【1】 始まりと終わりの地
聖なる地、ル=バール。
幾千、幾万もの魂が寄り添う地。
広大なる大地の中央に位置するル=バールは闇の世界に唯一の光を有する地でもある。
その地には青白く発光する魂が浮遊し、たったひとり取り残された私を慰めるように集っている。
そうして過ごした月日の長さもすでに遠く、朽ちることのない私の体を羨むように通り過ぎる魂の光だけを眺めてすごした日々の空虚を浮き彫りにした。
抗うことのできない運命。
死することもなく生き永らえ、すでに転生する世界を失った地でただ膝を抱え続ける。
祈りも果てた。
繰り返す思考は「なぜ」と問い続け、その終わりは見えない。
魂を守り、転生を祈る特主としてル=バールに仕えた意味さえ、すでに無きものとなってしまった。
けれど、生きる。
誰に許しを乞えば良いのかわからないまま、ただ、ただ、朽ちることのない生を永らえ続けている。
「やり直したいか」
天には無数の星が瞬き、滅んでしまった地を慰めるように美しく彩っている。
月明かりが私に白光を落とした。
それは肌にほんのりとした温かみを伝え、心の中の哀しみを浮き彫りにする。
私は見ることを止めてしまった瞳を天に向けた。
ぼんやりと映り込む光景にさえ失望を感じる。
言葉などすでに忘れた。長い月日、口さえ開いたことはない。ついに幻を見るほど壊れてしまったのかと笑みをこぼした。
声が聞こえる。「やり直したいか」と。
やりなおす、なにを。
私は日の光さえ失った世界の凍える空気をも抱えるように自身を抱き締めていた。
元より人の温もりを知らぬ。
聖なる地、ただひとりの特主として朽ちぬ体を得た私は、聖地に集う魂を慰め、新たなる魂として送り出す為にある唯一の存在だった。
死者の魂を慰める者、アルバ。
生死の輪廻より解き放たれた存在、アルバ。
けれど心の劣化により器の代替えが行われる為、私は第9番目のアルバとしてこの地を守って来た。
9番目のアルバ。それが最後の代となる。
地は闇に包まれた。
大陸の中央地、ル=バールの結界より外を知らない私には、大陸でなにが起こったのかはわからない。ただ、いつの頃からか魂の数が増え、一気に膨れ上がった頃には行き場を失った魂が、地を青白く染め上げるほどになっていた。
それと同時に起こった変化は祈りの歌を忘れたこと。
祈る意味を失ったのは、魂が輪転する場を失ったからだ。
ほんの一時、辺りが赤く染まった時期がある。
きっとそれが終焉の合図であったのだろうと推測する程度のこと。
世界の崩壊を経て得たのは、静かな時を刻むル=バールという無意味な地。アルバという無意味な存在であった。
「やりなおしたいか」
頭の天辺から足元に突き抜ける声。それは雷鳴に似た音だったかもしれない。
私は虚ろな瞳を天に向け、それから静かに顎を引いた。それは頷くという行為と取れたかもしれない。けれど私の思考はすでに閉じている。声の主が勝手に捉えたのだろう頷くという行為に答えが告げられる。
「ならば時をやろう」
辺りを浮遊していた青白い魂の光が歓喜するように渦巻きながら空に昇り、星空を隠すほどの光の膜になった。
その中央部から冷たい風に乗って落ち来るまばゆい光の線が見える。
線は私に近づきながら形作り、細長い蛇に似た形が螺旋を描きながら近づき、私の前に降り立つ時には有羽の人型に変化した。
表情は見えない。まばゆい光を纏った人型は、一歩一歩私に近づき、僅か先で足を止めると、私の頭上に手を翳した。
天を染め上げる青白い光の膜が左回りに旋回し始めていた。
「いやだ」
何百、何千という時を無声で永らえ続けていたから、喉を通る声というものが掠れた空気の固まりとなる。
おおよそ声とは言い難い音が空気に混じった。
人型の手が、私の頭上で戸惑いを見せる。
やりなおした所で運命は変わらぬ。もし仮に何らかの奇跡により終焉を回避できたとしても、私の運命は変わらない。時を止めた地とは違い、転生を繰り返す魂を迎え、送り出す為の道案内を務める特主としての一生を、いつ来るとも分からぬ心の劣化を待ちわびながら送り続けなければならないだけのこと。
私はかわらない。何があろうが変わらないのだ。
「血肉が欲しいか」
白く発光した手が私の銀色の髪を一滴すくい上げ、さらさらと落として行く。
私は人型の顔であろう位置に視線を向け、頷く事さえ忘れたように見つめ続けた。
彼が神であるのなら、そうできるのかもしれない。時を戻し、同じ道を辿り直すことが可能であるのなら、その中に私という小さな変化を加えることも可能なのか。
だが、生きて何になろう。
血肉を持った魂として生まれ直したとしても、私という小さな存在が何の足しになるというのか。
天を染め上げる青白い魂の発光。その一部に加わるだけの未来が見える。
この地の神は有羽の美しい顔立ちをした性別を持たぬ使神。足元には狼に似た獣を従え、肩先には鷹に似た鳥を止まらせている。右手には剣を、左手には楯を持ち、その腕には知性を表す蛇が巻き付いている。
これがこの地を守るという使神、イーザ。ル=バールの結界の中央に祀られている像と同じ姿である。
「なにを望む」
人型の腕にあった螺旋を描く蛇が鎌首を擡げる。
それはただの形であったが、私にはそれがちろちろと赤い舌を覗かせる知性とはほど遠い獣の姿に思えていた。
天に渦巻く青白い光の中から、ひと際大きな魂の光が天と地との中央へ降りて来た。
思えばあの魂が帰してから、終焉までの時が一気に加速した。
その光の魂は、私にやり直す事を望めと嗾けるように光を強くしている。
「……望まない。私は、生も死もいらない。アルバであることが私の使命だから」
発光した白い手が、私の額に触れる。
私はその冷たい感触に驚き、顔を上げた。
そこには美しい顔立ちをした青年がひとり立っている。
有羽の、男。
性を持たない使神ではなく、確かに男だとわかる強靭な体。滑らかで清潔な体であるのに、胸にやわらかな肉はなく、男らしい骨格が白い着物に包まれた内側で息づいていた。
「御意」
足元にあった獣の影から音が響き、地に溶け込むように姿を消した。
肩から大きな鳥が数度の羽ばたきを見せた後、一気に空へと舞い上がって行く。
世界が遠くなった。
渦巻く青白い発光が、歓喜するように天に昇って行く。
それらははじけ飛ぶように方々へ散り、最後に幾分か大きな発光が楕円を描きながら空へ向かい、先に散った発光を追うように消えて行った。
私は自身が凝り固まるような奇妙な感覚を得ながら思考そのものになり、浮いているのか、佇んでいるのかわからないまま、ただゆっくりと揺れ始めていた。
世界に日の光が昇り始める。
どこからか、赤子の産声が烈火の如く響き渡る。
世界に過ぎ去った日々が重なり、世界の記憶から抹消された。