百万の卵と、ひとつの名前1/3
宇宙を旅する生物倫理官リオは、アーカイブAIに百の異星種族の愛を記録していく。
第一の記録は、海洋惑星ネレイスに住むネレイド族。
彼らは無数の卵を海へ放ち、生き残った命だけを群れに迎える。
ひとつの命に名前をつけたい人間と、百万の命を海に託す種族。
愛とは、守ることなのか。
それとも、託すことなのか。
これは、百の種族をめぐりながら、人間という種族の愛し方を探していく短編連作SF。
# 第1話1/3 百万の卵と、ひとつの名前
「マスター、入力を」
暗い船室で、アーカイブの声がした。
声、と呼んでよいのかは分からない。空気を震わせる音ではなく、耳の奥に直接置かれるような、温度のない言葉だった。
私はしばらく黙っていた。
観測窓の外には、星が流れている。いや、船が流れているのだ。宇宙はいつも、動かないふりをしている。
「記録対象を指定してください」
「第一記録」
私は答えた。
「海洋惑星ネレイス。ネレイド族。主題は……愛だ」
「愛」
アーカイブは、その単語を復唱した。
「定義が曖昧です」
「だから記録するんだ」
私は目を閉じた。
百の種族の話をしよう。
百の愛の話をしよう。
そして最後に、私たち人間の話をしよう。
最初に語るべきは、あの青い海の種族だ。
海洋惑星ネレイスでは、命はひとつずつ数えられない。
――少なくとも、私は最初、そう思っていた。
私がまだ若く、生物倫理官として宇宙連邦に派遣されたばかりの頃のことだ。地球はまだ青く、月面都市には灯りがあり、人類は自分たちがいつか滅びるなどとは考えていなかった。
私は、海洋惑星ネレイスに向かった。
惑星表面の九割以上が海に覆われた星。大陸と呼べるものはなく、浅い岩礁と、点のような浮島があるだけだった。人類が建てた海上都市は、透明な橋と銀色の塔でできていて、遠くから見ると、巨大な水晶が海に刺さっているように見えた。
着陸艇の窓から見下ろす海は、地球の海よりも青かった。
青いというより、光っていた。
「ネレイド族の繁殖海域に入ります」
船内アナウンスが告げた。
私は手元の端末を確認した。
任務名は、ネレイド族繁殖儀礼の倫理監査。
目的は、人類入植地との文化摩擦の調停。
問題点は、幼体保護に関する価値観の相違。
事務的な文字列だった。
だが、その文字列の下には、こう添えられていた。
――ネレイド族は、一度の繁殖期に多数の卵を産み、その大半を保護せず外洋へ放つ。
私はその一文を読んだ時、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
生まれる前から、失われることを前提にした命。
それが、私には受け入れがたかった。
海上都市ネレイス港に降り立つと、潮の匂いがした。地球の海よりも甘く、どこか金属に似た匂いだった。足元の床は透明で、その下を魚の群れが流れるように泳いでいた。
案内役は、すぐに現れた。
水面から、ひとりのネレイドが上がってきた。
背丈は人間とほとんど変わらない。二本の腕と二本の脚を持ち、顔立ちも人間に近い。けれど、耳の後ろには薄い鰭があり、濡れた髪は深い藍色で、光を受けるたびに魚の鱗のような色を返した。
彼女は濡れたまま、当然のように私の前に立った。
「あなたが地球から来た倫理官?」
「リオです」
私は名乗り、胸元の認証章を示した。
「ネレイド族の繁殖儀礼について、立ち会いと記録を行います」
彼女は少しだけ目を細めた。
「記録。監査。承認。地球人は、命の流れに印鑑でも押すのね」
第一印象は、最悪だった。
「ええっと……あなたは」
私はそこで言葉に詰まった。
名前を聞こうとした。
だが、事前資料を思い出した。
ネレイド族には、個体名がない。
少なくとも、人間が使うような意味での名前はない。彼らは個を、固有の音で区切らない。生まれた潮、属する群れ、担う役割、泳いだ流れによって互いを認識する。人間の記録様式では不便なので、便宜上の番号が振られていたが、それを本人に向かって呼ぶのは、どこか失礼な気がした。
彼女は、私の迷いを見透かしたように言った。
「ネレイドでいい」
「それは、種族名では?」
「ええ。でも今ここで、あなたの前にいるネレイドは私だけでしょう」
「しかし、個体を識別するには……」
「あなたたちの文化では、名前が必要なのね」
責める口調ではなかった。
むしろ、少し面白がっているようだった。
「ネレイドでいい。私たちも、あなたたちの文化を学んでいる。あなたが私を呼ぶために音を必要とするなら、しばらくそれで足りる」
私はうなずいた。
「では、ネレイド」
「ええ、リオ」
彼女は私の名を、迷わず呼んだ。
その時、私は少しだけ不公平だと思った。
彼女は私を名前で呼べる。
しかし私は、彼女を種族名でしか呼べない。
その不公平さこそが、この星で私が最初に学ぶべきことだったのだと、今なら分かる。
「今回の儀礼で、あなたはどの立場なのですか」
「海に命を託す者のひとり」
海に命を託す。
彼女はそう言った。
捨てる、ではなく。
放置する、でもなく。
託す。
その言葉の違いに気づきながら、私はまだ、それを理解する準備ができていなかった。
ネレイドは私を海中庭園へ案内した。海上都市の中央にある透明な球状施設で、外側はすべて海に接している。壁の向こうには、光る藻類と、銀色の小魚と、ゆっくり揺れる海草が広がっていた。
そして、その海草の間に、無数の光が浮かんでいた。
最初、私はそれを星だと思った。
夜空を逆さまに沈めたような景色だった。
だが、違った。
それは卵だった。
小さな光の粒が、数えきれないほど漂っていた。ひとつひとつが淡く明滅し、波に合わせて揺れている。近くの卵は親指の爪ほどの大きさで、内側に小さな影が眠っているのが見えた。
私は息をのんだ。
「これが……全部?」
「ええ」
ネレイドは静かに答えた。
「今夜、潮が満ちたら外洋へ放つわ」
「外洋へ?」
「海が選ぶ。岩礁が試す。流れが運ぶ。群れに戻れた子だけが、ネレイドになる」
私は彼女を見た。
「保護施設に移せば、もっと多く助かるはずです」
「助かることと、生きられることは違うわ」
彼女の声は冷たくなかった。
むしろ、驚くほど穏やかだった。
その穏やかさが、私には耐えられなかった。
「生きられるかどうかを、海に任せるんですか」
「海は私たちの母よ」
「母なら、守るべきです」
「守ることだけが、愛ではないわ」
私は思わず、言い返していた。
「失われると分かっていて放つのは、愛とは呼べない」
ネレイドは、しばらく私を見ていた。
その瞳は、海の深いところに似ていた。光が届くのに、底は見えない。
「地球人は、ひとつの命に名前をつけるのでしょう?」
「ええ」
「そして、そのひとつを失えば、長く悲しむ」
「当然です」
「私たちは、百万の命に母なる海を与える」
彼女は壁の向こうを見た。
無数の卵が、青く光っていた。
「戻らなかった命も、海の中にいる。流れになり、歌になり、次の群れを育てる。私たちは忘れない。ただ、ひとつずつ名前をつけないだけ」
「それでは、誰が誰だったのか分からない」
「分からなくても、家族よ」
私は黙った。
分からなくても、家族。
その言葉は、私の中のどこかに引っかかった。
地球では、名前のない死者は忘れられる。墓標のない死は、歴史からこぼれ落ちる。だから人間は名前をつける。子に、船に、犬に、星に、まだ見ぬ未来にさえ名前をつける。
名前がなければ、愛せないからだ。
少なくとも私は、そう思っていた。
「ネレイド族は、本当に誰にも名前をつけないのですか」
「個にはつけない」
「個には?」
「流れには名がある。潮には名がある。群れにも、古い歌にも、還る道にも名がある」
彼女は水槽のような壁に手を当てた。
「名前を持つのは、ひとつの命ではなく、命が通った道なの」
私はその意味を考えた。
人間は道に名前をつける。街に名前をつける。戦争に名前をつける。だが、最初につけるのはいつも個人の名だ。母が子を呼ぶための音。失った時に、泣きながら呼ぶための音。
ネレイドは違う。
彼らは、ひとつひとつの命ではなく、命が帰っていく流れに名をつける。
私は、それを美しいと思うことができなかった。
まだ、怖かった。
その夜、儀礼の前に、私はもう一度ひとりで海中庭園へ向かった。案内役のネレイドはいなかった。警備用の照明も落とされ、卵たちだけが青白く光っていた。
私は壁に手を当てた。
透明な壁の向こうで、小さな卵がひとつ、流れに逆らうように揺れていた。他の卵よりも少しだけ暗く、少しだけ遅れて光っている。
私はなぜか、その卵から目が離せなかった。
「君は、戻ってくるのか」
答えはなかった。
当たり前だ。
卵は話さない。
それでも私は、その小さな光を見つめ続けた。
生き残るかもしれない。
生き残らないかもしれない。
海に還るかもしれない。
群れに戻るかもしれない。
私には、何もできなかった。
できることがないという事実は、若い私にとって屈辱だった。倫理官という肩書きも、地球の正義も、この青い海の前ではあまりに小さかった。
だから私は、せめて名前をつけようと思った。
「ミナ」
口に出してから、自分でも驚いた。
なぜその名前だったのかは分からない。
ただ、その時の私には、その小さな光が、名前を待っているように見えた。
背後で、水の落ちる音がした。
振り返ると、ネレイドが立っていた。髪から水滴が落ち、床に小さな輪を作っていた。
「地球人は、本当に名前をつけるのね」
私は気まずくなった。
「勝手なことをしました」
「ええ。勝手ね」
彼女はそう言ってから、少しだけ笑った。
「でも、嫌いではないわ」
「怒らないのですか」
「その子があなたのものになるわけではないから」
「でも、名前を」
「あなたが、その子を見失いたくないのでしょう?」
私は返事ができなかった。
その通りだった。
私はその卵を救いたかったのではない。
救えないと分かったから、せめて見失いたくなかったのだ。
「私たちは、個に名をつけない」
ネレイドは言った。
「でも、あなたがその子をミナと呼ぶなら、今夜だけ、私もそう呼ぶわ」
「いいのですか」
「あなたたちの文化を学んでいると言ったでしょう」
彼女は壁の向こうを指さした。
卵たちが、ゆっくりとひとつの渦を作っていた。
「この流れには、古い名がある。還り潮。生まれて、失われて、また戻るものたちの道」
「還り潮」
「ええ。ミナが戻っても、戻らなくても、あの子は還り潮の中にいる」
私はもう一度、海の中の小さな光を見た。
ミナ。
たった一晩の名前。
たぶん、記録にも残らない名前。
本人が聞くこともない名前。
それでも、私はその名を忘れなかった。
「記録を続けますか」
アーカイブの声で、私は現在に戻った。
船室は暗いままだった。観測窓の外には、ネレイスの海ではなく、名前も知らない星雲が広がっていた。
「いや。第一記録はここまででいい」
「確認します。マスターは、ネレイド族の繁殖文化を、非倫理的とは判断しなかったのですか」
私は少し笑った。
「若い私は、非倫理的だと思った」
「現在のマスターは?」
「今でも、怖いと思う。百万の命を海に放つなんて、私にはできない。たぶん最後までできない」
「では、なぜ肯定的な記録として保存するのですか」
「肯定ではない。理解だ」
アーカイブは数秒沈黙した。
その沈黙が、計算のためなのか、迷いのためなのか、私にはまだ分からない。
「マスター。この物語を語り終えて、あなたは何を感じていますか」
私は目を閉じた。
ネレイドの声が、遠い海鳴りのように蘇る。
――あなたが私を呼ぶために音を必要とするなら、しばらくそれで足りる。
「あの星で、私は初めて気づいた」
「何にですか」
「名前は、相手のためだけにつけるものじゃない」
「では、誰のために?」
「呼ぶ側のためだ。忘れないために。見失わないために。失ったあとも、そこにいたと信じるために」
「ミナは、生存しましたか」
アーカイブの問いは、静かだった。
私は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えを知る必要がない話だったからだ。
「アーカイブ」
「はい、マスター」
「これが、私が宇宙で最初に学んだ愛だ」
命は、守られることで愛されることもある。
命は、託されることで愛されることもある。
そして人間は、そのどちらにも名前をつけたがる。
愚かで、優しいからだ。
本作は、全100話構想の短編連作SFです。
各話ごとに異なる知的種族の「愛」「家族」「命への向き合い方」を描き、最終的には人間という種族の愛し方へ戻ってくる予定です。
まずは第1部として、魚類型・両生類型・爬虫類型・鳥類型など、生物的な違いが大きい種族から始めていきます。




