人の気持ちの読解は難儀/重い空気にしたくないのは当然の願い
教室の中は眠気と年配の先生の淡々とした声。ページをめくる音。誰かの小さなあくび。そんないつもの平和な午後で満たされていた。
「では、この極限の証明。ε-δの定義を用いて誰か説明できる人はいるか?」
僕は腕と机に埋めていた顔を起こし、黒板を見ると、
「limx→2(3x−6)=0\lim_{x \to 2} (3x-6) = 0x→2lim(3x−6)=0を定義で示せ。」
と書かれていた。
ε-δね。ふーん。だる。僕は面倒くさいと思いながら、脳を回転させる。
まずは、こうして・・・
3x−6 = 3(x−2)
あれら、もう終わりじゃん。
|3(x−2)| = 3|x−2|
εほしいなら、|x−2| < ε/3 にすればいいだけ。δ = ε/3。終了。内容スカスカだな・・・書くのが面倒なだけか。
時間にして十秒。僕は余裕綽々の表情を見せ、ペン回しを披露した。そして、僕が解き終わってから一分後、先生は誰からも手が挙がらないことにしびれを切らしたのか、出席簿を見て、誰かを当てようとするそぶりを見せた。当たりませんように・・・
「あー、じゃあ。空嵩。試しに答えてみろ。」
空嵩さんは、急に呼ばれたことに驚き、思いっきり立ち上がった。
空嵩さんには荷が重いやろなと思いながら、彼女に注目すると、彼女は恐る恐る口を開いた。
「はい!えーっと・・・分配して・・・」
そこじゃないって、空嵩さん。因数分解だろって。δはε/3でいい。それで比例。ほら終わり。余裕やんけ。
僕が遠目で空嵩さんの動揺と連動して動く「何か」を見た後、再び机に突っ伏しようとした。
その瞬間。突如として脳内に、鼓膜を直接震わせるような切実な叫びが響き渡った。
『鳳!大変なことが起こった!』
「あお!」
反射的に喉の奥から漏れ出たのは、自分でも耳を疑うような情けない声だった。
しかし、その声は、ただの驚嘆ではなかった。喉がキュッと締まったような、どこか艶っぽさを含んだ―――そう、巷で言うところの「喘ぎ声」。妙に含みのある吐息。
―――しまった・・・
一瞬、教室が真空状態になったかのように静まり返った。隣の席の女子が、教科書をめくる手を止めて硬直しているのがわかる。数秒のタイムラグを経て、前方の席から「クスクス・・・」と火がつき、それが波紋のように教室全体へと広がっていった。
「おい、今の聴いたか?」「風凪のやつ、マジかよ・・・」「風凪鳳花ってそういう・・・」
ヒソヒソという囁き声が共振し、やがてそれは我慢しきれない爆発的な笑いの渦へと変わる。机を叩いて笑う男子、顔を伏せて肩を震わせる女子。
僕の顔は、沸騰したヤカンみたいに熱くなっていた。弁明したいけど、どう弁明すりゃいいんだよ!終わった。いじられて孤立するのは確定された未来・・・僕は不登校になって、もしかすると、自分で命を絶つのかも・・・
「こらー! 静かにしろ!」
教壇に立つ、普段は温厚な先生が、チョークを置いて一喝した。その迫力に、あれほど騒がしかったクラスがピタッと静止する。・・・が、先生の次の言葉が、僕をさらなる地獄へ突き落とした。
「いいかお前ら。授業中に『変な動画』を見るんじゃない。……全く、先生の学生時代だったらな、そんな不謹慎な真似がバレたら、没収された『薄い本』をクラス全員の前で朗読されるのがお決まりだったんだぞ?」
先生の少し遠い目をした「実体験」ともとれる忠告を言った。それがトドメだった。「先生、それどんな罰ゲームだよ!」「薄い本って・・・先生、自白じゃん!」とクラスがだんだんとざわついてきた。
僕は手遅れになる前に、苦し紛れに立ち上がり、みんなに言った。
「教科書に虫いただけだから!変な動画見てないから!スマホの閲覧履歴見せてやるぞー!」
僕が宣言して座り突っ伏すると、教室は先ほどを凌ぐほどの爆笑に包まれ、もはや授業どころではなくなる。
僕は机に額を押し付けたまま、熱くなった頭を必死に冷やした。周囲のクスクスという余韻を無視し、肺の奥に溜まった空気を吐き出すように、深い、深い溜息をつき、ソウルコネクトを発動させる。
『・・・おい。いきなり大声で飛ばしてくるな。心臓が止まるかと思ったぞ』
イラつきを隠さず、思考の礫を投げつける。だが、返ってきたのはいつもの軽口ではなかった。
『・・・鳳! 悪い、けどそれどころじゃないんだって!』
通信の向こう側、いつも冷静な花の呼吸が少し乱れている。その切迫した温度が、ソウルコネクトを通じて僕の肌にまで伝わってくるようだった。
だけど、十中八九魔獣関連の新情報だろう。日本に来て暴れているだとか、新しい技でヨーロッパのすべてを破壊しただとか。僕からしたらそっちの方が“それどころ”だし!なんたって、こっちは自分の名誉を汚されたんだから。ふざけんじゃないよって話。
『それどころって・・・。こっちはお前のせいで変な声出して、クラス中の笑いものにされたんだぞ?この社会的抹殺をどうしてくれるんだ。』
『それは・・・本当に、ごめん。でも、一旦黙って聞いてほしい。』
花のトーンが一段低くなる。
その一瞬の「間」に、僕の背筋を冷たい指がなぞったような錯覚を覚えた。直感的に、喉の奥が乾く。
僕が想定していたものよりも深刻そうで。
どこか、嫌な予感がする。
『なんだよ。改まって。』
僕の腹の底から出る予感は、たいてい当たっていることを自覚している。そして、その予感がたいていよくないことが多いということも自覚している。
『・・・赤松が、救急搬送された。さっきの話だ・・・意識不明らしい。』
突如として、つい数日前に再会した友人の名前が出てくる。
『は?』
―――心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。目の前の景色から色が抜け、教室のざわめきが急に遠のく。
『は・・・? 何を、言ってるんだ?赤松が?なんで・・・いや、そもそもなんでお前がそれを知ってる。朝から散歩に行くとか言っていただろ。』
『落ち着いて。・・・さっき、職員室の横を通ったら、先生たちが血相を変えて飛び出していったんだ。「救急車」「意識不明」って言葉が聞こえて・・・。気になって聞き耳を立てたら、赤松の名前が出た。だから、すぐに鳳に連絡したんだ。』
花の言葉が、まるで鉛の粒のように僕の脳内に沈殿していく。
赤松。つい先日まで馬鹿な話をして笑っていた、あの赤松が?
どうしてだ……。あいつ、病気なんて聞いたこともないぞ。事故か? それとも・・・
最悪の想像が頭をよぎる。心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと不快に響き、じわじわと脂汗がにじむ。
『・・・鳳、現場の先生たちが小声で言っていた。赤松が、自殺未遂をしたと。浴槽で手首を切って血を流している所を親が発見したらしい。』
マジ・・・か。いや、やっぱりといえばやっぱりだ。前、レストランのとき。あの無理した笑顔がずっと頭に残っていた。いつか、こうなるのではないかと思っていた。それが早まっただけ。
しかし、なぜ彼女は自殺なんてするんだ?
あのときも見え透いた嘘を吐いてうやむやにしていたけど、不登校の理由も自殺未遂に関与しているのではないか?
とりあえず、聞いてみるか。
『どういう訳で自殺未遂しようとしたのか。分かる・・・』
そして、言葉が詰まる。
そんなの分かっているのであれば、不登校なんてするわけないか。
なんなら、直近で会った僕が彼女の様子を見ていて、不登校、いや自殺未遂の理由を一番わかっている可能性があるかもな。
『多分、自分が一番よく分かっているんじゃないか?』
花が僕の心を見透かしたように言った。
『そうかもな。とりあえず、今日帰り道に栄花を取っ捕まえて話してみるよ。』
僕はそう告げてソウルコネクトを切った。辺りを見ると、もうすでに教室は静まり返っているらしい。
ため息をつき、先生の授業を聞きながら、ふと思う。
―――なんとも、人の気持ちの読解とは難儀だ。
「ここにいるぞー。」
僕はホームルームが終わると同時に足早に廊下へと出た。
そして、声がする方を向くと、自分の居るところから少し離れた所で、あらかじめ廊下で栄花をストーキングしていた花が宙に浮きながら、指をさして栄花の居場所を告げている。
『サンキュ!』
人がひとだかりで姿は見えないけれど、花を目指して人々をかき分けながら向かっていった。
数秒も経たないうちに栄花を見つけ、彼女のもとに辿り着いた。そして、横に立った。
「ヘイ。そこのお嬢ちゃん。僕と一緒に近くでお茶しな・・・ブヘッ!」
僕は優しく声をかけたつもりが、彼女の気に障ってしまったらしい。
前触れもなく蔑みの目とともに、もろに強烈な肘突きを腹に食らってしまった。魔力で守っていなかったから、まあまあ痛い・・・
僕は、右手で腹をさすりながら悶絶する。
「あら、ごめんなさい。影が薄すぎて気づかなかったわ。あと何か言いましたか?」
「クソ・・・暴力行使に出るとは。脳が幼児退行してバブちゃんになったか?」
そういいながら、栄花の頭を人差し指でツンツンとした。
バキッ
「グエーーー!」
その人差し指は栄花のアッパーで一瞬変な方向を向いた。
「イタそー・・・」
花は口元を抑えて、体が震えている。勿論、笑っているからだ。
僕は手と腹を同時にさすさすしながら悶絶する。同時に花に対して水鉄砲の威力の魔力弾を当てる。
「まあ、これぐらいにしておくか。」
「こんやろう・・・」
「で、用は?」
こいつ、マジで合理的でええですなあ。僕が怒ったらお前なんて秒殺なんだからな。まったく。あと普通に力強いわ。女子の力じゃねえだろ。
「痛いわ。ゴリラかよ。」
「ゴリラ?ああ、自分の顔がってこと?」
「ちっげえよ。お前のその力だよ。」
幼馴染に食らわせる威力にしては大きすぎるわ。魔力を知らんそこらの凡夫が食らった一発ノックダウン確定だぞ。
「筋肉系女子って最近需要あるらしいよ。」
「うっ、た、たしかに・・・」
僕も若干そっちがいいかも・・・じゃない、じゃない。全く、Sを期待する自分が居るわけないじゃないか。うん、居るわけない。居るわけない。居るわけない。居るわけ・・・
よし、自己暗示完了!
「いや!でも相場はか弱くて守ってあげたい系女子だろ!」
「そんな熱くならないでよ。」
「いいや、これに関しては一言申したいね。一般的な感性をお持ちの人と特殊な感性をお持ち人の違いははっきりさせるのが僕の使命だと思っている。」
僕はそう声高々と宣言した。勿論周りの目に気を使っているので、小声だが・・・
うーん、速攻矛盾。
「いや、一言申さなくていいよー。」
「そこをなんとか・・・」
「ゴマすりしても意味ないわよ。」
「えー、そんな・・・」
「てか女子に向かってゴリラって言うなんて・・・だから彼女ができないんだよ。」
「そこに因果関係は存在しない!」
そんな、しょーもない言い争いをしながら歩いていると、あっという間に玄関に着いた。
「もーう無理。もう疲れたー。」
「はあ、まったく。」
僕と栄花が靴を履き、校舎を出た。
「で、本題に入りますね。」
今、僕たち三人はつい最近に訪れた「ワンダーモール」の某ファミレスで向かい合って座っていた。ちなみに花は僕の隣でくつろいでいる。テーブルの上には、僕が頼んだドリンクバーのコーラと辛味チキン、そして栄花が頼んだティラミスとジンジャーエールが並んでいる。
料理が届き、場の空気が少し落ち着いた頃を見計らって、僕は切り出した。赤松の身に起きたこと、そして僕が赤松に会った時のことを。
「え、嘘・・・」
栄花は目を見開き、絶句する。行き場をなくした彼女の視線が、テーブルの木目に落ちる。
小刻みに震える手が、膝の上でゆっくりと握りしめられていくのが見えた。
「すまんが本当だ。」
目の前の友人の表情が、理解を拒むように強張る。
やがて彼女は、悲痛な面持ちで俯きながら声を絞り出した。
「なんで、赤松まで・・・。いや、どうしてそんなことを赤松はしたの?」
ん? 赤松“まで”ってどういう意味だ?
一瞬、その言葉が喉に引っかかったが、今はそれを問い詰める空気じゃない。
「いや、僕もそれがずっと疑問なんだよ。前会った時、あいつそこまで思いつめた感じじゃなかったのに。」
確かにあの時、あいつの目は虚ろで、全体的に無気力な雰囲気を纏っていた。けれど、会話自体は成立していたし、努めて明るく振る舞っていたようにも見えた。
・・・そう、あの笑顔だ。
あいつは笑っていた。去年の笑顔とは違かった。でも今思い返せば、その笑顔がなんだか、剥がれ落ちそうな薄いメッキみたいに見えてくる。
もし、あの時僕がその仮面の下にある表情に気づけていたら―――
ドリンクバーのグラスの中で炭酸の泡が弾けて消えるのを眺めながら、ふと思った。ただの偶然や見間違いで片付けるには、ここ数日、僕の寝つきが悪すぎる。
「いじめ・・・」
栄花がぽつりとつぶやく。
「それはあり得る。だから明日、調査してみようかなって。」
「え?そうなの?俺聞いてないんだけど。」
「あ、そうなんだ。」
花と栄花の声が重なる。
「まあ今決めたことだけど」
僕が平然と答えると、栄花は少し考え込むように視線を泳がせた。
「不登校も関係しているのかな。」
「多分な。でも、詳しくは分からない。」
「そう・・・」
僕と栄花は目を伏せる。会話が途切れ、沈黙が降りた。
気まずい。
友人が人生を投げ出そうとした原因が、自分たちに一切ないと言い切れるのか。少なからず僕たちが関係しているのではないか。
そんな得体の知れない罪悪感が、この場の空気を重く淀ませていく。
思考が泥沼にはまりかけたその時、花が口を開いた。
「鳳、栄花に『今度お見舞いに行く?』って聞け。」
―――こいつ。いい仕事するじゃん。花は、ごくまれに簡潔で、それでいて一番必要な答えを提示してきてくれるからありがたいんだよなあ。
『お、それ頭いいかも。花もたまにはいいこと言うじゃん。』
「君、一言余計だとは思わないのかね?」
「今度さお見舞いに行く?」
僕は花を横目に、提案されたことをそのまま提案する。
「え?お見舞い?」
「そうそう、二人で。赤松の家に行けば親がいると思うから許可取ってさ。」
僕の提案に、栄花は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間には強い眼差しで顔を上げた。
「いいんじゃない?一緒に行こ。」
「決まり!じゃあ、明後日に行こう!」
僕が努めて明るい声で宣言すると、テーブルを支配していた重苦しい沈黙が、わずかに解けていくのが分かった。
氷が溶けてカランと音を立てるように、三人の間に小さな安堵が流れる。
「というかさ、どうして鳳花がそのこと知ってるの?」
「そのことって?」
「赤松がそのー、あれしたこと。」
そう濁しながら言うと、栄花はジンジャーエールをストローで吸う。
「あー、そのこと。」
まあ、やっぱりソコをついてくるよな。だが、それもう対策済みなんだよ。
「トイレ行ったときに、どこも便器が空いてなくてさ。それで、職員室前のトイレ使おうとしたら。先生が職員室で話しているのを偶然聞いちゃって。」
「聞き間違いは?」
「ない。先生に赤松の親友だって言って無理やり話を聞いたから。」
この嘘が湯水のように湧き出てくる芸当。
刮目したまえ。ガハハ!
「ほら吹きが過ぎている気が・・・何を食べていたらそんなの思いつくのやら。」
そういう花の方をふと見ると「(;゜Д゜)」の顔を浮かべていた。
『お褒めの言葉として受け取っておくよ。』
「はあ。」
花は、そうため息を吐くと、ヤレヤレと肩をすくめた。
「じゃあ、そろそろお開きにする?」
栄花が最後の一口大のティラミスを食べ終わり、ティッシュで口を拭う。
「ああ、そうだな。」
そして、僕たちは店を後にした。
自動ドアを抜けると、湿った夜風が頬を撫でた。背後の店内からは食器が触れ合う音や談笑が漏れ聞こえてくるが、今の僕には、それらがひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
ふと、視線を上げる。ショッピングモールの眩しい照明の先、広がる暗闇の中に、点々と街の灯りが滲んでいた。
追記 2026/2/12
追加でストーリーをいれました!!!




