第四回 無念坂の幻惑
昼下がりの日差しの中だった。
その女は、居倉村の外れにある薬師尊の前で待っていた。
見掛けは、三味線を手にした瞽女。所謂、盲目の門付女芸者だ。
普段なら通り過ぎていたであろう。しかし、瞽女は白濁した瞳をこちらに向け、僅かばかりの殺気を見せたので、福釜堅之助は進む足を止めた。
「やっと来ましたね、福釜様」
女は、やや嘲笑の色を込めた声で言った。
初めて見る顔だった。歳は三十路手前という所で、自分と然程は変わらないように見える。
「そなたは?」
福釜は、深編笠の庇を僅かに上げて訊いた。
「磐井屋由蔵様の使いで参りました、秀桜と申します」
「やはりか」
磐井屋は、福釜の雇い主だった。
福釜は、一殺百両の旗を掲げる始末屋で、今回磐井屋から、平山雷蔵なる浪人を斬るよう依頼されたのだ。
磐井屋は、夜須藩の河川舟運を取り扱う船問屋で、かつて藩主だった栄生利重の資金面を支えていた男だ。
しかし、その利重が大名行列に斬り込んで来た雷蔵に討たれると、磐井屋の身代は傾き、表の商いを畳んで、抜け荷や賊働きを主とする、裏稼業に専念する羽目になってしまったという。
「随分と遅かったですね」
「まぁ、道すがら色々とあってね」
今回の依頼は、言わば磐井屋の意趣返し。自身の手下も何人か斬られているので、何かとせっつく気持ちもわかる。しかし、仕事は自分の歩調で行う。それは依頼した時に言っていたはずだった。
「山鹿姉妹が殺られましたわ」
「ほう、あの姉妹が」
「二日前に、平山がいる観明寺を襲いましたが、返り討ちにされたようです。しかも、難なく」
山鹿姉妹は、市と菊の姉妹で組んでいる始末屋で、忍びの術に秀で裏の世でも名の知れた凄腕だった。
雷蔵の腕前は承知していた。大名行列に斬り込み、殿様を討ち果たして生還したほどなのだ。だが、山鹿姉妹も驚くべき腕を持つ。その二人を難なく斃したとすると、やはり雷蔵という男は侮れない。
「して、その雷蔵は?」
「観明寺の境内で、遊ぶ子ども達を眺めています」
「子どもをか」
「ええ。一緒に混じる事もなく」
「相棒は?」
雷蔵には、畦利貞助という相棒がいる。この男は、夜須藩の隠密・目尾組に属していた忍びで、世話になっていた男を利重に切腹させられると、夜須藩を脱して雷蔵と組むようになったという。この男も、雷蔵と共に大名行列襲撃から生還している。
「それが、四日前からいませんの。まぁ相棒と言っても、四六時中一緒にいるわけではないのです」
「そうか。ならば、好機だな」
「ええ、ご武運を」
秀桜の声を背中で聞いた福釜は、再び歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
山門を潜ると、境内で子ども達が駆け回って遊んでいた。
雷蔵と思われる男は、本堂の縁側でゴロリと横になり、遊んでいる子どもを眺めている。
「あっ」
こちらの存在に気付いた子ども達の動きが、不意に止まった。雷蔵以外の浪人を見慣れていないのだろうか。
雷蔵は一刀を掴んで立ち上がると、
「このまま遊んでいなさい。おじさん達は、少し出掛けてくるから」
そう言って、福釜に目を向けた。
白い肌に、黒一色の着流し姿。髷は結わずに、蓬髪である。
(こいつが、独狼の雷蔵……)
暗く翳りに満ちた右眼に、福釜は魅入られる心地がした。一方の左眼は、大名行列襲撃で失ったらしく、眼帯が当てられている。
「何処のどなたか知らぬが、外で話そうか。この寺の裏手に、無念坂という禍々しい名前の場所がある。ま、俺達には相応しい場所であろうよ」
「よかろう」
福釜は、一つ頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
どちらかともなく、腰の一刀を抜き払った。
無念坂を登り切ったところにある、拓けた原っぱである。
福釜は正眼。雷蔵は下段だった。
暫しの対峙の後、先に踏み出したのは雷蔵だった。
気勢を発する事もなく伸びて来た突きを、福釜は鼻先で躱すと、無防備になった懐に踏み込み、鮮やかに胴を抜き払った。
手ごたえは十分。一瞬であったが、際どい勝負だった。流石は独狼と呼ばれた男だった。
福釜は、自信を持って振り返った。これで、この始末も終わりである。
だが、雷蔵の身体がぐらりと揺れたかと思うと、摩訶不思議か霧散し消えていった。
(なんと)
我が目を疑った。確かに斬ったのだ。こんな事があっていいのか。
「貴様、魔性かっ」
福釜は自分を覆う影を感じ、頭上を見上げた。
そこには、虚空で大上段に構える雷蔵の姿があった。
〔第四回 了〕