第十一回 八溝の森の鏖殺
鵜飼古風は、半刻ほど続いている会話に耳を傾けていた。
夜。もう丑の刻ではあるだろう。常州久慈郡に広がる八溝の森深くである。
その中に建てられた、掘っ立て小屋。地面に筵を敷いただけの粗末なものだが、その中央にある簡易な囲炉裏を囲んで、二人の男が最後の確認をしていた。
一人は鵜飼駿河。水戸藩の隠密・頓聴寺衆を率いる頭領であり、古風の実父である。一方の男は、根岸重平。近頃水戸藩内で賊働きをする盗賊の首領である。
根岸は元は武士らしいのだが、毛皮の羽織や腰巻をしている風貌は、もう猟師か深山幽谷を漂泊する山人のように見える。一方の駿河も古風も、黒い忍び装束だった。
本来、この根岸率いる盗賊一党は、水戸藩兵が追討するはずであった。しかし、兵を出す度に離散集合して巧妙に逃れる根岸党に業を煮やした水戸藩主・徳川治保が、鈴木石見守の献策を受け、独狼と呼ばれる凄腕の剣客を呼び寄せたのである。
独狼。そう呼ばれる男の名は、平山雷蔵といった。
元は夜須藩士。それも御手先役という、代々刺客を務める役目に就いていたらしい。そして、その剣は念真流。魔性剣と忌み嫌われる、夜須藩のお留め流である。
しかし治保は、この機に乗じて雷蔵を殺そうと画策した。治保にとって、雷蔵は親友を殺した敵なのである。
雷蔵は旧主たる、栄生利重を斬ったのである。しかも、少数で大名行列に斬り込むという真似をして。そこに至る経緯を古風は知らないのだが、治保の怒りは凄まじかった。
それは全水戸藩士に対し、
「念真流必見致殺」
と、いう殺害命令を下したほどでうかがい知れる。
兎も角、治保は根岸党の追討を利用して、雷蔵の抹殺を頓聴寺衆に命じたのだ。最初からそのつもりだったのか、途中で思い付いたのかわからない。それに、忍びたる者が考える事でもない。
「それで、協力の報酬は確約してくれるのだろうな」
根岸が、上目遣いで言った。歳は四十代半ばというところだろう。盗賊らしく、狡猾な顔付きをしている。
「心配には及ばんよ。お殿様直々に言われた事だ」
「本当は誓詞血判が欲しいところだがな」
「それは高望みというものではないかな? 本来なら追討されてもおかしくない身なのだぞ」
駿河は白髪頭を撫でながら、穏やかな表情で返した。
「貴公と幹部は水戸藩士、子分は足軽待遇での取り立て。破格の報酬なのだぞ」
「いやはや、その通りだ。すまんすまん」
と、根岸は黄色い歯を見せて笑った。
「それで、駿河殿。手筈は済んでいるのかな?」
根岸に聞かれた駿河は、部屋の隅に控える古風に目を向けた。答えろ、という事だろう。
「は。既に、全員所定の場所に潜んでおります。また火縄銃も二丁準備して伏せております」
古風は一息に答えると、二人は深く頷いた。
今年で、二十三になる。父の役目を手伝うようになって五年。他にも四人の兄弟がいるが、少しずつ頓聴寺衆の後継候補者として試されるようになってきている。
「俺達の方も万全だ。水戸藩からの援軍も、上手く仲間に化けている」
「それは何より」
根岸党の中に、水戸藩内でも名うての剣客を、五名ほど潜ませていたのだ。これは父ではなく、治保の発案だった。
「独狼は、既に亀作村の庄屋屋敷に入ったらしい。明日の朝には来る」
「ほう、流石は駿河殿だ。頓聴寺衆に掛かれば、独狼の動きは筒抜けと見える」
「なぁに、村に手の者を潜ませているだけよ」
話はそれで終わり、古風は駿河と共に小屋を出た。
小屋の周囲には、根岸党が雑魚寝で野宿している。根岸党に化けた水戸藩士を含め、その数は三十。雷蔵襲撃には、この他に頓聴寺衆の二十名が加わる。つまり五十名で雷蔵に挑むのだ。
古風は駿河と共に、夜道を進んだ。人が通った形跡がない、獣道である。闇夜が森を包んでいるが、夜目を鍛えた古風には苦にもならなかった。
「古風」
駿河に呼ばれ、古風はサッと身を寄せた。声は出ているが、口は動かしていない。いわゆる、忍び語りの術である。
「お前は最後まで闘争に加わるな」
「何故でしょうか?」
「相手はあの独狼だ。万が一があった時が怖い」
「では、私は何を?」
「もし独狼を討ち取った場合には、すぐさま根岸重平を殺せ。根岸が死ねば、手下どもは動揺するだろう。その隙に皆殺しだ」
「わかりました」
そんな事だろうとは思った。あの治保が考えそうなの事なのだ。だからと言って、異論があるわけではない。こんな汚れ仕事が、頓聴寺衆の役目なのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
払暁。木々を覆う朝靄の中に人影が見えた時、待ち構える根岸党から殺気立つのがわかった。
森を抜けた先の拓けた場所に、根岸党が刀槍を持って待ち構えているのだ。
靄の中に浮かび上がる人影が、次第に大きくなる。根岸党が見渡せる藪の中に潜んでいた古風は、尋常ではない圧を感じて息を呑んだ。
独狼。或いは、〔大名殺し〕とも呼ばれる、その男。天下のお尋ね者にならないのは、裏では彼の支援者が多いからだという。
(来たか)
靄の中から現れたのは、黒羅紗洋套を身に纏い、塗笠を目深に被った男だった。
少し猫背気味の男。大名行列に斬り込みそうな武士には、到底見えない。
あと少しだ。目印の場所を抜けた時、雷蔵を狙撃する算段になっている。
水戸藩が用意した、二丁の最新鋭の火縄銃。それを頓聴寺衆でも名うての鉄砲巧者に与えていたのだ。
雷蔵の歩調には、迷いが無い。まっすぐ、根岸党が待ち構える場所へ向かってくる。
その時、二発の銃声が轟いた。雷蔵の体勢が揺らぐ。
(やったか?)
と思った刹那、大樹の上から二つの骸が落ちてきた。
「なにっ」
雷蔵はまっすぐ立っていて、黒羅紗洋套と塗笠を外したところだった。
「斬れ」
根岸の怒声が響いた。
それを合図に、根岸党が一斉に動いた。雷蔵も駆け出す。腰の刀を抜き払うと、跳躍して根岸党の中に飛び込んだのだ。
根岸が、頭蓋から両断されたのが僅かに見えた。
(あれが、念真流か)
着地した雷蔵に、根岸党が殺到する。しかし、すぐに血飛沫が上がった。
雷蔵が刀を振るう度に、鮮血が舞い首が跳んだ。簡単に人が斃れていく。人殺しは、こんなに容易いのか? と、思えるほどだ。
古風が初めて人を殺したのは、十二の時。父に命じられ、乞食のような男を殺した。中々仕留めれずに、全身を切り刻んだものだった。
しかし、目の前の雷蔵は違う。的確に、確実に殺していく。まるで、それがこの男に与えられた、唯一の才のように。
「へへ、どうです? すげぇもんでしょう」
背後で声がした。
古風は、慌てて藪から身を起こして振り向く。すると、忍び装束の一団が取り囲んでいた。
「おっと、動いちゃいけねぇよ。変な術も駄目ですぜ」
と、古風はあっという間に刀を取り上げられ、後ろ手に縛り上げられた。
「雷蔵さんには手を出すなと言われやしたが、鉄砲だけは消させてもらいやしたぜ」
「貴様は誰だ?」
「まぁ、誰だろうと構わねぇですが、あっしも名を売りてぇですからねぇ」
取り囲んだ一団から、ひと際目を引く小男が進み出た。そして黒頭巾に手をかけると、歯を剥き出して嗤う、醜い鼠顔が露わになった。
「逸殺鼠の畦利貞助と、覚えてくだせい。そして、こいつらは山霧というもんで」
「畦利。雷蔵の手下か」
「手下? そいつは酷ぇ言い草だ。あっしと雷蔵さんは友達ですぜ。固い絆で結ばれた」
「ふん。忍びは所詮は犬に過ぎん」
すると、貞助は眉間に皺を寄せて首を横にした。
「犬かどうかは、自分の心が決めるもんじゃねぇですかねぇ。まぁ、それはいいとして、あんたは目の前の出来事をしっかりと見て、覚えてくだせぇ」
貞助が、古風の頭を掴み上げ、屍の山を築く雷蔵の方へ向けた。
いつの間にか、頓聴寺衆も闘争に加わっていた。しかし、形勢は変わらない。そもそも、実力が違い過ぎるのだ。これでは、ただ雷蔵に斬られるのを待っているかのように見える。
「殺せ」
「殺さねぇよ。あんたは生きて、この様をお殿様に報告する役目があるんでさ」
「何だと」
「お、来た」
雷蔵の前に、駿河が立っていた。もう立っているのは、父一人だけになっている。
「父上」
「ああ、あれが鵜飼駿河でございやすね」
雷蔵は下段。駿河は正眼だった。
対峙。潮合いを読んでいるのか。摺り足で、少しずつ間合いを詰める。あと、一歩のところで両者は止まった。
「息が詰まりますねぇ。たまんねぇや」
貞助が嬉々として言う。それを古風は無視し、父の姿を目に焼き付けた。
「よく見ておくんでさ。あんたの親父さんを殺すのは雷蔵さんでございやすが、死地に追いやったのは、水戸宰相・徳川治保。あの男が雷蔵さんにちょっかいを出さなきゃ、死ぬ事もなかったんですぜ」
父が動いた。雷蔵は、跳躍し虚空で振り上げた刀が、朝日に照らされて輝いた。
〔第十一回 了〕




