【5】 バーミナ国
バーミナ国の王城が見えた。
青い尖塔を持つ白亜の美しい建物が、水を引き込んだお堀の向こう側に建っている。お堀には跳ね橋が掛かっており、お堀の向こう側は、見張り台のある城壁となっている。
城の壁には半円の上部を持つ入口があり、幾人もの兵がその門を守っていた。頻繁に出入りする兵の姿も見える。慌ただしい雰囲気は、中央区が災害の対処に追われているからだろうか。
王城を左手に見て東の道へ行く。
商店は海から伸びる街道に多く、王城の周りには豪華な屋敷が多数建ち並んでいて、それに交じるように国の施設も伺えた。
東に向かえば、王城から遠ざかって行くほどに、なだらかな丘が連なって見え、民家が集合した地区がぽつぽつと伺えた。
東へ向かう街道は、北東へ曲がっており、中央区とルギナ州とを分ける検問へ繋がる。
海兵と共に馬車に乗っていれば、検問もすんなりと通され、馬車は農村地を通りながら、遥か遠くに見え出した、ルギナ州と呼ばれる、教会を中心とした地区へ向かっていた。
馬車はルギナ州の南西にある、高い塔を持つ教会を中心に集まった建物の集合地から、少し離れた場所にある、街道沿いの建物の前に停車した。
停車をすれば、待っていたように男2人が駆け寄って来て、海兵と何やら話をしている。
私はぼんやりと西の連山に沈む夕日を眺めていた。
「ここでひとまず休息を取る」
海兵の言葉に軽く頷けば、海兵の手が私の腰に巻かれた縄に伸びた。
「まさか逃げようなど思わないよな?」
一瞬のためらいを見せた海兵の手を見下ろしていたが、私に注がれた視線に気づいて顔を上げ、再度頷いて見せた。
「そうだな、その方が良い。このまま教会に連行されて行けば、さほどの問題もなく、この国に訪れた巡礼者として受け入れられるだろう。だが、もし逃げれば、私は捕虜を逃がしたとしてお咎めを受け、あなたは兵に追われる立場となる。そうなれば、せっかく手に入れられる自由を不意にする事になるだろう」
海兵はゆったりとした口調でそう言うと、私の腰に巻き付いていた縄を解き、何の戒めもないまま馬車から降りるように指示を出した。
海兵と共に馬車を降りれば、待っていた男が馬車に乗り込み、店の横にある馬車止めまで馬車を動かし、そこに馬の綱を繋いだ。
「行こうか」
それを見守っていた海兵は、私を誘い、店の中へ入って行く。
赤煉瓦造りの四角い形の建物は、左右に木戸を付けた窓があり、その中央に入口がある。入口は扉が開け放ってあり、中の状況を見る事が出来た。店からはおいしそうな食べ物の香りが漂って来ていて、思わず腹の虫が鳴りそうになる。
海兵と共に入口から店の中へ入ると、左側に厨房、右側に机が並んでいるのがわかる。机は4人が座れる椅子が入れ込んであり、全部で8ヵ所、二列に並んでいた。
奥の2ヵ所に人が座っており、どちらも4人掛けに1人で座っていて、食事を取るよりは酒を飲みに来たようで、机の上には酒の入った杯が置かれ、つまみ程度の品が乗った皿がある。
厨房と客席とを分ける位置に長い机が設置されており、そちらには椅子が5脚置かれている。そこにも男が一人、腰かけていた。
「いらっしゃい」
声を掛けて来たのは、厨房に向かう椅子に座った男だった。
煙草をくゆらせ、高椅子にゆったり腰掛けている。手には文字のたくさん書かれた紙面を持っており、私たちが店に踏み込んだ気配だけで声を掛けたのだろう、視線は紙面に注がれたままだった。
「酒はいらない。夕食を二人分、適当に見繕って」
海兵は慣れた風にそう言うと、窓側の手前にある机に向かった。
私はほんの少し会釈をすると、海兵の後ろを付いて客席の方へ歩み、海兵の座った場所の斜向かいになる椅子に座った。
奥にいた脚の視線がこちらを見ている。不審そうな目であるが、言葉を掛けようという気はなさそうだった。
厨房の奥から年配の女性が向かって来る。白い襟のある長袖の服と、赤茶色のひざ下丈のスカートを穿き、その上にフリルの付いた白いエプロンを付けていて、いかにも貫禄のある体を重そうにしながら、私たちの座った机の横で止まると、手に持っていた水を机に置いた。
「巡礼者の護衛かい?」
腰に手を当て、珍しそうに私を見ると、海兵の方へ視線を向ける。
私はどうしていいのかわからず、女性と同じように海兵の方へ視線を向けた。
「まぁ、そんなところかな」
「へえ、そうかい。だけど、こんな時間に街道を抜けるのかい。教会はいつでも門を開けなさるだろうが、教会を囲う街の門は午後6時に閉まるからね、門の前で朝を待つ事になるだろうよ」
「そんな話し、初耳だなぁ」
机に置かれた水を取り、一口飲んだ海兵は、ため息交じりにそう言うと、困ったように笑っていた。
女もまた、困ったように顔を顰める。
「北方の国でも災害があっただろ。うちだって南の海岸が壊滅したと言うじゃないか。だから自国の被災者の保護が優先で、他国は後回しってことらしいよ。うちは人通りが多ければ多いほど繁盛するけどね、教会はそうも言っていられないだろ。巡礼者の受け入れも、当分は停止するっていう話しもある。大変な時期に来なさったねえ」
「……そうか、災害の影響か」
「せめて今日の内に門を越えることができれば影響もないんだろうけどね、この時刻じゃ急いでも間に合うかどうかわからないねえ」
女がそう言うと、海兵は席を立った。
「悪いが食事は止めておくよ。軽く持って行けるようなものを、包んでくれないかな?」
「急ぎなさるか、そうだね、その方が良さそうだねえ」
女は海兵の言葉を聞くと、急いで厨房の方へ向かって行った。
私は水を飲んでから席を立ち、厨房の前まで歩き、金を払う海兵の元へ歩み寄った。
「馬車の用意はさせておくよ。食事もすぐに包んで持って行かせるから、発てるように準備なさると良い」
慌ただしく席を立った私たちを、店の客が不振そうに見ている。彼らはこの近くに住む民であるのだろうか。急ぐ様子もなく、楽しそうな雰囲気もない。どこかやさぐれた空気に満ちていた。
「急がせて悪いね、無事に門を潜ることができても、いろんな手続きが待っている。今のうちに身づくろいをしておいてくれ」
海兵は店の奥を指示し、先に扉を潜って外に出て行った。
私は言われたまま店の奥にある扉へ向かい、人としてあることに直結する排泄を済ませ、洗面所に立ち、手や顔を洗いながら鏡を覗きこんだ。
たまに忘れそうになる。自分では見ることのできない顔、表情。大人の男の顔は、すでに遠い日になってしまったあの時に見た、使神に良く似たものだ。しかし、あの時とは違い、目の下に出来た黒ずみや、こけて見える頬の辺りに疲れを感じさせている。
同時に、遠くに来てしまったのだという感慨も襲って来た。
「お前さん、本当に巡礼者か」
気付けば扉を開け、扉を背で止める形で男が立っていた。それは厨房に面した場所で紙面を広げていた男である。
私は水の流れる蛇口を閉め、袖で顔を拭うと、どう言って良いのかわからないまま、男を振り返った。
「拘束されて馬車に乗っていたところを見た。巡礼船での拘束者が教会へ送られることになったと紙面に載っていたが、お前さん、いったい何をやったんだ」
「……何もしていません。そこを通してください」
男が何を考え、こんなことをしているのか、私には見当をつけることもできなかった。
「通行料を払えよ、巡礼なんてお気楽なことをしているあんたなら、出せるものなんかいくらでもあるだろう」
男は暗い笑みを浮かべ、背で止めていた扉を閉める。狭い空間に二人で立つ事となり、半歩の距離に立つ男の掴みかかって来るような気迫が私を追い詰めている。
「すみません、私は何も持っていないので……」
男が詰め寄る分、後ろに下がり、壁に背を預ける形になって逃げ場を失った。
男の手が私の腰に伸びる。わき腹から懐の中まで男の手が動きまわり、私は成すがままで立ち竦んでいた。
男の失笑が聞こえた。
「ちぇ、何も持っていやがらねえ」
胸倉を掴まれ、壁に押し付ける形で顔を寄せられ、私は息を飲んで目を閉じた。
鈍い音と同時に腹に痛みが走った。
思わず腰を折り、両手で腹を抱えて膝を折る。今度はわき腹に痛みが走り、蹴られているのだと分かった頃には地に転がっていた。
無力だと思う。
人とはいったい何なのだと思う。
「ふざけるな、バカが」
穿き捨てるように言葉を残し、気が済んだのだろう、男は扉から素早く外に出て行った。
扉の外から怒声が聞こえる。女の声と、男の声。
それから扉が開き、海兵が姿を現し、私の傍に膝を折り、私の体を支えるように抱き起した。
「悪かったな、目を離すべきではなかった」
「……いえ、大丈夫です」
腹に力が入らずに掠れた声になった。
痛みが後から後から押し寄せて来るようで、息をするのも辛い。
「歩けるかい」
海兵の手を借りて立たせてもらい、肩を借りて扉を潜る。
すると女が心配そうな顔をして立っており、さきほどの男はどこかへ消えてしまったようだった。
「悪かったねえ。許しておくれ」
心配そうにする女の脇を抜け、外まで歩いて行く。
店の前には馬車が用意されており、私は痛む体を抱えながら、馬車の上に身を乗り上がらせた。
女が馬車の横に佇み、私の方へ神妙な視線を寄せている。
海兵は無言で馬車を走らせ出し、その揺れで腹の痛みがズキズキと増す。
しばらくは無言のままだった。海兵も時間を惜しむように馬車を走らせている。門の閉まる時刻までどれほどなのかわからないが、間に合うように走らせていることは、彼の様子でわかった。
門の前まで行くと、長い列ができている。
人が立ち並ぶ列と、馬車が並ぶ列があり、それを見送るように通り過ぎる馬車もあった。
「拘束させてもらうよ」
海兵は馬車を止め、私の腰と手を戒めに掛かった。
「州長が先月変わってね、税の取り立てが厳しくなったんだ。だから金に困る民が増えた。以前にあった活気が衰えているのもそのせいなんだ。だからって暴力を許す訳じゃないが、ほんの少しだけ覚えておいてもらえると有難い」
縄を掛けながら、心痛の表情で兵の小声が聞こえて来た。
私にはわからない。理不尽な痛みに怒りを覚えることはないが、悲しみと諦めが心の中を占めている。人として生きる者たちの生き方を見て、命あることが羨ましく思えず、どうして望まない命を与えられてしまったのかと、神を呪う気持ちばかりが先に立った。
私は笑うことも繕うこともできず、ただ無表情で前を向いている。
海兵はそんな私を見て何を思ったのか、彼もまた表情を消すと、拘束を終え、列を通り越して行く馬車の後に続いて馬車を走らせた。
私は巡礼者ではない。巡礼船での逮捕者であるから、書面一つで門を潜り抜けられた。
この先の状況に安楽など想像できず、さらなる不安が胸の中に渦巻いていた。