The last one sing a song with someone in reality you know
夜空を仰いで、彼女は一度大きく息を吐く。
長い夜が終わり、そろそろ夜明けが近づいていた。今が一番冷え込む時間だ。砂漠は昼夜の温度差が激しいもので、それはここ一、二世紀程で世界中を覆った新しい砂漠でも同様、つまり世界中の何処にいても変わりはしない。寒暖の温度差五十度以上の環境は、コンクリート製の旧き建造物の大半を砂と塵に帰していた。
岩陰の小さな泉の横に腰掛ける彼女は、フードの端を引き、そのほつれに眼を留めた。
過酷な環境下で長期使用されることを前提に作られたとはいえ、さすがに劣化は避けられない。それでも、型としては一世代前のものになるが、第二期強化型汎用α-Ⅰリムテックスで編まれた全天候型耐久コートの機能は必要十分で、この砂漠でも、コートの中は常時ほぼ二十度前後を保っていた。今では、人が生活するには欠かせない装備の一つである。
もっとも、彼女は自分以外の人間を見ることがなくなって久しいのだが。
残った人を探して、果てない砂漠を長く旅してきたが、結局誰に会うということもなく日々は過ぎていった。どこまでも続く水平線の海辺、砂よりも岩の方が多い山岳、なだらかに続く砂丘の平地。いずれの土地でも、所々に昔の建造物の残骸らしきものがあり、昔には人が暮らしていたことが想像されたのだが、今ではもう人影一つ見当たらなかった。
フライヤー(飛行船)やサンドシップ(砂漠機関車)といった交通機関も機能しなくなり、燃料補給がなくなってシルフィード(『風の精霊』の意。空気を噴出して進む、ホバークラフトタイプのバイク)どころかサンドワーム(左右8つの車輪で進む車両。旧式で低速だが堅実)すら使えないため徒歩の旅であり、それ故に、実際は移動した距離はそうたいしたものではないのだろう。それでも、十年以上もかけていれば、自分たち以外に誰もいないと思うには十分だった。
そう、始めは、彼女は一人で旅をしていたわけではなかった。彼女と共に旅をする者がいたのだ。彼は、彼女の前を歩き、彼女の手をとって、いつも穏やかに笑っていた。彼女が不安に襲われるときは、いつも長い詩を歌い続けた。おかげで、やたらに長い詩も完全に暗記してしまったほどだった。自分たち二人しかいないというのに、彼は不思議と孤独を感じさせない人間で、確かに一人分しか存在感がないというのに、彼といるだけで奇妙な安心感があった。
何か、集団に属しているような、奇妙な錯覚。
それに、彼の行くところでは、不思議と食料や水が手に入った。もちろん、不自由しないほど豊富にというわけではないが、無くなると、ぽつりぽつりと、本当に必要な分だけ、何故か見つかるのだ。そんなとき、彼は誰に言うともなく、大地に「ありがとう」と微笑んでいた。彼女には本当に不思議なことだったが、それが何か分かったのは、彼が死んでからだった。
一年ほど前、彼は病で死ぬ前に「大丈夫、君は一人じゃないからね」と言い残したのだが、その意味は全く理解できず、彼女は悲しみにくれ途方にくれてしまった。もう、何もかも全て終わったと思った。当然のことだ、世界にただ一人になってしまったのだから。
それでも、だからといって、心臓が気を利かせてすぐに止まってくれるわけではない。彼女の心臓は動き続けて、肺は空気の循環を続けて、彼女は生きていた。
何となく、彼女は歩き始めた。もちろん当てはない。食料と水はすぐに底をついた。じきに歩くこともできなくなる、そのはずだった。
……強いて言うならば、砂丘の傾斜が彼女をそちらへ促した、または、涼しい風が彼女の歩みを導いた、ということになるのだろうか……。
彼女には自覚は無かった。呼ぶ声が聞こえたわけではない。かすかな光が見えたわけではない。導く力を感じたわけではない。それでも、彼女の行く先に、わずかだが食料と水があった。彼女は、呆然とそれを手に取った。
そんなことが続いた。自然と、「ありがとう」と口が動くようになっていた。
別に、何か聞こえるわけではない。何か見えるわけではない。何か感じるわけではない。それでも、そうしているうちに、彼女は彼を理解した。
何にも捉われず、ただ足を進める。
砂と風の声を聞く。何を教えてくれるわけではないけれど。
岩に合わせて道を変える。何を言われたわけではないけれど。
大地と共に歩んでいく。支え守り導いてくれるわけではないけれど。
彼女は歩んだ。大地と共に。世界と共に。孤独に。対等に。
岩陰の小さな泉から、彼女は水筒へと水を汲んだ。この時間帯の水が一番冷えていて好みなのだ。完全保冷水筒ではないので、いつまでも冷えているわけではないのだが、まあ気分の問題。そしてそれは結構重要である。
大地に対して黙礼する。そして彼女は軽やかに歌い始めた。共に在る世界に対して、それが彼女なりの返礼だった。
地平線の彼方から、世界は白く明け始めていた。
涼やかな声が、美しい旋律とともに風に乗って、空へと舞い上がっていく。
彼女の、地球への詩。共に在ることへの感謝。
それは、吟遊詩人だった彼が歌っていた、長い長いラブソング。