第一回 奈多宿の破戒僧
畦利貞助が奈多宿に入ったのは、昼七つを告げる鐘が鳴り始めた時分だった。
弥生の朔。ここ数日、暖かな日が続いているが、今日は特に日差しが強い。
漂泊の俳人に変装した貞助の道帽は汗ばみ、
「ったく、嫌になるぜ」
と、着込んだ編綴の袖を襷掛けにして絞り、僅かな風で身体の熱を逃さんとしていた。
貞助は、暑さに弱かった。弱いといっても、そこは修行を重ねた歴戦の忍び。その忍耐力は常人以上であるが、梅雨の時期ともなれば気鬱になり、今年こそは、
(涼を探して奥羽にでも行ってみるかい)
などと、つらつら考えてしまう。
それほど、貞助は暑さが嫌いだった。
「旦那、冷えた酒がありますぜ」
宿場の大通りを歩いていると、路傍の酒屋から声が飛んできた。
「奈多の助郷、欠折の地酒だよ。今日なんざ、飲まなきゃやってらんねぇ暑さだろ」
酒屋の男が、酒が満たされた椀を掲げて叫んでいる。
喉が鳴った。そして、意に反して足が止まる。
(飲みてぇ)
だが、歯を剥き出しにした鼠顔に笑みを浮かべると、頭を振って断った。
仕事の前である。酒など口にすれば、〔あの人〕に何と言われるか。
今回、貞助は〔あの人〕に加勢を依頼していた。玄順を殺すだけなら一人でも出来るが、最近の〔あの人〕を見る限り、毎日何もせず江都をぶらぶらしているので、たまには働いてもらおうと声を掛けたのだ。
貞助は行き交う人の波に乗って、目的の店に向かって再び歩き出した。
奈多宿は、江戸の日本橋から夜須を繋ぐ南山道十一番目の宿である。
この宿は、奈々木村と多田村で構成された村で、石高は九百余石。助郷村は三十九ケ村で、宿内の家屋数は四百五十軒、うち本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠四十四軒で宿内人口は二千人ほど。この仕事に入るに際して、一応頭に入れた情報である。
宿場としては、中の上というほどか。ただ、目を引くような名刹古刹やこれといった特産も無いので、平凡な印象しか覚えない。
「お、此処かい」
蕎麦屋の提灯を見つけた貞助は、思わず独り言を呟いていた。
〔蕎麦 利庵〕
という屋号だった。田舎の宿場には似合わない、江戸の深川にでもありそうな名前である。
店に入ると、景気のいい声が飛んできた。
客は七人。職人風が一人。渡世人が二人。行商風が二人。そして、町人風が二人。貞助は瞬時にして客を見定めると、店の全体が見渡せる一番奥の土間席に座った。
頼んだのは、ざるである。貞助を待っていたかのように、すぐに運ばれて来た。
「予定通り、今夜。暮れ六つには、戻るようで」
ざるを運んできた年増の小女が、そっと耳打ちをした。
この小女は貞助の手下であり、事前に潜ませていたのである。そして利庵の店主も、仕事の協力者だった。
「じゃ、今夜早々に終わらせるぜ」
小女が頷き、席を離れた。
今回の仕事は、奈多宿の裏を仕切る玄順を始末する事である。
この玄順は表向きは浄土真宗の僧であるが、裏では奈多宿近郷の博徒を従える首領として、その名を轟かせている。
それだけならいいが、この玄順は阿芙蓉の密売買に加担しているのだ。その話を聞いた時、貞助は
(外道坊主風情が阿芙蓉などに手を出せるものか)
と思ったが、この玄順について調べていく内に、その考えを改める事になった。
玄順は、かつて武田弥五郎と名乗り、かつて関八州の阿芙蓉を仕切っていた犬山梅岳の側近を務めていたのだ。
阿芙蓉は幕府の専売であり、私的な売買は禁制である。それを守ろうが犯そうが貞助にとってどうでもいいのだが、雇い主である益屋淡雲が是非とも始末してくれというので、引き受ける事にした。あの老人は、裏の者の非違を糺す事を生き甲斐としているし、犬山梅岳に縁があるというのなら、看過する事は出来ない。〔あの人〕も犬山の名が出て、加勢をする事を決めた所もあるのだ。
犬山を滅ぼす。それは貞助と〔あの人〕との、呪いにも似た悲願なのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇
黒装束に着替えた貞助は、伽藍が見渡せる茂みに潜んでいた。
時刻は暮れ六つ。夕闇が辺りを包んでいる。
貞助は息を潜めて待っていた。あと少しで、〔あの人〕が来る手筈になっている。
(時間は守る人だったがねぇ)
約束より遅れている。どこかで女でも買っているのだろうか。
不意に、背後から鋭い殺気が貞助の全身を打った。
「誰だ」
貞助は慌てて跳び退き、懐に呑んでいた匕首に手を回した。
「冗談だ」
闇の中から、温もりの欠片も無い、冷たく沈んだ声が響いた。冗談と言いながらも、到底そうは聞こえない。
「冗談って、あんた」
貞助は、警戒を解き匕首から手を離した。
「すまんな。お前があんまり警戒しているもんでね」
闇から浮かび上がる男の影。
黒羅紗洋套をまとい、塗笠を目深に被ったその男。髪は結う事もなく蓬髪で、左眼には眼帯。貞助は、思わず歯を剥き出して笑んでいた。
「だからって悪ふざけが過ぎますぜ、独狼の旦那」
この男は、貞助にとって唯一であり無二の相棒。独狼と渾名される、平山雷蔵である。
「それで、玄順の奴は?」
「へい。今は中にいるはずでさ。さっき野郎の姿をちゃんと確認しやしたぜ」
「そうか。奴について調べたが、阿芙蓉だけではないな。坊主のくせに女衒の真似事までしているそうだ」
「とんだ屑ですねぇ」
「しかも、売っている先は異国だ。鏑木さんが教えてくれた」
鏑木とは公儀の隠密で、柳生陰組の一員である。幕命を受けて阿芙蓉の道を追い、犬山梅岳を追い詰めた功労者だった。
「異国に? 浄土真宗は半僧半俗と言いやすが、半分どころじゃねぇや」
雷蔵が頷く。そして、塗笠の庇を上げた。
その白く美しい貌に笑みが浮かぶ。それは思わず身震いがするように、薄ら寒いものであった。
「逸殺鼠。玄順の一党は皆殺しだ。一人残らず」
貞助を渾名で呼ぶと、雷蔵は腰の扶桑正宗を一瞥した。
この佩刀は、貞助にとっても馴染み深い。かつて、この刀を使っていた男も貞助の相棒で、一度だけ共に働いたのである。そして、武士として憧れていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
玄順一党、十五名。全てを殺した。
動いているのは、血刀を手にした雷蔵と、それに従う貞助だけである。
「他愛もねぇでしたねぇ」
累々たる屍の山と化した本堂を見渡して、貞助が言った。
「まぁ、こんなもんか。……だがな」
と、雷蔵は中庭に目をやった。
武士が一人、立っていた。
ぶっ裂き羽織に野袴。旅装である。歳は三十五かそこらだろう。筋骨は逞しいが、小柄。その相貌は地味であり、暗い目をしていた。
「玄順の手下かい?」
貞助の問いに、その武士は首を横にした。
「平山雷蔵殿とお見受けするが」
「そうだが」
雷蔵は、懐紙で扶桑正宗の血脂を拭いながら答えた。
「やはり。噂に違わぬ念真流の冴え。お見事でした」
「……」
「田沼主殿頭様の命で参上いたしました」
「田沼だと」
雷蔵の表情が、微かに動いた。
田沼主殿頭。かの老中、田沼意次である。
「独狼の雷蔵殿にお会いしたいそうで」
「俺に? 天下の田沼さんが何の用だ」
「さて、詳しい事は。ですが、おおよそ腕を貸して欲しいのでしょう」
雷蔵は鼻を鳴らした。
「俺は今、益屋淡雲という男の世話になっていてね。一言の断りもなく仕事を受けるのは、裏の義理というものに反する」
「それは承知しております。益屋殿の所には、田沼様自ら行かれるそうで」
「そうか。なら仕事次第だな……。だが、その前に名乗ったらどうなんだ。人の義理に反するぞ」
すると武士は、僅かばかりの笑みを浮かべ頭を下げた。
「これは申し訳ない。私は西の丸仮御進物番、長谷川平蔵と申します」
「長谷川さんね」
平蔵が、微かに頷く。雷蔵は目を伏せ、踵を返した。
「返答は江戸に戻ってからだ」
貞助は、そう言い残して歩き出した雷蔵の後に続いた。
田沼が、雷蔵に何を頼むのだろうか。この男といれば、退屈はしない。これからどうなるのか楽しみである。
〔第一回 了〕
「セ・ラ・デスタン」を加筆修正したものです。