第三回 観明寺の女殺し
夜、雨が降っていた。
弱々しい雨が、だらだらと続く降り方である。
梅雨の時期だ。もう少し気持ちよく降ってもいいと思うが、中々どうして思いっ切りが足らない空模様である。
居倉村にある臨済宗の寺院、観明寺の離れ。着流し姿の平山雷蔵は、肘を枕にして庭に降り注ぐ雨を眺めていた。
船形藩執政・須磨近江の頼みで、お紺という奉公人を居倉村まで送り届けた雷蔵は、亡き父とは縁があるという観明寺に宿を取っていた。
観明寺の住持たる然敬は、居倉村だけでなく近郷にも名が響く篤志家として名高かった。余分な財は蓄えず、貧しき人には進んで分け与えた。その人柄を船形藩主の片桐東市正はいたく気に入り、自ら観明寺に足を運んでは、然敬に為政者としての心構えや、藩政の助言を乞いているとの事だった。
ふと、足音がした。雷蔵は物思いを断つと、音のする方へ目を向けた。
中庭を挟んで向かいの廊下を、灯りを手に進む人影が見えた。その灯りは真っ直ぐに進み、然敬の部屋へと消えていった。
(毎晩、お忙しい事だ)
然敬の部屋に消えて行ったのは、紛う事なき女である。
ほぼ毎晩続く光景に興味を覚えた雷蔵は、それとなく貞助に調べさせたのだが、どうやら然敬は貧しい百姓娘を銭で買っては寺へ招き入れ、夜の相手をさせているとの事だった。
「あの坊主、六十は過ぎるってぇのに大した色呆けのようですぜ。商売女より素人女、しかも百姓で小麦色に日焼けした若い娘じゃねぇと、てめぇの朽ちた卒塔婆が勃たねぇとみて、その筋に詳しい女衒に頼んでるんでさ。善行を重ねて徳を積んでも、肉欲には抗えないんでしょうねぇ」
と、貞助は唾棄していた。
所詮は、人間である。良い事と同時に、悪い事もする。坊主も同じだ。徳を積む行いと同時に、平気でそれを無にする事もするものなのだ。
(まぁ、人間らしくていい)
仏の道に背く事はしないという坊主より、よっぽど信じられる。だから雷蔵は、この寺に長逗留しているのだ。
雷蔵は然敬の部屋に入った灯りが消えるのを確認すると、ゴロリと仰向けになった。
頭に浮かんだのは、西の丸仮御進物番・長谷川平蔵の顔だった。
小柄で暗い目をした平蔵は、田沼主殿頭が会いたいと言っていた。
(さて、どうしようか)
あれから雷蔵は、江戸には戻らず関八州をふらふらしている。
政事とは、なるべく関わりたくない。かつて、その政事というものが原因で、多くの人間を斬る羽目になったのだ。今、無法者や罪人を斬っているのは、その罪滅ぼしという意味もあるのだ。
あの田沼が、自分に何の用なのか。おおよその見当はつくが、それ故に足が重くなる。
(まぁ、いいさ。そのうちまた長谷川が催促に現れるだろうよ)
不意に、場違いな気配を察知した雷蔵は、身を起こし中庭を一瞥した。
外に、何者かが潜んでいる。雷蔵は扶桑正宗を引き寄せると、咄嗟に横に転がった。
刃の光が見えた。雷蔵が寝ていた位置には、刀が突き刺さっていた。
全身に黒装束を纏った忍び。刺さった刀を引き抜き、雷蔵に突き付けた。
「中々やるではないか」
中庭にいると見せかけ、背後を取る。己の気配を悟らせないどころか、居場所を幻惑し騙すなど、中々出来る技ではない。
「誰の差し金だ? 教えてくれるとありがたいのだが」
「……」
「犬山の残党か? 朝廷の公家か? 江戸の田沼か? 恥ずかしい話だが、この平山雷蔵。人に恨まれる事には長け、心当たりが多過ぎて見当もつかん」
「ならば、死ね」
忍びが、猛然と斬りかかってきた。
(ほう)
と、雷蔵は一瞬の違和感を覚えたが、それを打ち払うような鋭い斬撃が迫った。剣も使える。雷蔵は一つ二つ躱すと、雨が降りしきる中庭に降りた。
「部屋の中だと、世話になっている生臭坊主に迷惑をかけてしまうからな」
雷蔵はそう言うと、扶桑正宗を抜き払って下段に構えた。忍びは正眼である。
「お互い、命は大事にしようではないか」
そうは言っても、相手に聞く耳は無い。
忍びの剣氣は高まるばかりで、最早受けて立つ他に術はないようだ。
互いに不動の対峙に入った。
雷蔵は下段のまま、潮合いを待つ。忍びにしておくには惜しい腕前だと思う。その証拠に、雷蔵の痩身が久方振りに粟立っている。
「雷蔵」
忍びが裂帛の気勢と共に斬り込んで来た。
雷蔵は覚えた違和感が確信に変わり、咄嗟に 避けようとした。が、扶桑正宗な持ち主の危機に過剰に反応し、それに引っ張られるように雷蔵の五体が跳躍していた。
念真流奥義、落鳳。
虚空で振り上げた一刀が、闇夜を断ち切るように一閃されると、忍びの身体は血煙を上げて仰け反っていた。
もう一人。背後。斬光が見えた。雷蔵は大きく前に踏み込むと、扶桑正宗を刎ね上げるようにして胴を抜いた。
(二人だったか……)
雷蔵は、自らが覚えた違和感を確かめようと、斃れた忍びに近寄ると、二人の頭巾を剥ぎ取った。
あらわになる、美しい鼻梁。白い肌。豊かな唇。
「やはり、そうであったか」
雷蔵は降りしきる雨の中、込み上げる笑いを堪えきれずに一笑した。
「もう二度と、女は斬らぬと誓ってもこの様よ。のう、ご住持。互いに女殺しよな」
すると、返事とばかりに然敬の部屋から漏れる女の喘ぎ声が、より一段と大きくなっていった。
〔第三回 了〕