え入れた。
「ニヤニヤと気持ち悪いな」
「こりゃ、久し振りというのに容赦がない物言いで。いやはや、御無沙汰しておりやした」
「相変わらず武士の身形が似合わぬ男だ」
「おっと、そいつぁ聞き捨てならねぇですなぁ、雷蔵さん。こう見えても、あっしの根は武士でござんすよ」
「ふん、武士が『あっし』だの『ござんす』だの使うものか」
雷蔵はそう吐き捨てると、貞助を無視して境内に入った。その足で、住持の然敬がいる庫裏に向かう。この夜分だ。女といるかもしれないと思ったが、珍しく一人で囲碁を打っていた。
然敬は余分な財は蓄えず、貧しき人には進んで分け与えるという、近郷にも名が響く篤志家である。その志や精神は、当地の領主・片桐東市正も崇敬するほどであるが、その一方で酒色を好む生臭だった。夜な夜な、素人女を招いては抱く。相手は百姓娘から後家、或いは人妻まで。商売女では、使い物にならないらしい。
どちらの顔も、本当の然敬だろう。実に人間らしい。故に雷蔵は気に入り、この観明寺に長逗留している。
雷蔵は然敬に帰宅の挨拶をした後、土産を渡した。般若湯。所謂、酒である。それと、宇津藩で踏んだ仕事の報酬から一部を渡した。離れを借りている家賃みたいなものだ。然敬は、
「ご苦労だったの」
と、だけ言うと、銭と般若湯を受け取った。般若湯は自分で飲み、銭は施しに使うのだろう。
「ちょっと、雷蔵さん。今日は報告があって来たんですよ」
然敬への挨拶を済ませ、自室たる離れに戻った雷蔵を、貞助が追ってきて言った。
「報告? 俺は世間の流れから俺自身の事まで、とんと興味が無い男だ」
「けぇ、相変わらず捻くれていなさる。お父上とえれぇ違ぇだ」
父の事を言われ、雷蔵は鼻を鳴らした。
「あっしは、お父上と一緒に仕事を踏みましたがね。そりゃ、ご立派な武士でござんしたよ。武士の中の武士。ああ、当世であんな男はいないでしょうねぇ。しかし、その一粒種ときたらぁ、なんでしょうねぇ。もうあっしは泣けてきやすよ。あっしは、お父上にご子息を任されたつもりでおりやしたが、もうとんだ拗ね者になってしまい、黄泉でお父上に会わせる顔がございやせんや」
貞助の喚きに雷蔵は背を向け、
「煩い。聞いてやるから早く言え」
と、畳の上に身を横たえた。この男が喚き出すと、逆らうより従った方が楽だ。
「へいっ。雷蔵さんは〔山姥〕ってご存知ですかねぇ」
「安達ヶ原にいるって奴か?」
「そりゃ鬼婆。しかも、それは御伽噺でしょうに。あっしが言うのは、山姥という裏で名の知れた始末屋集団でござんすよ」
「始末屋? 知らないね」
貞助は御伽噺と言ったが、雷蔵は鬼婆に会った事がある。いや、立ち合ったというべきだろう。あれは半年前の、飛騨の山深い山中での事だ。今思えば鬼婆だか山姥だかわからないが、野宿をしていると突然現れ、鬼のような形相で、牛刀を片手に白髪を振り回しながら追いかけられた。
雷蔵は、一昼夜鬼婆の追跡を受け、最後は扶桑正宗を一閃させて谷底に突き落としていた。
勿論、この事は貞助に話していない。どうせ言っても信じてくれるわけがないし、こうした魔性は幻覚かもしれないのだ。
「それで、その山姥がどうしたのだ?」
「かの磐井屋由蔵に雇われたそうでしてね」
「それが俺とどんな関係が?」
「ああ、もう。雷蔵さんの命を狙っているんですよ。当たり前でしょう。でなきゃ、報告に来やしませんや」
「なんだ」
雷蔵は興味が失せ、ごろっと貞助に背を向けた。
「なんだ、じゃございやせんぜ。山姥は集団で、しかも凄腕なんですぜ。あっしも関わりたくないぐらいでさ」
「逸殺鼠と渾名されるお前が怖がるほどとはな。ならば、俺を死なせてくれるかもしれないな」
「また、何ちゅう事を。あっしは雷蔵さんに死んで欲しくないから、こうして参上したんですぜ」
「今まで散々人を殺したのだ。今更自分の命など惜しいとは思わん」
「そいつはあっしも同じですがね。雷蔵さんは決めたんでしょう? 生きると」
それを言われると、雷蔵に返す言葉がなかった。確かに、決めた事だった。大名行列に斬り込み、栄生利重を討ち取った後の事だ。生きると。生きて生きて、死ぬのだと。
「それで、山姥は婆さんなのかい?」
雷蔵は、仕方ないという風に起き上がって訊いた。
「そいつぁ、存じません。何せ、山姥の姿を見て生き残った者はいませんのでね。姿も人数も歳も性別さえ不明でござんすよ」
「なんだそりゃ」
「ですが、心構えがあるのと無いのとでは、雲泥の差でしょう」
「……そうだな。お前の言う通りだ」
「で、何か言う台詞があるんじゃねぇですかね?」
「何が?」
「ほら、何かを貰った時とか、助けられた時に言う台詞ですよ」
「ふん、早く去ねよ。俺は寝る」
「かぁ、情けねぇったらありゃしねぇ。『ありがとう』の一言も言えねぇとは。あぁ、やはりお父上とは大違ぇだ。あっしはこんな男と組んでいると思うと、悲しくなるぜ」
貞助は芝居がかった声色で嘆くと、雷蔵が視線を逸らした隙に消えていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
山姥と呼ばれる一団に襲われたのは、それから十日後の事だった。
然敬に頼まれ、山を一つ越えた先にある城下に使いをした帰りだった。
だらだらとした坂が続く杖無峠。右手が斜面になっていて、岩が剥き出しになった断崖だった。その隘路で、山姥の一団に待ち伏せを受けた。
山姥は、六人だった。櫨色の装束に身を包み、顔も覆面で覆っているが、身体の線を見る限りは女のように見える。
(まぁ、山姥だからな)
これで男であれば驚きだ。
雷蔵は目の前の六人を見据えたまま、扶桑正宗をするりと抜いた。立ち合いを避ける、そんな余裕は無かった。
「うぬら、磐井屋に雇われた〔山姥〕という一党か?」
「……」
当然、返事は無い。ただ、答えとばかりに一斉に忍び刀を抜き払った。
「まぁ、答えるはずはないか。今日は俺を産んだ母の月命日でね。今日に限って、俺に人を斬らせるな」
「……」
「頼んでも無理か」
雷蔵は自嘲し、扶桑正宗を下段に構えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
(月命日だというのに……)
雷蔵は足元に転がる六人の骸を一瞥すると、扶桑正宗の刀身を懐紙で拭った。
確かに凄腕だった。傷こそ受けなかったが、紙一重の勝負だった。貞助が、避けようとする気持ちもわかる。
それにしても、磐井屋だ。そろそろ面倒になってきた。こちらの服喪も関係なく、仕掛けてくる。
(いっその事、こちらから攻め込んでやるか)
磐井屋はかつて川舟運を取り扱う船問屋だったが、今では抜け荷や賊働きを働く悪党である。しかも阿芙蓉の売買にも手を出していて、この世に生きていてはならない悪党である。
(貞助に諮ってみるか……)
癪だが、あの鼠男は役に立つ。益屋淡雲にも、磐井屋の件で話を通す必要があるだろう。あの両替商も、磐井屋の悪行は看過できないと言っていると、貞助が言っていた。
扶桑正宗を鞘に戻し歩み出した雷蔵は、その足を唐突に止めた。
殺気。それも、尋常なものではない。肌が粟立つほどだ。
(山姥の残党か。或いは、親玉の御登場か)
どちらにせよ、斬らねばなるまい。母親の月命日だというのに、無粋な奴らだ。
雷蔵は仕方ないという風に振り向くと、そこに立っていた意外な〔それ〕に、したたかな驚きを覚えた。
山姥。或いは、鬼婆か。どちらにせよ、この老婆は魔性に違いない。
上半身は裸で、腰には襤褸の布を巻いただけ。雷蔵を睨む顔は、まさに鬼である。
「本物の山姥が現れたか」
「けけけっ。やっと見つけたぞ、平山雷蔵。ぬしにやられた屈辱、晴らさでおくべきか」
そう叫んで、使い込まれた牛刀を突き付けた。
猛烈な圧力だった。山姥の長い白髪が、逆立っている。よく見れば、瘤のような二本の角が伸びている。
「山姥だが鬼婆だが知らないが、まだ真昼間ではないか。この時間は人間様の領分。魔性が出るには早過ぎというものだ」
「関係ないわ。儂はぬしを殺したいのじゃ」
「俺もよくよく憎まれたものだな。磐井屋に魔性。昼も夜も、俺が生きる場所が無い」
「死ね、雷蔵。殺して、ぬしの肉を食ってやろう」
山姥が駆け出した。雷蔵は咄嗟に跳躍し、虚空で扶桑正宗を鞘走らせた。
〔第八回 了〕