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3/3

百万の卵と、ひとつの名前3/3 名前のない故人

今回は、ネレイド族が「還らなかった者」をどのように覚えているのかを描きます。


彼らには個体名がありません。

けれど、忘れないための方法がないわけではありません。


名前で覚える人間と、流れで覚えるネレイド。

その違いを、リオがもう少し深く知る回です。

# 第3話 名前のない故人


「第三記録を開始しますか」


アーカイブが言った。


船室の照明は、最小限まで落としていた。老いた私の目には、その方が楽だった。明るい場所では、思い出まで輪郭を失うことがある。暗い場所の方が、遠い光をよく思い出せる。


「第三記録」


私は答えた。


「海洋惑星ネレイス。ネレイド族。主題は、愛だ」


アーカイブは、前回より長く沈黙した。


「三記録連続で同一主題です」


「そうだな」


「分類上、冗長です」


「物語は、少し冗長なくらいがいい」


「理解不能です」


「そのうち分かる」


「主題を変更しますか」


「しない」


私は少し笑った。


「第三記録も、愛だ」


還り潮の夜が終わったあと、海上都市は奇妙な静けさに包まれていた。


祝祭の後の静けさではない。

葬儀の後の静けさでもない。


その中間だった。


ネレイドたちは、歌い終えたあとも海辺を離れなかった。彼らは互いに抱き合うわけでも、涙を流すわけでもなかった。ただ水に足を浸し、外洋へ続く暗い潮の道を見ていた。


私は、どう声をかければいいのか分からなかった。


慰めるべきなのか。

祝うべきなのか。

それとも、黙っているべきなのか。


案内役のネレイドは、私の少し前を歩いていた。濡れた髪の先から、まだ水滴が落ちている。彼女の背中はまっすぐだったが、儀礼の前よりもどこか小さく見えた。


「眠らないのですか」


私が尋ねると、彼女は振り返らずに答えた。


「眠れる者もいる。眠れない者もいる」


「あなたは?」


「今夜は、眠らない方の潮にいる」


潮。


彼女たちは、感情にさえ潮の名を与えるのかもしれない。私はそう思った。


「ついてきて」


彼女はそう言って、都市の下層へ向かった。


人類が造った海上都市の上層は、透明な橋と白い照明で構成されている。だが下層は違った。そこは、ネレイド族が元から使っていた岩礁の洞に、人間の技術を継ぎ足したような場所だった。


壁は金属ではなく、滑らかな石と珊瑚でできていた。ところどころに光る藻が植えられ、通路全体を淡い青で照らしている。床には薄く水が張られ、歩くたびに波紋が広がった。


「ここは?」


「還らなかった者たちを思い出す場所」


「墓ですか」


「近い。でも、少し違う」


彼女は奥へ進んだ。


通路の先には、丸い空間があった。天井は低く、中央には深い水が満ちていた。水面は静かだったが、完全に止まってはいない。床や壁の見えない隙間から、細い流れがいくつも入ってきて、互いにぶつかり、ほどけ、また結び直されている。


水そのものが、ゆっくり呼吸しているようだった。


人間の墓地なら、そこには墓標がある。名があり、生没年があり、誰かの言葉が刻まれている。


だが、その部屋には何も刻まれていなかった。


文字もない。

記号もない。

貝殻も、石も、供え物もない。


あるのは、流れだけだった。


「何も、残さないのですか」


私は言った。


「残しているわ」


彼女は水面を見つめた。


「どこに?」


「ここに」


彼女は水を指した。


「流れの中に」


私は、水面を見た。


そこには、ただ複雑な波紋があるだけだった。細い流れが交差し、小さな渦を作り、すぐに壊れる。人間の目には、それは模様ですらなかった。


「私には、何も読み取れません」


「地球人の目では、難しいでしょうね」


「あなたには分かるのですか」


「分かる、というより、思い出す」


彼女は水の中へ入った。


膝まで水に浸かり、両手を広げる。指の間の薄い膜が水を受け、ゆっくりと流れを変えた。彼女がほんの少し腕を動かすと、水面に細い波が走った。


それはすぐに消えた。


いや、消えたように見えた。


次の瞬間、別の場所に小さな渦が生まれた。渦は壁際の流れとぶつかり、かすかな曲線を描いて中央へ戻った。


彼女は目を閉じた。


「これは、私と同じ還り潮にいた者の流れ」


「兄弟、ですか」


その言葉を使ってよいのか、少し迷った。


彼女はうなずいた。


「地球人の言葉では、そう呼ぶのでしょう」


「名前は」


私は聞いてから、また間違えたと思った。


だが、彼女は怒らなかった。


「ないわ」


「それでも、分かるのですか」


「ええ」


「どうやって」


「その子は、いつも流れに逆らうのが早かった」


彼女は水の中で、ほんの少し体を傾けた。


水が変わった。


部屋の奥から来る細い流れが、彼女の腰のあたりで二つに割れた。片方は壁へ逃げ、片方は中央へ戻る。その中央へ戻った流れが、次の流れにぶつかる前に、すっと下へ潜った。


私は息をのんだ。


それは、泳ぎだった。


姿はない。

声もない。

名もない。


けれど、何かがそこを通ったように感じた。


「その子は、群れの誰よりも先に岩礁の下を抜けた」


彼女は言った。


「強い子だった。いつも私より速かった。流れが変わる前に、変わる場所が分かった。私が迷うと、先に回り込んで、尾で水を打った」


「尾で?」


「こっち、と教えるために」


彼女は少し笑った。


「けれど、ある朝、戻ってこなかった」


水面の渦が、ふっと崩れた。


その崩れ方が、妙に寂しかった。


「探したのですか」


「何日も」


「見つかったのですか」


「いいえ」


「では、今の流れが、その子のものだと、どうして分かるのですか」


「分からないわ」


彼女は静かに言った。


「でも、私はそう覚えている」


私は、その言葉に胸を突かれた。


分からない。

でも、そう覚えている。


それは、私が小さな卵をミナと呼んだ時と、同じ構造をしていた。


証拠があるからではない。

確信できるからでもない。

ただ、失われたものをそのまま失わせないために、人は何かを決める。


人間は名前を決める。

ネレイドは、流れを覚える。


「あなたは、その子を忘れていないのですね」


「忘れない」


彼女はそう言った。


「名前がないのに?」


「名前がなくても、泳ぎ方は覚えている。岩礁の下で私を待たずに行ったことも、外洋の匂いを最初に見つけたことも、怖い時ほど速く泳ぐ癖も」


彼女は、少しだけ笑った。


「名前があれば、もっと覚えやすいの?」


私はすぐに答えられなかった。


覚えやすい。

たしかに、その通りだ。


名前は、記憶を結ぶ結び目だ。たくさんの出来事を、ひとつの音にまとめる。母の声、友の顔、死者の墓。名前があれば、そこへ戻れる。


だが、名前があるからといって、その人を覚えているとは限らない。


墓石の名前を読み上げても、その人の歩き方を知らなければ。

記録上の名を知っていても、その人が何を怖がり、何を好み、どんな時に笑ったのかを知らなければ。


それは本当に、故人を覚えていることになるのだろうか。


「分かりません」


私は正直に答えた。


「私たちは、名前がある方が覚えやすい。でも、名前だけを覚えていても、何も覚えていないことがある」


「難しいのね、地球人は」


「ええ。たぶん」


彼女は水の中で、もう一度腕を動かした。


今度は違う流れだった。


さっきの流れよりも、ずっと遅い。中央へ向かわず、壁際を何度も回り、同じ場所へ戻ってくる。ためらっているようで、けれど最後には必ず細い出口を見つける。


「これは?」


「別の還らなかった者」


「兄弟?」


「同じ潮ではない。でも、同じ群れだった」


「その人は、どんな方だったのですか」


私がそう言うと、彼女は少しだけ不思議そうに私を見た。


「方」


「地球の敬語です。故人に対して、そう言うことがあります」


「故人」


彼女はその言葉を、ゆっくり繰り返した。


「死者、という意味?」


「はい。ただ、少し丁寧な言い方です」


「あなたたちは、死者にも言葉の衣を着せるのね」


「たぶん、寒くないように」


そう言ってから、私は自分で驚いた。


彼女は少し笑った。


「優しい嘘が少し上手くなったわ」


私は何も言えなかった。


彼女は、ゆっくりと水を動かし続けた。


「この故人は、臆病だった」


「臆病」


「ええ。いつも群れの外へ出るのを嫌がった。外洋の匂いがすると、すぐに岩の影へ戻った。でも、小さな子たちが流されそうになると、誰よりも早く戻ってきた」


水面に、細い渦が生まれた。


逃げるように壁際へ向かい、しかし途中で向きを変えて、中央の弱い流れを押し戻す。


私は、その流れを見ているうちに、不思議な感覚を覚えた。


顔もない。

声もない。

名前もない。


けれど、その故人が少し分かる気がした。


臆病で、優しい。

逃げるように見えて、戻ってくる。


人間なら、その性格を言葉で説明する。履歴に残し、名前の下に記す。だがネレイドたちは、流れそのものに故人を残している。


いや、残しているというより、呼び起こしているのかもしれない。


その流れを知る者がいる限り、故人は完全には消えない。


「あなたたちは、流れを代々覚えるのですか」


「ええ」


「すべての故人を?」


「すべてではないわ」


彼女は静かに言った。


「忘れられる流れもある。混ざってしまう流れもある。誰も再び泳げなくなる流れもある」


「それは、悲しいことではないのですか」


「悲しいわ」


彼女はすぐに答えた。


「でも、名前も消えるのでしょう?」


私は答えられなかった。


地球でも、名前は消える。


墓は削れ、記録は失われ、家系は途切れ、言葉は変わる。永遠に残る名前などない。人間はそれを知りながら、名前を刻む。消えると分かっているからこそ、刻む。


ネレイドも同じなのかもしれない。


消えると分かっているから、流れをなぞる。

消えると分かっているから、潮の道を歌う。

消えると分かっているから、忘れないと決める。


「リオ」


彼女が言った。


「あなたは、ミナが戻らなかったら悲しむ?」


「分かりません」


「名前をつけたのに?」


「名前をつけたから、悲しむと思います」


「なら、なぜ名前をつけるの?」


その問いは、あまりにも真っ直ぐだった。


私は、長いあいだ黙っていた。


なぜ、人間は名前をつけるのか。


便利だから。

識別するため。

呼ぶため。

記録するため。


どれも正しい。

だが、それだけでは足りない。


「たぶん」


私はゆっくり言った。


「悲しむためです」


彼女は目を細めた。


「悲しむため?」


「はい。失った時に、何を失ったのか分かるように。誰のために泣いているのか、分かるように」


彼女はしばらく私を見ていた。


やがて、静かに言った。


「それは、不便ね」


「そうですね」


「でも、嫌いではないわ」


彼女はまた、あの言い方をした。


嫌いではない。


それは、ネレイドなりの肯定なのだと、私は少しずつ分かり始めていた。


「私たちは、悲しみを流れに混ぜる」


彼女は言った。


「あなたたちは、悲しみに名前をつける」


「そうかもしれません」


「どちらがいいのかしら」


「分かりません」


「倫理官なのに?」


「倫理官だから、分からないと言うべき時もあります」


彼女は、小さく笑った。


その笑い方は、人間とあまり変わらなかった。


私たちはしばらく、水面を見ていた。


そこには名前がなかった。

けれど、空っぽではなかった。


流れがあった。


戻らなかった者の速さ。

臆病さ。

優しさ。

迷い。

群れへ戻ろうとする癖。


それらは、文字よりも不確かで、墓標よりも頼りなく、けれど確かに誰かを呼び起こしていた。


「あなたたちは、百万の命を一度に失うことを、どうやって耐えるのですか」


私が尋ねると、彼女は首を横に振った。


「一度に失うわけではないわ」


「でも、儀礼では」


「海に放つことは、失うことではない」


彼女は言った。


「失うのは、戻らないと分かった時。あるいは、戻ったはずの潮に、その子の流れがなかった時。何日も、何年もかけて、少しずつ失うの」


私はその言葉を聞いて、胸が痛くなった。


人間は死を一瞬の出来事として考えがちだ。心臓が止まる。呼吸が止まる。通信が途絶える。死亡時刻が記録される。


だが、本当は違うのかもしれない。


人は、何度も失う。


帰ってこない時に失う。

声を忘れた時に失う。

歩き方を思い出せなくなった時に失う。

最後にその名を呼ぶ者がいなくなった時に、もう一度失う。


「リオ」


「はい」


「あなたがミナを忘れなければ、その子はあなたの中では失われないの?」


「いいえ」


私は答えた。


「失われます」


彼女は少し驚いたようだった。


「それでも?」


「それでも、忘れないことはできます」


「失われるのに?」


「はい」


私は、水面に残る小さな渦を見た。


「たぶん、それが人間の愛です」


彼女は何も言わなかった。


水面に、遠い海の光が揺れていた。


「記録を一時停止しますか」


アーカイブの声がして、私は現在へ戻った。


船室は静かだった。遠い機関音が、老いた心臓のように規則正しく響いている。


「第三記録は、ここまででいい」


「確認します。ネレイド族には個体名が存在しない。しかし、故人に相当する記憶や喪失感は存在する。そう理解してよいですか」


「よい」


「彼らは、故人を物質的な記録ではなく、流れの再現によって記憶する」


「そうだ」


「流れは不安定です。長期保存には適しません」


「名前も、長期保存には適さない」


「人類文明では、名前は記録媒体に保存可能です」


「記録媒体が残っていればな」


アーカイブは沈黙した。


その沈黙は、少し長かった。


「では、名前は何のためにあるのですか」


「人間が、弱いからだ」


「弱い?」


「私たちは、声にしなければ忘れる。文字にしなければ失う。墓に刻まなければ、そこにいたことを信じられなくなる」


私は、観測窓の外を見た。


星々のどれにも、いまの私には名前がなかった。けれど人間は昔から、星に名を与えてきた。観測番号をつけ、神話の名を借り、時には誰かの愛称までつけた。


「弱いから、名前をつける。だが、その弱さを私は嫌いではない」


「ネレイドと同じ表現です」


「影響されたのかもしれないな」


「マスター」


「なんだ」


「次の記録の主題も、愛ですか」


私は思わず笑った。


まだ、先回りというほどではない。

だが、アーカイブはもう、私が何を語ろうとしているのかを少しだけ予測し始めていた。


「ああ」


私は答えた。


「次も、愛だ」


ネレイド族の記録は、ここで閉じる。


私があの星を去る日、案内役のネレイドは港まで見送りに来た。彼女は最後まで、自分の名を持たなかった。私は最後まで、彼女をネレイドと呼ぶしかなかった。


それでも、忘れなかった。


名のない彼女が、百万の命に母なる海を与えた夜のことを。

還らなかった故人の流れを、水の中に呼び起こしたことを。

そして、人間の名前を「不便ね」と笑ったことを。


不便でいい。


私は今、そう思う。


不便だからこそ、私たちは呼ぶ。

届かなくても、呼ぶ。

失われても、呼ぶ。


それが、私たちの愛の形だった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は、ネレイド族が故人をどのように覚えているのかを描きました。


名前で残す人間。

流れで思い出すネレイド。


どちらが正しいという話ではなく、忘れないための形が違うだけなのだと思います。


これでネレイド族の記録はいったん一区切りです。

次回からは、別の種族の愛へ移ります。


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