第九回 御堂ヶ丘の魔性剣
その女が小屋に現れたのは、山中に仕掛けた罠の見回りを終えて帰った昼下がりだった。
女は、杖と三味線だけを手にしている。身に纏う着物は、地味だが上等の代物のようで、こんな筑波山の深くに来るような恰好ではない。
「何の用だね?」
石山道鬼が問うと、女が顔をこちらに向けた。
瞳が白濁していた。女は盲目の瞽女なのだろう。江戸にいた頃に、何度か見掛けた事がある。
「最近の門付は、こんな山中にまで来るのかな」
すると、女は口許は軽く緩めた。
道鬼の小屋は、筑波山の中腹にある。小屋の裏手には沢が流れているからか、時折猟師や山の民である山人の姿を見掛ける事はあるが、平素人が来るところではない。まして盲目の瞽女など、そもそも来れない。かと言って、女以外の姿も気配も無かった。
「中条天流の石山様でございますね」
女は挨拶も無く切り出した。流派と、こちらの名前。それだけで、用件を察する事が出来る。
道鬼は罠で仕留めた猿を軒下に置くと、
「今は筑波天流と称している。元より弟子などおらぬがね」
と、だけ答えた。
「しかし、裏では中条天流の剣名で広まっていおりますわ」
「筑波天流を名乗ったのは、江戸を離れてからだ。仕方あるまい」
道鬼は女に目で合図し、中に入るよう命じた。
小屋は、囲炉裏があるだけの小さなものだ。老いた猟師から買い取ったもので、寝食の全てを囲炉裏の一間で済ましている。
道鬼は、女と並んで上り框に腰掛けた。
「そなたは誰の遣いだね?」
「わたくし、秀桜と申します。ご覧の通り盲ではございますが、磐井屋由蔵の遣いにございます」
「磐井屋……」
聞き覚えの無い名前だった。新興の商人だろうか。元より世事に疎い身。しかも、こんな山深い場所にいては、世事など耳に入る事はあに。
道鬼が、この江戸の品川台町から常州筑波山中に越して来たのは、今より二年前の事だった。
道鬼は両国一帯を統べる首領・嘉穂屋宗右衛門が抱える始末屋であった。しかし嘉穂屋が南町奉行所に捕縛されると、道鬼は筑波山中へと逃れたのである。
かねてより、始末屋から足を洗いたいと思っていた。元々は借金を返済する為に始めた事で、人殺しを楽しんだ事は一度もない。しかし一度触れれば逃れられぬのが、江戸の裏。故に嘉穂屋の捕縛を好機と見て、道鬼は江戸を脱したのだった。
「私は足を洗ったのだ。もう二度と、仕事を踏む気はない」
「……」
「今はこの恰好同様に、単なる猟師だ」
道鬼は、獣皮の羽織に腰巻きをし、山刀を一本腰に佩いているだけだ。どこからどう見ても、猟師か樵だった。
「石山様が筑波山に籠られた経緯、全て存じておりますわ」
「ならば何故、盲の身のお前がこんな山中に参ったのだ。江戸の裏には私より若く才能ある始末屋がいるはずだよ」
今年で四十を数える身である。以前に比べ、長く刀を持てなくなったし、速く駆ける事も出来なくなっている。それでも剣には自信があるが、相手が剣客の場合にはどうなるかわからない。
「百五十両。手付に半金、首尾よく成功した折に半金……」
道鬼は鼻を鳴らした。銭の問題ではない。既に、始末屋として燃え尽きたのだ。
「あくまで、これは〔おまけ〕に過ぎません」
「百五十両でおまけとは豪気だ。百五十両に勝る報酬と言うと、仕官の誘いかね?」
「念真流、とだけ言えばわかってくださるのかしら」
「念真流だと」
久々に聞いた名前だった。念真流は道鬼にとって、討たねばならぬ宿敵。かつて、兄を討った仇の流派なのだ。
「戦わせてあげますわ、念真流と」
◆◇◆◇◆◇◆◇
かつて、道鬼が石山宣了という名であった頃、石山家は代々京の公卿・今出川公言に仕える青侍だった。その頃の幕朝関係は宝暦一件を巡って緊張関係にあり、中条天流の剣客として知られていた兄と道鬼は、公言の護衛として働いていた。
念真流を使うその男に襲撃されたのは、相国寺近くの小路を歩いていた、月夜の事であった。
男は黒衣で、更に宗十郎頭巾で顔を隠していた。
「何者だ」
兄が訊いたが、男は応えずに刀を抜いた。
それだけで、道鬼は格の違いを見せつけられてしまった。足が震え、肌に粟が立っていた。
「逃げろ」
そう呟いたのは、兄だった。
「中納言様を連れて、共に逃げよ」
道鬼は、公言の手を引いて駆け出していた。
一度だけ、道鬼は振り返った。その時目に映ったものは、月夜の虚空を舞うその男の姿だけだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「あの時の者なのか」
すると、秀桜が首を横にした。
「その男は、既に死んでおります。自らの主君に弓を引き、城中で大暴れした挙句に」
「俄かに信じ難いな……」
「秘匿中の秘匿。そして、此度の相手はその息子」
「ほう」
「この者は、父の無念を晴らさんと大名行列に斬り込み、見事首級を挙げております」
それも聞いた事のない話だった。おおよそ、突然の病死として処理されたのだろう。
「その息子の剣は、父以上でございますの。まさに狼の裔と呼ぶに相応しき、剣の申し子ですわ」
道鬼は腕組んで唸った。剣客として戦いたい気持ちが無いわけではない。
元々江戸に下ったのも、兄の仇を討つ為だったのだ。その為に、今出川家を辞して浪人となった。しかし、念真流という流派のみ判明したが、その先は追えずに江戸で漂う羽目になった。そうするうちに借金をこしらえ、気が付けば江戸の裏に堕ちてしまっていた。
仇討ちを諦めたのは、借金の返済の為に始末屋を始めてからだろう。人を斬っては銭を得る。そんな日々を過ごすうちに、念真流への憎悪は遠いものになってしまった。
「如何ですか? 石山様」
「念真流か。だが、今の私では相手になるまい。ただの犬死だ」
すると、秀桜が口を押えて笑った。
「何故に笑う?」
「これは御無礼を。まさか、石山様とあろうお方が、死を恐れているのかと思うと」
「何?」
「今まで散々人の命を奪ったあなたが、何故に自らの命を惜しまれますの?」
「それは」
「元々〔道鬼〕という名は、畏怖を以て呼ばれていた渾名だそうですわね。あなた様に出会うと、必ず死ぬ。まさしく、道を行く鬼のようだと」
そう呼んだのは、嘉穂屋だった。それがいつしか渾名になり、名前となってしまった。
「私は石山様の評判を耳にして、遥か常州にまでお尋ねしましたが、どうやら無駄足だったようですね。今のこの暮し。剣客としては、死んでるに等しいと言わざるを得ませんわ」
不思議と、憤怒の情は湧かなかった。それは、自覚しているからだろう。剣客として死んでいる。それはこの暮しをしているからではなく、江戸から逃げ出した時に死んだのだ。
「このまま、死ぬのでございますか?」
不意に、秀桜が道鬼の手を取った。女に触れられるのは何年振りだろうか。
道鬼は、言葉にならぬ声を漏らした。このまま、山奥の小屋で人知れず死んでいくのか。虚しくないのか。負け犬のままでいいのか。
その手を、秀桜が自らの胸元へ寄せた。白濁した盲の瞳。口許には、妖しい笑み。意識が、抗いようもなく吸い込まれていく。
「石山様。平山雷蔵と、戦いなされ。そして兄の無念を晴らすか、或いは剣客として散るのです」
そう、耳元で囁かれた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
筑波山の近くに、御堂ヶ丘という丘陵地帯がある。かつては小田氏治の家臣が城を築いていたというが、今は御堂村の一部になり、最も高い場所には大庄屋・長谷川三郎右衛門の屋敷がある。
その屋敷に雷蔵が逗留しているという報告を秀桜から受けると、道鬼は自ら出向いて訪ねたのだ。
秀桜が訪ねて来てから、二十日が経っている。その間、道鬼は髭を剃って衣服を武士風に改めるだけでなく、自らの剣にも向き合った。
朝晩二刻以上真剣を構え、脳裏に残る念真流の男と立ち合った。何度も斬られ、何度か手傷を与えた。そして、初めて斬った感覚を得た時に、秀桜の報告を受けたのだ。何でも雷蔵は、長谷川三郎衛門に依頼された仕事を踏んでいる最中だという。
「平山雷蔵殿はおられるか?」
長屋門の前を掃いていた老僕に声を掛けると、間の抜けた顔で縁側で横になる男を指さした。
「平山様、お客様でございますだよ」
老僕がそう言うと、
「おう、今起きるよ」
と、黒の着流し姿の男がのっそりと身を起こした。
やや背の低い男だった。色白で頬は豊だが、口許には軽薄な冷笑が浮かんでいる。一見して役者のようだが、異形でもあった。
髷を結わない蓬髪で、隻眼。見えぬ左眼には、黒い眼帯が当てられている。
「貴公は、何者なのだ」
抱いた疑問が思わず口から飛び出ると、雷蔵は一笑した。
「俺を訪ねてきて、何者とはな。俺が平山雷蔵だ、言う他にない」
「失礼。貴公は武士だと聞いてはいたが、その姿に驚いたのだ。申し訳ない」
「そうか、これか。まぁ、この風体では武士とは呼べまい」
「では、貴公は」
「さてね。差し当たり、人殺しの雷蔵と覚えてもらおう」
不敵な笑みだった。この若者が、兄を斬った男の息子。確かに、あの夜に感じた凄まじい剣氣に似た余情は感じる。しかし、何かが違い過ぎる。本当に、この若者が念真流の嫡流なのか。
「こりゃ、冗談にならねぇだ」
話を聞いていた老僕が、突然話に加わってきた。殆ど歯が残っていない口を洞穴のように開け、大笑いしている。
「平山様は、人殺しも人殺し。それ以外に能の無ねぇお方ですだ」
「多米吉。お前の評は的を得ているが、そこの御仁は俺だけに話があるようだ。少し遠慮しろ」
「へへ、そりゃ申し訳ねぇ。ですが、平山様。今なら裏山の社にゃ誰もおりやせん。存分に使えるだよ」
老僕は、全てを見透かしている言葉を残し、屋敷の奥へ消えて行った。
「そういう事だ。裏山の社で待っていただこう。四半刻後には、俺もそこへ行く」
「よかろう」
◆◇◆◇◆◇◆◇
裏山の社に続くという細く長い階段を上ると、思ったより広い境内が現れた。
その広さの割りには、社殿は小さく風雨に晒されて朽ちかけている。村の鎮守かと思ったが、そう大切にされてはいないようだ。
道鬼は拝殿に腰掛けて待っていると、ちょうど四半刻後に雷蔵は現れた。着流し姿から野袴・筒袖に着替え、朱色の鉄鞘の大刀を一本腰に佩いている。こうすると武士に見えなくもないが、風に靡く蓬髪だけが目立つ。
雷蔵が五歩の距離で歩みを止めると、道鬼はするりと立ち上がった。
「すまぬな、平山殿。私は、石山道鬼。貴公との立ち合いを所望する」
「まぁ……そうだろうと思ったよ。俺は何かと敵が多い身でね。虫けら同然の命を奪わんと、昼夜関係なく付け狙う者が多い。なので、その都度立ち合ってやるんだが、一応理由だけは訊きたい」
「貴公の父御に、兄を討たれた」
すると、雷蔵の切れ長の右眼が一瞬だけ見開いた。
「親父に討たれたのか……。ふふ、そうか。だが、親父はとっくに死んだ。お前さんの遺恨など、俺には関係ないね」
「ああ。だが、念真流は今なお貴公の中で生きている」
そう言うと、雷蔵ははっきりと聞こえる音で舌打ちをした。
「何とも忌々しいな、この剣は」
「剣には愛憎が入り混じる。私も剣さえ無ければとよく思う」
「いいだろう。俺を斬れば、念真流は滅ぶ。あくまで、嫡流のみだが」
すると、傍流があるという事か。しかし、それは驚くような事ではない。中条天流にも、派生した流派は多い。自称している、筑波天流もそうなのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
先に抜いたのは、雷蔵だった。
下段。その切っ先を地面すれすれまでに下げている。
向かい合うと、恐ろしいほどの寒気を覚えた。肌が粟立っている。
(あの夜と同じだ)
そう感じた時、これが念真流なのだと道鬼は悟った。
凄まじい殺気で、相手を気圧す。そうして、雰囲気から相手の動きを支配するのだ。
ある者は、幻覚すら見るのだと話していた。斬ったかと思えば、その身体は霧散して消える。攻めていると思えば、いつの間にか切り刻まれていたなど。念真流は魔性剣。そう呼ぶ者もいた。
(だが、そうはいかん)
念真流に、呑まれぬ。気圧されぬ。
道鬼は、雷蔵の殺気を振り払うように刀を抜いて八相に構えた。何度も、記憶の中で念真流と立ち合った。跳躍からの斬り落としに対応出来るのは、この構えしかない。
雷蔵の膝が、少しだけ下がった。
(来る)
そう思った時には、雷蔵が前に踏み込んだ。
驚くほど敏捷な動きで、道鬼の目の前に現れた。
左斜め上段から振り下ろされる雷蔵の剣を、道鬼は鼻先寸前で躱した。すると雷蔵が身体を入れ替え、下段から襲い掛かる斬り上げも、道鬼は後方に跳び退く事で避けた。
しかし、雷蔵の追撃は即座だった。懸河の勢いで斬り掛かってくる。
(大丈夫だ)
道鬼は雷蔵の連撃を、躱し防ぎ弾きながら確信した。
この男は、父親より劣る。太刀筋がよく読めるのだ。この調子なら、雷蔵の攻めを受けきれる。そして、勝機は全てを受け切った後。雷蔵が跳んだ、その時だ。
「ちょこまかと」
雷蔵の声が聞こえた。
依然として八相に構える道鬼は、風に靡く柳のように雷蔵の攻めを右に左に受け流している。
「どうした、勝負にならんぞ」
雷蔵の額には、大粒の汗が浮かんでいる。疲れだしている。いいぞ、それでいい。その先に、私の勝機がある。
跳べ。早く、跳べ。そう念じながら、猛攻に耐えた。
念真流は、跳躍する際に無防備となる。念真流を倒すには、その隙を突くしかない。
斬光が閃いた。上段からの鋭い打ち込み。それを躱した時、雷蔵の身体が僅かに右に流れたのが見えた。
道鬼は、すかさず裂帛の気勢と共に前に踏み込んだ。
誘い。やはり、そこに雷蔵の姿は無かった。
(今だ)
八相の道鬼は、虚空に向かって、薙ぎの一閃を放った。
雷蔵の両足が、鮮血と共に舞った。
そう思った。実際に見えた。感触も確かだった。
しかし、雷蔵の姿が霧散し消えて無くなっていた。
「何故だ」
鈍い衝撃。腹だった。次は顎。肘を叩き込まれる。
どうして、こうなったのか。不思議だった。確かに、私は雷蔵を斬ったではないか。
理解し難い。これが、魔性剣とも呼ばれる念真流なのか。
何かが潰れる音。視界が赤に染まる。鼻を潰された。息が苦しい。そして、刀を持った手を捩じり取られると、視界には青空だけになった。
投げられたのだろう。そして、私は負けたのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「お見事ですわ」
女の声がして、道鬼はゆっくりと身を起こした。
足元には、雷蔵が立っている。
「まぁ、その男では勝てぬと思っておりましたけど」
女は秀桜だった。相変わらずの恰好で、三味線を背中に担いでいる。
「少しぐらい手傷を与えられると思っていましたのに。まさか、柔だけで負けるとは」
「秀桜殿……」
道鬼が喘ぐように言うと、秀桜の白濁した瞳がこちらに向いた。
「平山雷蔵は一度も刀を抜かずに、あなたを倒したのよ」
「何と」
道鬼は、雷蔵に目を向けた。すると雷蔵は、小さく頷いて応えた。
「しかし」
「あなたは、最初から念真流に呑み込まれたのよ。まぁ、負け犬は所詮負け犬という事ですわね」
秀桜の手が光った。何かを投げた。それはわかったが、背中から落ちた衝撃で動けなかった。
静寂に響く金属音。目の前に、手裏剣が突き刺さる。雷蔵が刀で払い落したのだ。
「女、相手は俺だろうに」
「ふふふ。流石は独狼」
秀桜が片手を上げると、萌葱色の忍び装束で揃えた手下達が、十五名ほど木々の間から姿を現した。
「こいつは豪勢だな」
「あなたを磐井屋様に辿り着かせるわけにはいきませぬ」
秀桜はそう言い放つと、背中の三味線に手を回した。
「ほう」
雷蔵が感心したように声を挙げた。どんなからくりをしているかわからないが、三味線の中から、二本の短槍が引き抜かれた。
「これは面白い。しかしだ、石山氏」
と、雷蔵が声を掛けてきた。
「どうやら奴らは、あんたも一緒くたに殺すつもりらしい。あんたが剣客として生きたいのなら、落ちている剣を拾って抗う事だ。もし剣客を辞めるというのなら、このまま逃げろ」
そう吐き捨てると、雷蔵が突然駆け出していった。
「行け」
不意を突かれた秀桜が、慌てて手下に声を挙げる。
雷蔵は虚空に舞い、手下の群れの中へ着地すると同時に、幾つもの血飛沫が舞った。
あれが、念真流か。かつて兄を討った男と、寸分の狂いもない、同じ動きだった。
(さて、俺はどうするか……)
剣を捨てるか否か。
いや、負け犬のままで終わるか否か。
迷ったのは一瞬で、道鬼の右手は転がった刀に伸びていた。
〔第九回 了〕
雷蔵、江戸に戻ると決めたはずが、何故か常州でひとっ働き。




