【2】 転生
大陸には様々な国、部族、先住民など、数えきれない程の民が集い、それぞれの紋章を掲げ存在する。
そのうちの5大国が大陸を制したのは、今から数千年も昔だとされた。元は一つの強大国が分裂し、5つの国を形作ったと言われている。
北にある山脈を有する国イライジャ。北東の海に面した国シルバーチエ。東南に伸びる半島と砂漠地帯を有するバーミナ。南の亜熱帯と海を有するルラ。西の高地に建つルナリエ。それらの国を割るように北の山脈から流れ出でる大河が南の海へと注ぐ。その先、海を渡り、半日の航海を経た先の島を聖地ル=バールと呼んだ。
孤島ル=バールには5つの港がある。丁度五角形を象る位置にある港には、それぞれの国に停泊の権利があり、港から中央地へ伸びる本道が中央を目指し敷かれている。崖を登るその道の先にそれぞれの国の紋章を刻んだ門が建てられていて、それらの門を通ることが許されるのは、各国の王族のみであり、同行した兵士でさえ門を潜ることは許されなかった。
門を潜り抜けた先には広い円形の土地があり、その土地を五角形に割った位置に5本の柱が立ち、天を刺す様に伸びた白い円柱には、知性を表す蛇が巻き付く文様が刻まれている。それは聖地ル=バールの封印の証、柱を繋いだ線の内側には誰一人として入ることは許されず、立ち入ることが許されているのは死者の魂だけであった。
私は左右に見える巨大な白い柱を見上げていた。自身の足が、白い柱を繋ぐ線の外側にあることを知り、身の凍るような衝撃が一瞬にして体の自由を奪い、荒れた息を吐き出そうとして喉を通すことができず、奇妙な音を胸の中央からせり上がらせていた。
アルバである私の使命は、ル=バールの結界に囚われ、永遠の時を刻む者であり続けること。
結界の外に踏み出すなど考えたこともなく、考える以前にアルバであることの誓約が思考をも貫き、それ以外であることさえ想像したこともなかった。
ゆっくりと持ち上げた指先が、水平になる手前で痛く痺れた。
目に見えぬ結界に触れる。
一瞬、視界の中に陽炎のような歪みが現れた。
揺れた視界の奥に少女が立ち、不思議そうな瞳で私を見上げている。
私だった。
それはアルバとしてあった私の姿そのもので、私が私を見詰めている。そんな奇妙な瞬間を呆然と迎えていた。
アルバは私だ。私だけが結界の内側に立ち入れる形ある者である筈だ。
あれは私だ。
ならば結界の外に立つ私はいったい何であるというのか。
足元に黒い影が過った。
脛に感じるのは獣の毛並み。滑らかな感触が今もなお触れ続けている。
視線を落とせば、巨大な黒い毛の固まりが足元に蹲っており、結界の奥に入り込まぬような位置に頭部を曲げ、私の左側から右側へと肢体を巡らせている。
頭上を旋回する鳥が甲高い声を上げた。
見上げれば肌を焼く日の光が眩しく、反射的にひさしを作った腕の向こう側で、黒い点になった鳥の姿が優雅に舞っていた。
結界の奥にあった少女が興味を失ったように踵を返し、冷めた背中を見せながら奥へと進んで行く。
「待って!」
声が通り過ぎる感触を喉に感じながら、唇を割った声に驚いて喉元を手で覆う。
自身の声というものをあまり聞いたことがない。けれど私の声は少女のものでなければならない。アルバは永遠の少女であり、永遠の命を生きるアルバが成長することもない。
視界に入った自身の腕には、赤く細長い舌を覗かせる蛇の姿がある。
蛇の姿は結界の柱に刻まれている。時折、結界の向こう側を這って行く姿を見たこともあった。けれど触れたことはない。まして間近でその顔を見ることもなく、その息吹を感じたこともないのだ。振り払う前に体が硬直した。
足元の獣、頭上を旋回する鳥、腕に巻き付く蛇。それらはこの大陸を守護する使神の持つ聖なる使者と同じ。
喉元に当てた手を離そうとして、その手の大きさに目を疑った。
腕の太さ、肩幅、胸板、腰に佩く剣、骨盤を覆う革の帯、しっかりとした足とそれを覆う黒革のブーツ。どれも私の思う私の姿からかけ離れたものだった。
両手で顔を覆えば、ざらざらと荒れた肌の感触が手のひらに伝わり、高い鼻梁と目、眉、耳、頬の横を流れる一握の髪房は、白に近い銀の色をしていた。髪を撫で後ろへ辿れば、首の後ろで結わえた房に行き当たった。衣服は生成りの布を被り、腰で黒革の帯で止めた簡易なもの。太ももの上に掛かった上衣と、足を緩やかに包んだ黒い布と、その上に履いた膝下のブーツ。私が見たことのある人の衣服とは、結界の向こう側まで訪れることのできる王族のものだけ。これらの衣服がどの程度のものであるのか見当もつかないが、宝飾品に彩られた王族とは違い、門の奥を警固する兵士のものとも違うと思えた。尤も、それらの姿は結界内部より遥かに遠い位置にある。従って注視したこともなければ見たいと思ったこともない。ただ時折視界の端に映り込むそれらの姿を覚えていたにすぎなかった。
足元の獣がゆっくりと体を起こした。
思わず一歩を後退させようとして、思っていた感覚と体の造りが違っていた為か、簡単な動作であるのに思うようにならず、その反動で尻もちをついてしまった。けれど視線を獣から外すことはできない。尻もちをついた体勢で見れば、獣の体は見上げる位置となる。そうなれば獣の存在がさらに大きく感じ、息を飲む隙もなく、視線だけが吸い寄せられている。
獣は私のことになどお構いなしに前足を伸ばして尻を持ち上げる。それからぶるると毛を震わせ、グルルと喉を鳴らした。そうしてやっと私という存在に気付いたみたいに顔を巡らせ、鼻先を私に向け、緑に縁取られた金の瞳を輝かせた。
ヒッと喉の奥が鳴った。緊張で体が勝手に震えた。逃げようにも逃げる場所などなく、それ以前に体が動かないことも感じていた。獣に睨まれ、竦んで動けず、呼吸さえままならない状態で、獣の動きを注視し続ける。
じっと見られ続けているうちに、獣の方が瞳を眇めた。観察対象である私のことを取るに足らない相手だと判断したような表情に見えた。
それと同時に声が頭の中に響いて来た。
「期は繰り返す。今期はそなたの手に委ねられた。忌まわしき終焉までの道のりを歪め、生き永らえさせよ。さすれば魂の輪廻に殉ずる道が開かれよう」
思わず空を見上げた。
内なる声に等しい響きが直接脳に伝わったのだが、想いは空へと向かった。
神がどこに存在するのかわからない。自身の存在が神の息吹の中にあったことだけは確かであろう。アルバであった頃も、アルバでなくなった今でも。
使神の姿を模し、男としてある自身の姿も、まだ偽りの中なのではと訝しんでいる。けれど眼の前にあった獣の姿が消え、腕に巻き付いていた蛇が肌に吸収されるようにして文様となり、空高くで旋回をしていた鳥が胸元に落ちた。それは個体を隠し、自身の肌の上で文様になったことが、衣服から覗く鎖骨の下に浮かび上がった、羽根を広げた鳥模様を見てわかる。腕には蛇。そうなれば獣も自身の見えない場所に文様となったのだろうと推測できた。それらは姿を消し、文様としてしか形を成していないが、自身の中で息づいていることだけが感覚の内にある。血潮の流れる皮膚の上に張り付く他者の息吹。自身の鼓動とは別の鼓動が3つ、速さを違えて存在した。
私はとても奇異たる者となったのだと、己となった形の中にある思考を巡らせる。
命ある存在になりたいと願った訳ではない。それなのに願わぬ願いが聞き届けられた。それは自身の願いなどではなく、神に定められた運命なのかと、アルバとしての理から解き放たれ、新たなる理の中に投げ込まれたことで痛感した。
これは最早逃れることのできない運命。
世界が破滅に向かう運命であるのと同様、変わることのない道なのだと感じた。
ならば進むしかないのだ。熱き血潮と鼓動、肌に触れる感触と三種の息吹を抱えながら、己の使命を胸に歩きはじめる。
ル・バールの結界の外側。
王族だけが入ることの許された地から始まる。
視線を馳せれば、闇に飲み込まれていた地に明かりが見えた。
結界に向かう一本の道筋にぼんやりと浮かぶ白い光の羅列。それらが門の向こう側で途絶え、そこからたった一つの光が漂い来る。
逃げ場のない広き大地に立ち、その明かりを眺める私の運命など、知る由もない。
死すればただ破滅に向かい、生きていようが破滅に向かう。
その流れを覆す何かを自身が持つとは思えない。
使神の映し身である内側に留められた魂の私が、途方もない空虚に佇んでいる。
それはものを知らないアルバであった少女のもの。
それ以上のものには成りえないだろう。