無能と婚約破棄された私が黙って身を引いたら、翌日から婚約者の"天才の舌"が二度と当たらなくなったそうです
わたしが何も言わず身を引いた、その翌日から。宮廷じゅうが讃えた元婚約者の"天才の舌"は、二度と当たらなくなった。三日後には、王の御前で、水と葡萄酒の見分けさえつかなくなるほどに。 無理もない話だ。その舌は、はじめから、わたしのものだったのだから。
順を追って、話そう。何もかもは、あの夜会から始まった。
その夜、王都でいちばん高い天井の下で、わたしは「味気ない女」になった。
夜会の広間は、磨いた大理石が蝋燭を千倍にして返す。楽団が控えめな三拍子を刻み、銀の盆が絶えず行き交う。その中央で、婚約者のヴィクトル・アーレンスがわたしに背を向けて言ったのだ。よく通る、宮廷仕込みの声で。 「ロザリンド。君との婚約は、ここで終わりにする」 ざわめきが止まった。止まったのに、止まらないふりをする無数の視線だけが、こちらへ集まってくるのがわかる。わたしは手にしていた葡萄酒の杯を、そっとテーブルへ戻した。硝子が硝子に触れる、小さな音。 「理由をうかがっても?」 「理由?」ヴィクトルは振り返り、憐れむように眉を寄せた。「君には感性というものがない。舌が平板で、心が凪いでいる。この十年、隣にいて一度も、私を驚かせたことがなかった。──味気ない女だ、君は」
味気ない。 その言葉を、彼はわたしから教わった。もう何年も前、まだ二人とも年若い頃だ。彼が初めて人前で葡萄酒の品定めを任され、南部の白を口に含んで「まあまあだな」と言ったとき、わたしが囁いたのだ。まあまあ、では駄目です。こう言ってください。「悪くはない。ただ、味気ない」──と。舌に芯がなく、余韻が途中で立ち消える酒を、社交界で品良く貶すときの決まり文句。彼はそれを気に入って、以来ずっと使っている。今夜、わたしに向けて使うまで。
ヴィクトルの隣には、若い令嬢が寄り添っていた。レティシア・モロー子爵令嬢。薄紅の頬に、勝ち誇らない程度の微笑みを浮かべる訓練の行き届いた娘。侯爵家の跡取りに、二段も下から寄り添う娘。それを咎める声が広間から上がらないのは、彼が"時代の美食家"だからだ。格すら黙らせる名声を、彼は持っている。──わたしが、持たせてやったのだ。 「レティシアは違う」とヴィクトルは続けた。「彼女はひと口で、私と同じものを感じ取る。同じ言葉で、同じ高みを語れる。──私にふさわしいのは、こういう繊細な感性だ」 繊細な感性。それも、わたしが彼のために選んで磨いてやった台詞だった。
そのとき、レティシアが、わたしへ小首をかしげた。憐れむように、やわらかく。 「ロザリンド様。どうか気を落とさないで。感性は、生まれ持ったもの。努力でどうにかなるものではありませんもの」 子爵令嬢が、伯爵令嬢を、憐れんでみせる。──わたしは、笑いそうになった。生まれ持った感性の話を、よりにもよって、その出どころに向かって、するとは。
わたしは何も言い返さなかった。言い返せることが多すぎて、どれから言えばいいのか、わからなかったからだ。だから代わりに、深く膝を折った。淑女の礼。誰よりも正しく、誰よりも静かに。 「かしこまりました。どうぞ、お幸せに」 顔を上げたとき、ヴィクトルは少しだけ、拍子抜けした顔をしていた。すがりつくと思っていたのだろう。泣くか、取り乱すか、せめて赤くなるかと。そういう反応こそが、彼の"感性"には必要だった。物語を、劇的にしてくれる相手が。 わたしは、劇的になってやる義理を、たった今、失ったところだった。
広間を出るとき、背中に囁きが刺さった。あの子、やっぱり駄目だったのね。アーレンス様の隣にいて、あんなに地味で。味覚のことも、全部あの方の手柄でしょう。──ええ、そうね。みんなそう思っている。十年、そう思わせてきたのだから。
◇ ◇ ◇
わたしとヴィクトルの取り決めは、二人がまだ十かそこらの、庭の隅で始まった。
アーレンス侯爵家の跡取りは、生まれつき匂いも味も、ほとんど感じない子どもだった。それは貴族の食卓では、隠さねばならない欠陥だった。この国では、食こそが格だ。どの畑の葡萄を、どの年に、どう扱ったかを舌で言い当てられる者が、宴の中心に立つ。王の食卓を差配する〈王室美食官〉ともなれば、ひとつの言葉で酒蔵を興し、ひとつの言葉で老舗を潰す。それだけの権威がある。 ヴィクトルには、それが最初から閉ざされていた。
わたしは逆だった。エルフォード伯爵家の、目立たない次女。人前ではまともに喋れず、俯いてばかりで、けれど舌と鼻だけが、はしたないほどに鋭かった。厨房から漂うひと筋の匂いで、今日の肉が一昨日締められたものだと当ててしまう。井戸の水を口に含めば、雨がいつ降ったかがわかる。母は「そんなことは言うものではありません」と、わたしの舌に蓋をした。
だからわたしたちは、取引をした。庭の隅で、指を絡めて。 あなたは人前に立って。わたしは後ろで舌になる。あなたの口を借りて、わたしはこの世界の味を言葉にする。わたしの舌を貸して、あなたは食卓の中心に立つ。 それは、欠けた者同士の、いちばん正しい足し算のはずだった。
十年、わたしはそれを守った。宴の席では、彼の斜め後ろに控える。彼が杯を傾ける前に、わたしが先にひと口を検める──毒味の令嬢、と陰では呼ばれた。そのひと口で、わたしはすべてを読み取り、指の位置や、扇の角度や、たった一語の合図で、彼に「言うべき言葉」を渡す。彼はそれを、さも自分の舌が転がしたかのように、朗々と語る。人々は唸り、感嘆し、彼を〈時代の美食家〉と呼んだ。 わたしは、味気ない女と呼ばれた。彼の隣で、俯いて、何も感じていないような顔をして。──そうしなければ、この足し算は成り立たなかったから。彼の手柄が、少しでもわたしに零れれば、彼の権威にひびが入る。だからわたしは、自分の舌を、彼の名声のために、丁寧に埋めてやった。
愛していなかったと言えば、嘘になる。後ろに立つわたしを、たまに彼が振り返って、目だけで「助かった」と言うとき。その一瞬のためなら、味気ない女で構わないと思っていた。本当に、思っていた。 彼が、その舌を自分のものだと信じ込むまでは。
◇ ◇ ◇
婚約破棄の翌朝、理由の続きは、召使いたちの噂で知れた。
三日後に、王室美食官の任命がある。国王臨席の〈品評〉。並みいる酒と料理を、ただひとりの舌が裁いて、この国の食の格を定める儀式。ヴィクトルは、その筆頭候補だった。そしてモロー子爵家が、レティシアを差し出す代わりに、宮廷の後ろ盾を約束したのだという。 彼はもう、わたしを必要としないと判断したのだ。十年の隣にいて、彼は本気で、あの舌が自分のものに移ったと信じていた。味の言葉を、これだけ暗記した。感嘆のさせ方を、これだけ覚えた。もう、後ろの女はいらない、と。
わたしは、朝の紅茶をひと口飲んだ。淹れ方が半分の温度で狂っている。いつもなら厨房へ下りて直させるところを、その朝はしなかった。 教えてやるべきだろうか、と一度だけ考えた。あなたの舌は、はじめから空だったのだと。品評の席で、あなたは裸で立つことになるのだと。 考えて、やめた。十年ぶんの言葉を、わたしはもう、彼のために使わない。 わたしは、ただ黙って、席を立てばいい。
◇ ◇ ◇
品評の日。王城の大広間は、朝から食の匂いで満ちていた。
国王が上座に着き、その両脇に大臣と、審査に立ち会う貴族たち。長い卓には、番号だけを付された杯と皿が、ずらりと伏せて並ぶ。銘も産地も伏せられ、舌だけが頼りだ。国じゅうの酒蔵と料理人が、固唾を呑んで壁際に控えている。今日のひと言で、彼らの一年が決まる。 わたしは、末席のさらに端、招かれた客のひとりとして、そこにいた。行かなくてもよかった。けれど、行った。──自分でも、なぜかはわからないまま。
ヴィクトルが、審査官の椅子に着く。レティシアが誇らしげに、その斜め後ろに立つ。かつてわたしがいた位置だ。けれど彼女は、控えるのではなく、見せるために立っていた。彼女の役目は、感じ取ることではない。感じ取っているふりを、美しくすることだった。
最初の杯が、ヴィクトルの前に置かれた。深い紅の葡萄酒。 彼は杯を掲げ、光にかざし、香りを取る仕草をした。仕草だけは完璧だった。十年、わたしの隣で見てきたのだから。広間が静まる。彼の言葉を待って。 わたしは、末席で、指を組んだまま動かなかった。彼へ渡すべき合図を、握りつぶすように。
ヴィクトルの喉が、小さく上下した。 「……北部、ヴァレンヌ領の丘。実りの年の、申し分ない一杯だ。舌の上で、陽の匂いが立ちのぼる」 朗々と、いつもの調子で。壁際の酒蔵たちが、ほう、と息を漏らしかけ──そして、止まった。 その杯は、南の安酒だった。日当たりの悪い斜面の、雨に打たれすぎた葡萄。渋みが芯まで抜けて、余韻が途中で立ち消える。まさに、味気ない一杯。わたしにはひと口も飲まずとも、香りだけでわかった。番号を伏せても、酒は嘘をつかない。嘘をつくのは、舌のない人間だけだ。
国王が、かすかに眉を寄せた。審査に立ち会う老貴族のひとりが、手元の目録と杯を見比べ、探るようにヴィクトルを見る。ヴィクトルは気づかない。得意の絶頂で、次の一句を継いだ。 「この芯の通った渋み、この深い余韻──まさに、味気ある名品と申せましょう」 味気ある。 広間の隅で、誰かが息を呑んだ。味気ある、などという褒め言葉は、この世に存在しない。それは、わたしが一度も彼に渡したことのない、ただの、でたらめだった。合図を失った彼の口が、覚えた言葉の残骸を、順序も意味も失って、ただ吐き出している。
崩れるのは、一瞬だった。 ふりだけの香り取り。中身のない賛辞。裸の舌。──十年かけて積み上げた〈時代の美食家〉が、たった二杯ぶんの言葉で、自分の口から、音を立てて崩れていく。 助け舟のつもりだったのだろう。誰の許しも待たず、レティシアが誇らしげに継いだ。 「ええ、ヴィクトル様の仰る通り。この余韻、繊細な感性でなければ拾えませんわ」 安酒を、彼女もまた、名品と讃えた。裸の舌が、二枚、並んだ。感じ取っているふりは、隣に感じ取れる誰かがいて、初めて成り立つ。その誰かを、二人とも、もう手放したあとだった。
国王が、静かに手を挙げた。ヴィクトルの声が止まる。 「アーレンス侯爵令息。もう良い」 たった一言で、任命は消えた。
◇ ◇ ◇
広間が、ざわめきに沈もうとした、そのときだった。
上座の近くから、ひとりの男が立ち上がった。ヴァレンヌ公爵セドリック。この国で唯一、ヴィクトルの評判に一度も感心しなかった男だと、噂に聞いたことがある。自身が本物の舌を持つがゆえに、贋物の舌を、静かに見抜いていたのだろう。 その公爵が、まっすぐに、末席の端を見た。わたしを。 「エルフォード嬢」 名を、呼ばれた。この広間で、わたしの名を呼ぶ人がいるとは思わなかった。 「そなたは十年、アーレンス侯爵令息の隣におられた。──そなたの目には、この一杯、何と映る」
視線が、いっせいにわたしへ振り向く。かつて味気ない女と呼ばれ、地味で、無能で、彼の手柄の陰に埋められていた女へ。 わたしは、立ち上がった。杯には、手を触れなかった。触れる必要が、なかった。 「南の、陽の当たらぬ斜面の葡萄です。雨に打たれすぎて、渋みが芯まで抜けています。余韻は、三つ数える前に消える。──味気ない、一杯です」 ひと息だった。ひと息で、広間じゅうが理解した。 十年、宮廷を唸らせてきたあの舌が、誰のものだったのかを。
沈黙のあと、壁際の酒蔵の老人が、震える声で「……その通りです」と言った。番号が、伏せられていたはずの銘が、その一言で確かめられた。 ヴィクトルが、こちらを見ていた。憐れむのでも、驚くのでもなく、ただ、真っ白な顔で。今ようやく、自分が十年、何を借りて、何を捨てたのかを、理解した顔で。
◇ ◇ ◇
公爵は、卓を回って、わたしのそばへ来た。近くで見る彼の目は、思いのほか穏やかだった。 「ずっと、妙だと思っていた」と、彼は小さく笑った。「アーレンス侯爵令息の言葉が、正しく世界を射抜く夜と、まるで的を外す夜がある。その違いが、どうしても解けなかった。──今、解けた。あなたが隣にいる夜だけ、彼は正しかったのだ」 わたしは、答えられなかった。十年、誰にも気づかれないように、丁寧に埋めてきたものを、この人はずっと、埋め残しのほうを見ていたのだ。 「エルフォード嬢。無礼を承知で伺う」公爵は、卓上の別の杯を取り、わたしへ差し出した。「これを、裁いてくれとは言わない。──あなたが、何を感じるかを、聞かせてほしい」
裁いてくれ、ではなく。 感じることを、聞かせてほしい、と。 この十年、誰も、そう言わなかった。みんな、わたしの舌を"使い"たがった。合図として、道具として、他人の名声の燃料として。この人だけが、わたしの舌が"味わう"ことそのものを、聞きたいと言っている。
わたしは、杯を受け取った。ひと口、含む。 北の丘の、陽の匂いがした。本物の。 目の奥が、熱くなった。十年ぶりに、自分のために、味を言葉にしていいのだと、気づいてしまったから。 「……あたたかい、お酒です」わたしは言った。品評の言葉ではなく、ただの、わたしの言葉で。「陽の当たる斜面で、じゅうぶんに待って摘まれた葡萄の味がします。急がなかった味。──誰かに、急かされなかった味が」 公爵は、目を細めて、うなずいた。 「では、私が最初の一杯を、あなたに」
最初の一杯。──十年、わたしはいつも、誰かのために最初のひと口を検めてきた。毒味の令嬢、と呼ばれて。わたしのために最初の一杯を、と言ってくれた人は、今日まで、ひとりもいなかった。
味気ない女は、その日、王城の広間で、名前を取り戻した。 わたしの舌は、もう、誰かの口の後ろには、隠れない。
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