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ショウちゃんとMQ228号

作者: 千葉くみ

 今日はショウちゃんの九才の誕生日。お父さんとお母さんが近所の『おとぎの国ちびっこ遊園地』に連れてきてくれました。連休最後の日で、遊園地はたいへんな人出でした。

 ここは近くに住む子供なら誰でも遠足で何回か来たことがある場所で、さまざまな童話や昔話をモチーフにした乗り物があります。丸太のトロッコに乗ってお菓子の家の森を探検する『ヘンゼルとグレーテル』。スワンボートで優雅にくるくる水上を回る『白鳥の王子』。カメやタイ、ヒラメなど魚や海の動物にまたがってきらびやかな竜宮城をめぐるメリーゴーランド『浦島太郎』。ぐるぐると豆の木をのぼり、巨人の家から一気に駆け下りるジェットコースター『ジャックと豆の木』などなど。どれもみんなショウちゃんは大好きでした。

 あっという間に楽しい一日が過ぎ、そろそろ夕暮れが近づく頃、ショウちゃんは急に次の日のリコーダーのテストのことを思い出しました。あまり上手に指が動かせないので、お休みの間によく練習するようにと音楽の先生に言われていたのに、すっかり忘れてしまっていたのでした。するとせっかくの楽しい気分が台なしになってしまい、これから家に帰って練習するのかと思うと、もう家にすら帰りたくないのでした。

「あ~あ、家に帰りたくないなあ、このままここにずっといられたらいいのに……」

「いたかったら、いつまでもずーっといていいんだよ、ショウちゃん」

 突然、自分の名前を呼ばれて驚いたショウちゃんが振り返ると、それは遊園地の入り口で入場券のもぎりをしていたおじさんでした。首が痛くなるまでそっくり返らなければ顔が見えないほど背が高く、大人ふたり分よりまだ横にでっぷりと太った大きな大きなおじさんは、でもとてもとてもやさしい目でショウちゃんを見下ろしていました。

「どうして僕の名前を知ってるの」

「おじさんはここに来る子供の名前はみんな知ってるのさ。おじさんにとって特別な子供たちだからね。ショウちゃんももちろん、特別だよ」

 そう言うと、大きなおじさんはよっこらしょ、と地面に座りました。それでもまだショウちゃんよりずいぶん背が高いのでした。

「もしショウちゃんがここにいたいのなら、ずーっといてかまわないよ。おじさんは大歓迎だ」

「でも……」

 ショウちゃんは離れたところでまだ小さい赤ちゃんの、自分の弟の世話をしているお父さんとお母さんのほうを見ました。

「僕がいなくなったら、お父さんやお母さんが心配するし……」

「本当にそうかな?」

 大きなおじさんの目が少し意地悪そうに細くなりました。

「お父さんもお母さんも、ショウちゃんがいなくても、赤ちゃんがいればさびしくないんじゃないかな」

 ショウちゃんは自分が今まさに考えていたことを言い当てられて、ドキっとしました。だんだん悲しくなってきて何も答えられないでいると、おじさんが「そうだ、いいことがある」と明るく言いました。

「ショウちゃんの代わりに、別の子におうちに帰ってもらえば、お父さんもお母さんも心配しないよね。さあ、マルちゃん、こっちにおいで」

 いつの間にかショウちゃんの前に男の子のような、マネキン人形のような何かが立っていました。

「だけど……だけど、おじさん、これは人形じゃないの? 全然、僕みたいには見えないよ」

 たしかに背格好は似ていましたが、人形の顔は目、鼻、口がついているだけのぼんやりした無表情なもので、いくらお父さんとお母さんが赤ちゃんに夢中だとしても、とてもショウちゃんと見間違えるとは思えませんでした。

「いいから見ててごらん」

 その人形はショウちゃんのすぐ目の前に黙って立っていましたが、そのうちに人形の顔がまるでショウちゃんの顔を鏡に映したように、目も鼻も口もショウちゃんそっくりに変わっていきました。ただただびっくりして何も言えずにいるショウちゃんの横からおじさんが言いました。

「いいかいマルちゃん、今日から君はショウちゃんだからね。しっかりがんばるんだよ」

 マルちゃんと呼ばれた人形はこっくりうなずくと、ショウちゃんの家族のほうに走っていきました。お父さんとお母さんは「ショウちゃん、どこに行ってたの」と人形に話しかけ、お母さんが赤ちゃんを抱っこして、お父さんがベビーカーを押しながら、人形ともども家に帰っていってしまいました。

「これでショウちゃんはもうずーっとここにいられるんだからね」

 耳元でささやく声に背筋がぞーっとしたショウちゃんは、さっきまでやさしかったおじさんの顔がまるで鬼のように恐くなっているのを見てとっさに出口に向かって逃げようとしました。おじさんはその腕をしっかりつかまえると、猫なで声で言いました。

「ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家を知ってるだろう?」

 『ヘンゼルとグレーテル』はショウちゃんが一番好きな乗り物で、お話をたどっていく途中に通りかかるお菓子の家は、何度見ても本物に見えるのでした。

「あれは本当にお菓子でできているんだよ。食べてみたくないかい?」

 あたりはすっかり暗くなっていました。ショウちゃんは次の日のリコーダーのテストのことを考え、とりあえずしばらくだったらここにいてもいいかなと思いました。それにあのお菓子の家が本物だったら、ぜひ食べてみたいとも思ったのでした。

 『ヘンゼルとグレーテル』は遊園地の一番奥にありました。おじさんはショウちゃんを連れて裏のほうへと回って行き、真っ黒に塗られたドアを開けて中に入りました。分厚いカーテンをめくりあげると、そこはあのお菓子の家の中でした。乗り物に乗っていた時には気付かなかった甘いにおい、バターやクリームやシナモンの香りが辺り一面に漂って、ショウちゃんはお腹がすっかりすいてしまいました。

「ばあさん、ショウちゃんにお菓子を頼むよ」

 おじさんがそう呼ぶと、お菓子の家の奥から魔法使いのおばあさんが出てきました。いつも檻に入ったヘンゼルとグレーテルの前に恐ろしい顔で立っている人形そっくりに見えましたが、ショウちゃんの目の前にいるおばあさんの服装はごく普通の黒いセーターと長いスカートで、そんなに怖くはありませんでした。おじさんはショウちゃんをそこに残して閉園の準備をするために出て行きました。

 おばあさんはショウちゃんをお菓子の家の中に連れていくと、大きなテーブルに沿って置かれた長いベンチに座らせて、目の前にありとあらゆるお菓子を並べ始めました。中にはショウちゃんが今まで見たこともないような、珍しいお菓子もたくさんありました。

 どれから食べようかと迷っているショウちゃんをじっと見ていたおばあさんがしわがれた声でささやくように言いました。

「ショウちゃん……だったね。このお菓子を食べたら二度とここから出られないよ。それでもいいのかい?」

 毎日決まった時間に開園する遊園地から出られないなんて、そんなことがあるはずありません。きっとおばあさんは意地悪で、僕にお菓子を食べさせたくないだけなんだとショウちゃんは思いました。

 そして目の前のお菓子の中から、ピンク色とチョコレート色がぐるぐるになったスポンジのまわりに緑色のクリームがたっぷり飾られたやつを手に取ると、鼻の穴にクリームが入るのもかまわずかぶりつきました。それは生まれてから今までに食べたどの誕生日ケーキよりも甘くておいしくて、ショウちゃんは手当たり次第に次から次へとお菓子をむさぼりました。

 おばあさんはそんなショウちゃんの様子を悲しそうな目で見ていましたが、もう何も言いませんでした。ショウちゃんはテーブルの上に並んでいたお菓子をひとつ残らず平らげるとすっかり満足して、そこのベンチの上にそのまま横になりました。遠くで閉園を告げるサイレンを聞きながら、ぐっすり眠りました。


 翌朝、ショウちゃんはのどが渇いて目が覚めました。するとまわりに大勢の子どもたちがいて押し合いへし合いしながら、テーブルの上に置いてある牛乳のコップと、何やらつるんとした黄金色のゼリーのような固まりを奪い合っていました。ショウちゃんは驚いて起き上がり、目の前にあった牛乳を一気飲みしてから、もう一度まわりを見回しました。ショウちゃんは子供たちの洋服に見覚えがありました。それは遊園地中あちこちに立っている、あるいはポーズを決めている人形たちのそれでした。ショウちゃんが今までずっと人形だと思っていたのはすべて生きている子供たちだったのです。

 ただショウちゃんがさらによく観察すると、背丈はたしかに子供サイズなのですが、妙に透明感のある、ワックスがけしたようにテカって突っ張った肌と、全員が同じように甲高い声がグロテスクでした。

 そこにもぎりのおじさんが入ってきました。頭が天井につくかと思われるおじさんの姿を見ると、子供たちは一斉に「親方、おはようございます」と大きな声であいさつし、ゼリーのようなお菓子をあわてて口に詰め込んでは自分たちの持ち場に次々と走っていくのでした。

 親方(どうやらこれがおじさんの正しい呼び方らしいのですが)はショウちゃんを見つけるとテーブルの上のゼリーをひとつかみ渡して、「これを食べろ」と言いました。親方に逆らうととんでもないことになりそうで、ショウちゃんは上目づかいで親方の胸のあたりをにらんだまま黙ってゼリーを自分の口に押し込みました。ゼリーは前日に食べたお菓子に比べると甘味が少なくさわやかな味で、再びすっかりお腹が空いていたショウちゃんはまもなく自らすすんで目の前に残されたゼリーを平らげていました。

 ショウちゃんが食べ終わると、親方は遊園地の入り口近くにある『世界の子供たち』という展示館にショウちゃんを連れていきました。ここは世界の子供たちがどんな遊び方をしているかを見せるところです。日本の子供たちの遊びはなぜかいまだに正月のコマ回しや羽根つきで、ショウちゃんのお父さんはいつも「時代遅れだな、テレビゲームとかじゃないの」と笑います。ショウちゃんはそのコマ回しの子供の役で、コマを回すヒモを手に持ち、親方がつけたポーズそのままでじっとしているように言われました。

 生きている人間がこんな中途半端に腕を振り上げた格好のまま一日中じっとしていられるわけがない、とショウちゃんは思いました。だって、トイレはどうするの、お昼ごはんは……ところがしばらくすると、またまた信じられないことが起きました。お腹の中のゼリーが牛乳を吸ってだんだん溶けていくように思われ、それが次第に血管を通って体全体に広がると同時に、腕も足も指先から冷たく固まっていくのでした。気がつくとショウちゃんは、瞬き一つできないほど固まってしまっていました。

 やがて遠くのほうで開園を知らせるサイレンが鳴り響き、平日のためかほんのときどき、ベビーカーを押した大人や小さな子供がショウちゃんの目の前を通り過ぎていきました。ショウちゃんの五感はぶ厚いゼリー状の壁に塗り込められたように外界から閉ざされ、意識はもうろうとして、半分眠っているような状態でした。

 結局ショウちゃんは、閉園の時間をだいぶ過ぎるまで動くことができませんでした。色とりどりの民族衣装を身に付けたまわりの子供たちは、閉園を知らせるサイレンが鳴ると同時に飛び出していってしまいました。たった一人取り残されたショウちゃんは体中の痛みに耐えながら、真っ暗な園内をとぼとぼとお菓子の家に向かいました。

「なにノロノロしてんだよ、早く入りなよ」

 ようやくショウちゃんがたどりついたとき、暗闇からそう声をかけたのは、遊園地の中で乗り物を動かしたり、売店でソフトクリームを売ったりしている、ちょっと年上の子供たちの一人でした。遊園地のロゴが入った帽子を目深にかぶり、遊園地の名前が入った白と黒のシマシマの制服を着ていて、ゆっくり戻ってきたショウちゃんに待たされたことで明らかにイラついているようでした。そしてショウちゃんがお菓子の家の中に入ると同時に、外からガチャリとドアの鍵を閉める音がしました。

 ショウちゃんの他に子供たちの姿はなく、テーブルの上にほんの一握り、お菓子の食べ残しがあるだけでした。

「たとえ動かなくても一日中立っていたことには変わりないんだからね、体が痛くてあたりまえさ」

 魔法使いのおばあさんがそう言って、ショウちゃんの前の牛乳のコップを置きました。

「だから言ったじゃないか、二度と出られないよって……」

 その言葉を聞いたショウちゃんの両目から一気に大粒の涙が流れ落ちました。あとからあとから流れ落ちる涙をぬぐおうともせず、ショウちゃんは泣き続けました。その間もおばあさんは、ショウちゃんが聞いているかどうかも気にしない様子で話を続けました。

「ここにいる子供たちはみんなそうやって、いろんな理由で家に帰りたくないと言ったところを親方につかまって、ここから出られなくなった子供さ。子供といっても、もう何年もここで暮らしてる。だけど大人にはなれないのさ。あのゼリーを食べると筋肉が固まって背が伸びないんだからね。体だけじゃない。学校にも行かないから漢字も読めないし、毎日何も考えないで生きているから脳みそも成長しないのさ。あの子供たちに残されたのは食欲だけ。だから晩ごはんも早いもの順、たくさんお菓子を食べたかったら誰よりも早く戻って奪い取る、動物みたいにね。弱肉強食さ、ここは」

「じゃくにくきょうしょくってなに?」

 泣き疲れたショウちゃんは、食べ残しのお菓子を指でつまんでぽそぽそと食べながら聞きました。空腹に耐えられなかったからでした。

「簡単にいえば、強いものが勝って、弱いものが負けるってことだよ」

「おばあさんはどうしてここにいるの? おばあさんも家に帰りたくなかったの?」

 何も返事がないのでショウちゃんは顔を上げました。すると今度はおばあさんの両目が涙でいっぱいになっていました。ショウちゃんはあわてて言いました。

「ごめんなさい、言いたくないなら別に言わなくてもいいです、本当にごめんなさい」

 ショウちゃんは泣いているおばあさんを見ないように下を向いてお菓子を食べ終わりました。おばあさんがしわがれた声でぽつりとつぶやきました。

「ショウちゃんはやさしい子だね」

 ショウちゃんはその夜もお菓子の家のベンチの上で寝ました。体も痛かったのですが、それ以上の疲労ですぐに眠ってしまいました。


 次の日もその次の日も、その次の週もその次の月も、そうやってショウちゃんの毎日は過ぎていきました。カレンダーも時計もないので時間の流れがよくわからず、ただ季節の移り変わりだけは多少わかりました。夜風の暖かい真夏から落ち葉散る秋、そして遊園地に雪が積もる冬。ショウちゃんは誕生日に着ていた長袖のポロシャツと半ズボンのままで汗をかき、寒さに震えました。ただエアコンが入った館内はどこも快適だったので、それほどつらいとは思いませんでした。遊園地での生活にもすっかり慣れ、顔も洗わず歯も磨かずお風呂にも入らず、お菓子の家の奥にある大部屋で他の子供たちに挟まれて床でゴロ寝するのももう平気です。駆けっこではいつも一番だったショウちゃんは、やや年老いた他の子供相手にお菓子の争奪戦でもかなり勝てるようになりました。

 お母さんことを思い出してさびしくなると、ショウちゃんはお菓子を食べ終わったあとも他の子供たちがみんな寝てしまうまでベンチに残り、魔法使いのおばあさんと話をしました。

「親方は悪い人なの? 恐いけど、僕はそんなに悪い人とは思えないんだけど……」

「親方はね、それはそれは立派なお医者さんだった。ノーベル賞をもらえるくらい頭がよかったけど、先輩の大学教授に裏切られて、自分の研究を盗まれちまって……それ以来、お医者さんを辞めて、自分の財産すべてをつぎ込んでこの遊園地を作ったんだよ」

「おばあさんは親方のことよく知ってるんだね。きょうじゅとかけんきゅうとかよくわからないけど、なんかかわいそうな目にあった人なんだね。そっかぁ、お医者さんかぁ。もしかして、僕たちがいつも食べてるゼリーも親方が作ってる特別なゼリーなの?」

「そうだよ、ショウちゃんにはちょっと難しいだろうけど、老化とか新陳代謝とか、簡単に言うと人間の体が年を取りにくくなっていつまでも元気でいられるようにする研究をしていたのさ。言葉は悪いけど、今は子供たちを使って人体実験をしているようなもんだね」

「人体実験なんて仮面ライダーみたいだな。おばあさんも年を取らないようにあのゼリーを食べているの?」

「いいや、私は魔法使いの格好はしているけれど、毎日子供たちのためにお菓子を作るのが仕事だからね、ゼリーは食べないよ。あのゼリーは一日中、人形の代わりをする子供たち専用さ」

「子供たちはみんな親方の実験のために集められたの?」

「遊園地ができた当初から子供たちがいたのか、私にはわからない。私が来た時にはもうかなりの人数の子供たちがいたからね。ただみんながみんな、ここにいて不幸かというとそうでもないよ。中には自分の家が本当にひどくて、親に暴力振るわれたりして、ここにいられて幸せだっていう子供もいるんだよ」

「僕はね……僕はできればいつか帰りたい。だからおばあさんにお願いがあるんだ」

「なんだい?」

「僕に勉強を教えて。閉園のあと寝るまでの短い時間でいいから、僕に読み書きや算数を教えてください」

 ショウちゃんはお父さんお母さんに教わったように、背筋をぴんと伸ばして、両手を両ひざにきちんと置いてぺこりと頭を下げました。それからおばあさんは毎晩、小麦粉や砂糖が運ばれてくる箱の底に敷かれた古新聞を使ってショウちゃんに漢字を教え、掛け算や割り算の筆算のやり方を教えてくれました。


 夜遅くまでがんばって勉強するショウちゃんのために、おばあさんは内緒でお菓子を隠して取っておいてくれるようになり、ショウちゃんはあわててお菓子の家に帰る必要もなくなりました。誰もが自分の取り分のことで頭がいっぱいで、ショウちゃんのことなど気にも留めません。おかげでショウちゃんはゆっくり歩いて帰り、おばあさんが出してくれるお菓子をゆっくり食べながら勉強できました。

 そんなある日、お菓子の家のドアを閉めるためにやってきた、遊園地の制服を着た子供に話しかけられました。

「君、ショウちゃんだろ?」

 最初の夜に怒られて以来、年上の子供に話しかけられたことがなかったショウちゃんはびっくりして相手の顔を見ました。目深にかぶった帽子のツバでできた影が暗く、顔はよくわかりません。

「僕のこと知ってるの?」

「君がお誕生日にお父さんお母さんとあのちっこいヤツと一緒に来た時、スワンボートに乗っただろ、あのとき乗船係をしてたんだ、俺。あ、立ち止まらないで前向いて歩き続けて!」

 小さい声でしたが、有無を言わさない響きにショウちゃんはびくっとして、顔を前に向けてお菓子の家のほうにまた歩きだしました。その子供は後ろをついて歩きながら話を続けました。

「俺たちはおまえたちと話しちゃいけないことになってるんだ。でも俺はあの日、幸せそうなショウちゃんと家族を見てるから、なんとかしてやりたくてしょうがないんだ。ショウちゃんだって帰りたいんだろ?」

「もちろ…」と言いながら振り返ろうとしたショウちゃんはまた、「前向いて!」と鋭いささやき声で叱られました。

「俺はモクって呼ばれてる。俺たちはもう番号でしかないんだけど……」

 最後のほうがよく聞き取れませんでしたが、ショウちゃんはもう振り返りも聞き返しもせず、だまって歩き続けました。お菓子の家につくとモクと名乗った子供は言いました。

「俺がお菓子の家のドアの鍵を閉める係になったときは、また話そう」

 外からガチャリと鍵がかかる音を聞きながら中に入ったショウちゃんは、なぜモクという子供は赤ちゃんのことをちっこいヤツと呼んだんだろう、と不思議に思いました。


 それからときどき、お菓子の家に帰るまでの短い時間でしたが、ショウちゃんはモクちゃんと話すようになりました。主にショウちゃんが外の世界にいたときの話が多かったのですが、そのうちにモクちゃんも自分たち年上の子供たちが、毎日どう過ごしているかを話してくれました。

「ショウちゃんはコンビニ弁当、どれが好き?」

 ある日、モクちゃんはショウちゃんにそう聞きました。ショウちゃんはいつもお母さんのおいしい手料理を食べていたので、本当はそれほどコンビニ弁当は好きじゃなかったのですが、話を合わせるために「ハンバーグ……かな」と言いました。するとモクちゃんは急に自分たちの生活の自慢を始めました。

「俺たちの晩ご飯は毎日、コンビニ弁当なんだ。弁当がイヤならおにぎりでもサンドイッチでも注文できるし。まあ、朝と昼は親方の特製シェークを飲まなくちゃいけないんだけど。それでもあのゲロ吐きそうなゼリーに比べたら天国さ」

「へぇぇ」

「俺たちは働いてるだろ、だからお小遣いがもらえるんだ。それで漫画も買えるし、好きなスナックやお菓子も買えるんだ。あのババァが作るクソまずい菓子じゃなくて、本物のお菓子だよ」

「そう」

「それにアニメとか映画も見せてもらえるんだ」

「ふーん」

「一年経てばショウちゃんも俺たちの仲間になれるんだよ。そうしたらジャックと豆の木のてっぺんにある部屋で俺たちと一緒に暮らすんだ。ものすごく眺めがいいんだよ、遠くの山まですっかり町が見えるんだ。今度、特別に見せてあげるよ」

 ショウちゃんはなぜか急におしゃべりになったモクちゃんのことを変だなと思いながらどう答えていいのかよくわからず、あいまいな返事しかできませんでした。それでも、モクちゃんがどうやら心を開いてくれているのはうれしいような気がしました。

「僕、新しいお友達ができたんだ」

 ある晩、ショウちゃんは漢字の書き取りをしながら、おばあさんにモクちゃんのことを話しました。友達ができたことをおばあさんにも喜んでほしかったからです。でもおばあさんはなぜか険しい顔になり、「あの子たちとは関わらないようがいいよ、信用ならないからね」とだけ言いました。

 ショウちゃんはせっかく仲良くなったモクちゃんのことをおばあさんがあまりよく思っていないことにがっかりして、もう二度とモクちゃんの話はしないことにしました。ショウちゃん自身はモクちゃんと会える日がとても楽しみで待ち遠しかったのです。


 秋も深まってしばらくぶりにモクちゃんに会うと、モクちゃんはショウちゃんにこっそり漫画を貸してくれました。それはポケットにすっぽり入るサイズの小さい本でした。

「親方に見つかったらたいへんだから、みんなが寝静まったあとに、窓の近くに寄って外灯の光で読むか、非常口の明かりで読みなよ」

 遊園地に来て半年、漫画もテレビもない生活だったので、ショウちゃんは興奮して、

「いつかおうちに帰る日のために、おばあさんに勉強を教わっているんだ、だから僕、漫画の漢字もちゃんと読めるんだよ」

 とモクちゃんに話してしまいました。おばあさんには決して誰にも言ってはいけないと何度も念を押されていたのですが、モクちゃんと仲良くなったショウちゃんは、モクちゃんなら話しても大丈夫と思ったのです。

 それを聞いたモクちゃんは、押し殺した声で前を歩くショウちゃんの背中にひどい言葉を次々に浴びせました。

「あのババァを絶対に信用するな。あいつにしゃべったことは全部、親方に報告されてるんだぞ」

「あいつは結婚して子供もいたのに、ここに子供を連れて遊びに来たときに昔好きだった親方に再会して、旦那も子供も捨てて親方のそばにいるために、ここに住みついたんだ」

「親方のゼリーの影響を細かく観察して、そのデータを親方に報告してるのさ。つまり親方のスパイなんだ。おとななんて誰も信用できないんだよ」

「俺の母親も俺と弟を捨てた。俺たち兄弟と親父より、よその男と、そいつとの間に生まれたちっこいウジ虫を選んだんだ。俺はそういう女は絶対に絶対に許せないんだ」

 ショウちゃんはモクちゃんの言葉の意味を完全に理解できなかったものの、モクちゃんが怖くて怖くてただ黙って歩き続けました。ショウちゃんはおばあさんがそんな悪い人だと思わなかったけれど、そう言えば親方のことをかばうようなこと言っていたし、モクちゃんと仲良くすることに反対していたし、ショウちゃんはだんだん、モクちゃんの言っていることのほうが正しいと思うようになりました。ウソも百回千回言い続ければホントになってしまうと、ショウちゃんはまだわかっていませんでした。

 そのうちショウちゃんは、窓の外からの明かりでモクちゃんが貸してくれる漫画をこっそり読むほうがはるかにおもしろくなり、おばあさんとはもう勉強しなくなりました。お菓子を食べているときにおばあさんがずっとさびしそうにショウちゃんのほうを見ていることには気付いていましたが、ショウちゃんは気付かないふりをしました。

 ある晩、お菓子を食べ終わってさっさとベンチから離れようとしたショウちゃんの腕を、おばあさんがそっとつかみました。

「なあに?」

 とやや反抗的な口調で聞いたショウちゃんをベンチにすわらせ、おばあさんもその隣にすわりました。トラブルに巻き込まれるのを避けようと、他の子供たちはあっという間に大部屋に消えていきました。

「ショウちゃん、まだあの子と会っているの?」

「だって友達だもん」

「あの子はなにか理由があってショウちゃんにやさしくしてるに決まってるわ。信じてはダメよ」

 頭からモクちゃんのことを否定するおばあさんに、ショウちゃんはいらいらと怒りを感じて言い返しました。

「そういうおばあさんだって、本当は親方の仲間なんでしょ?」

「仲間?」

「正直に言ってよ、親方のために僕たちのデータとか取ってるんでしょ?」

「それは……」

「僕の代わりにうちに帰ったあの子はどうなったの? ちゃんと教えてよ!」

 おばあさんはショウちゃんから目をそらさず、ただとても悲しそうな顔をしました。ショウちゃんは自分が言い勝ったことで、モクちゃんの正しさが証明された気がしました。

「おとなは誰も信用できないって、やっぱり言われたとおりだ。今どっちを信じるんだって聞かれたら、僕、おばあさんじゃなくて彼を信じる」

「待ってショウちゃん、本当のこと話すからお願い、聞いて。私は昔、親方がお医者さんだった頃に助手として働いていて……」

 立ち上がりかけたショウちゃんの肩に手をかけ、おばあさんが言いました。でもショウちゃんはその手を振り払うように立ち上がり、ベンチから離れていきました。

「別に聞かなくていい。ていうか、聞きたくない」

 おばあさんはもう追いかけてはきませんでした。モクちゃんに出会わなければすっかり自分はだまされていたんだとショウちゃんは思い、大部屋でまわりに寝ている何も知らない子供たちがつくづくかわいそうになりました。


 年末年始には遊園地も何日間かお休みになります。その間、親方は子供たち全員に「お年玉」として毎日毎日、食べたいだけお菓子を食べてごろごろしていることを許しました。他の子供たちはみんな大喜びでしたが、ショウちゃんはお母さんが作ってくれたおせち料理を思い出し、大嫌いだったなますの酸っぱい味すらなつかしく、この口の中によみがえってくれればいいのにと思いました。ぷちぷちした数の子、甘くておいしい栗きんとん、そしてなにより、お母さんが焼いてくれたお餅が入ったお雑煮。自分の代わりに家に帰った、マルちゃんという人形のような子供が、ショウちゃんが受け取るはずの本物のお年玉を独り占めしているところを想像して、ショウちゃんはとてもさびしくなりました。

 そんなとき、前だったらおばあさんと話して気をまぎらわしていたのに、もうおばあさんとは口をきかなくなってしまったし、お正月の間はモクちゃんとも会えません。ショウちゃんは布団にくるまって昼間は誰とも話さず、ほとんど寝て過ごし、夜になるとモクちゃんが貸してくれた同じ漫画を何度も何度も、すべて暗記してしまうほどに繰り返し読みました。自分の殻に閉じこもること以外に、自分をさびしさから救う方法がわかりませんでした。


 お正月が終わって、またいつもの日常がやってくると、月日はあっという間に過ぎていきます。気がつけば、遊園地は再び青葉のまぶしい季節になっていました。

 明日はショウちゃんの十回目の誕生日。でもカレンダーを持っていないショウちゃんはそのことを知りません。

 一日が終わり、ショウちゃんが夜、お菓子の家に向かって歩いているとき、後ろからついてきたモクちゃんがいつになく真面目な声で話しかけてきました。

「ショウちゃん、こんなこと言ったら嫌われるかもしれないけど、俺はショウちゃんのこと、本当の弟みたいに思ってるんだ。ショウちゃんがずっとここにいてくれたらなって……」

 まるで自分の気持ちを言い当てられたようで、ショウちゃんは胸がどきどきしました。

「実は僕……ずっとお兄ちゃんが欲しかったんだ。だからもうおうちに帰らなくてもいいかなって思ってる……」

 恥ずかしくてだんだん声が小さくなり、最後にはうつむいてしまったショウちゃんの言葉をモクちゃんは聞き逃しませんでした。

「そうなの? ショウちゃんがずっとここにいてくれたら、俺のことお兄ちゃんだと思ってくれたら、俺うれしいなあ」

 と、モクちゃんは心の底からうれしそうに言いました。

「ショウちゃん、俺は明日、仕事が休みなんだ。親方に内緒で、ジャックと豆の木のてっぺんに連れて行ってやるよ。朝のゼリーは食べるふりだけするんだよ? いいね?」

「そんなことして、親方にバレないかな?」

 ショウちゃんは自信なさげに答えました。いままで一度も親方に逆らったことがないので、見つかったらどんな罰を受けることになるのか、怖かったのです。

「大丈夫、親方は明日、出かけて留守なんだ。いいかい、いつものようにお菓子の家を飛び出すんだ。でも『世界の子供たち』には行かずに、ジャックと豆の木の横にあるトイレに隠れるんだよ、わかったかい?」

「うん、わかった」

 ジャックと豆の木の横にトイレがあったかどうかもショウちゃんは覚えていませんでしたが、モクちゃんが自分を誘ってくれたのがうれしくて、そう返事をしました。万が一、困ったことになったらお菓子の家に戻ればいいや、と思ったのです。

 晩ご飯のお菓子を食べている間、おばあさんがずっと自分のほうをなにか言いたげに見つめているのにショウちゃんはすっかり気付いていましたが、それを無視して、食べ終わるとすぐにテーブルを離れ、おばあさんに話しかける隙を与えませんでした。またモクちゃんと仲良くしていることでなにかうるさく言われるのはまっぴらごめんでした。

 翌日は朝からすばらしいお天気になりました。青空にさわやかな風が吹き、遊園地にはたくさんの親子連れのお客さんが開園前から列を作っています。

 おばあさんが再びなにか言いたそうに見ている視線をあびながら、ショウちゃんは朝のゼリーを口の中に押し込みはしましたが、おばあさんが目を離す瞬間にひそかに吐き出してまた手に戻す行為を繰り返して、いかにも食べているように装いました。でもショウちゃんの前に置いてあるゼリーは両隣の子供が手を伸ばして食べていたので、おばあさんはショウちゃんがゼリーを食べていないことに気付いていたのかもしれません。でもその場ではなにも言いませんでした。

 他の子どもに混ざってお菓子の家を飛び出しそうとしたショウちゃんは、ドアの手前でおばあさんに腕をつかまれました。

「ショウちゃん、ちょっと待って、大事な話が」

 ゼリーを食べなかったことを親方に告げ口されたくない、このままお菓子の家に閉じ込められてしまったらモクちゃんに会えない、ショウちゃんはそう考えて無理やり、おばあさんの手を振り払って逃げました。ドアを出てしばらく『世界の子供たち』展示館へ向かうふりをしたあと、途中で方向転換してジャックと豆の木のジェットコースターのほうへ向かいました。トイレの場所はすぐにわかったので、男子トイレの一番奥の個室に隠れて、モクちゃんがやってくるのを待ちました。ゼリーを食べなかったのでお腹は空いていましたが、これからモクちゃんと一緒に過ごす自由な時間が楽しみで、ぐうぐう鳴るお腹を押さえてじっとしていました。

 やがて、聞きなれた開園を告げるサイレンが鳴り響きました。ショウちゃんが隠れているトイレは、ジェットコースターの出口の裏のほうで、お客さんがほとんど通らない場所にあるせいか、人のざわめきや笑い声はそれほど聞こえてきませんでしたし、トイレに入ってくる人もいませんでした。いい加減待ちくたびれたショウちゃんが、危険を冒して外の様子を見にいくべきかと思った頃、個室のドアの外からモクちゃんの声がしました。

「ショウちゃん、そこにいるの?」

「ここにいるよ」

「ずいぶん待たせてごめん」

 ショウちゃんがドアを開けると、いつものように帽子を目深にかぶったモクちゃんが立っていました。いつもショウちゃんの後ろをついてくるときにしゃべっているので、面と向かって話すのは初めてでした。ショウちゃんはちょっと照れて、モクちゃんの顔を見ないで下を向いてもじもじしました。

「じゃあ、ショウちゃん、急いで俺についてきなよ」

 モクちゃんは余計なことをなにも言わずに、さっさとトイレから出ていきます。ショウちゃんも慌てて後に続きました。トイレから遊園地の通路に出るときはさすがに周りを注意して見ましたが、誰もいなかったので、ショウちゃんも少し安心しました。モクちゃんはジャックと豆の木の裏のほうへどんどん歩いていき、ひとつの目立たないドアの鍵を開けて、ショウちゃんのほうを振り返りました。

「ショウちゃん、さあ、ここがジャックと豆の木のてっぺんに上がるための秘密の階段の入り口だよ。先に入って」

 とドアを開いて、片手で中を指しました。中は真っ暗でしたが、電気をつけてくれるものと信じて、ショウちゃんは誘われるままに中に入りました。

 がちゃん。

 ショウちゃんの後ろでドアの鍵が閉まる音がしました。びっくりして振り向いても真っ暗な空間にドアの形に隙間からもれる光が見えるだけで、そこにはモクちゃんはいません。

「どうしたの、モクちゃん。いたずらしないで、開けてよ」

 暗闇に目が慣れてくると、そこは修理用の工具や部品を保管しておく物置で、秘密の階段もなにも、外につながっているのはそのドアだけだということがショウちゃんにもわかりました。

「モクちゃん、いじわるしないで開けてよ。僕が悪かったんならあやまるから、ねえ、開けて!」

 最初は周りのお客さんに聞こえないような声で話していたのですが、最後にはドアを叩きながら叫ぶようにショウちゃんは言いました。

 その間にもゴゴゴゴゴォォォと頭上をジェットコースターが通過していく爆音がします。とても普通に叫んだのでは聞こえないと思い、ショウちゃんはありったけ大きな声を出しました。

「モクちゃん! 開けてよ、モクちゃん!」

「ショウちゃん、いや、PI645号、君を今日、ここから出すわけにはいかないんだ」

 ジェットコースターの轟音と、お客さんたちの楽しそうな悲鳴の合間に、モクちゃんの冷静な声は奇妙なほどはっきり、ショウちゃんの耳に届きました。

「PI……てなんのことなの?」

「ここでの君の番号さ。ちなみに俺はMQ228号。つまりMQだからモク。君も自分の好きな名前にするといいよ、ピーとかパイとか」

 のんびりと、まるで関係のない話をしているモクちゃんに、ショウちゃんはいら立ちました。

「なんで出してくれないの? 理由を言ってよ! てっぺんに行かなくていいから、お菓子の家でおとなしくしてるから、ここから出してよ!」

「ちょうど一年前、君の代わりになったのは、俺の弟だ」

「弟? だってあれは人間じゃなくて人形だったよ、あれは」

「親方が作った薬を飲まされて、顔のない人形みたいにされたんだ、MR838号として! 細胞の配列を体内から変えるとかで顔が変わる化け物さ。君の誕生日に君の代わりになって君の家族と一緒に君の家に帰ったのは、俺の弟だ」

 モクちゃんの「君」を強調する変なしゃべり方に、ショウちゃんは背筋が寒くなって黙り込みました。

「あいつは俺の弟なんだ……ついてくるなって言ったのに、俺の家出にくっついてきて、ここから出られなくなったんだ。母親のことで家にいるのが耐えられなくなって俺がここに逃げてきたとき、あいつは別に家出したかったわけじゃなかったのに」

「それと僕と、いったいなんの関係があるの?」

 ショウちゃんは涙声になりそうなのをこらえて聞きました。

「ここに来て一年後の同じ日、閉園時間までにもし君のお父さんお母さんが、家に連れて帰った子供ではなくてPI645号、君のことを自分の子供だって見分けてくれたら、君は家に帰れるんだ。それが、君が家に帰れる最後のチャンスなんだ」

「僕が家に帰れる最後のチャンス……」

 ショウちゃんは家に帰りたいのかどうかわからなくなっていたにもかかわらず、いざ家に帰れると聞くと、無性に家に帰りたい気持ちになっていました。

「俺のせいで家に帰れなくなって、親父にも会えなくなった弟には、お父さんもお母さんもいる普通の家庭で幸せに暮らしてほしいんだよ。あいつが選ばれれば、あいつが今日から本物のショウちゃんになるんだ。君にはすまないけど……君を家に帰すわけにはいかないんだ。悪いな」

「出してよ、ここから出して! お父さんとお母さんに会わせてよー! 誰か、誰か助けて!」

 ショウちゃんの叫びはジェットコースターの轟音でかき消され、モクちゃんもどこかに行ってしまったのか、ショウちゃんは一人、物置の中に残されました。

 他にできることもなかったので、自分がどこで何をまちがったせいでこんな状況になったのか、ショウちゃんは考えてみました。生まれてからそれまでの十年間、物心ついてからだと十年もありませんが、先生やお母さんに逆らったり文句を言ったりしたいろいろな出来事の中でショウちゃんはやはり、一年前の誕生日のことを深く反省しました。

 リコーダーが吹けなくて先生に叱られたり、友達に笑われたり、それでどんなに悔しい思いや恥ずかしい思いをしたところで、そんなことはお父さんにもお母さんにも会えず、こんなところに一人で閉じ込められている現実に比べたら本当にどうでもいいことでした。そんなつまらないことにこだわっていた自分のちっぽけなプライドを、ショウちゃんは頭の中でめちゃくちゃに破り捨ててやりたい気持ちでした。ショウちゃんは小さい時からほとんど泣いたことがなかったのに、両目からはあとからあとから涙が流れ続けました。

 それからどのくらいの時間が経ったのか、ドア回りの隙間から差し込む光は赤みを帯びてきて、ショウちゃんにも日暮れが近く、閉園時間も間近に迫っていることがわかりました。呆然と暗闇で座っていたショウちゃんはそのとき、ドアの鍵が開けられる音を聞きました。

「ショウちゃん!」

 ショウちゃんが顔を上げると、ドアから飛び込んできたのは魔法使いのおばあさんでした。

「ショウちゃん、もっと早く今日のこと話してあげられなくてごめんね……親方が出かけたって知って急いで展示館に行ったらショウちゃんがいなくて、すいぶん探したよ!」

「おばあさん、僕こそごめんなさい。モクちゃんのこと、おばあさんが注意してくれてたのに」

「そんなことより、さ、早く、早く、お父さんとお母さんが帰ってしまうよ!」

「おばあさん、ありがとう! いろんなこと全部!」

 ショウちゃんは生まれてからこれまで走ったことのないスピードで園内を駆け抜け、偽物のショウちゃんとお父さんとお母さんを探しました。

 ジェットコースター『ジャックと豆の木』を出発して、『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家に戻り、メリーゴーランド『浦島太郎』から『白鳥の王子』のスワンボートが浮かぶ白鳥池まで走って、ショウちゃんはやっと、お父さんとお母さんと弟のあっくんと、そしてモクちゃんの弟を見つけました。

 お父さんとお母さんの注意を一秒たりとも自分から逃すまいとするように、モクちゃんの弟は一生懸命、二人に話しかけていました。夕陽を浴びたその顔が刻一刻、自信に光り輝き、ショウちゃんそっくりの目鼻立ちがいよいよしっかりと刻み付けられていくようでした。

 しかしショウちゃんはそのとき、ずいぶん大きくなった弟のあっくんが一人でよちよち歩いて白鳥池の桟橋に向かうのを見て、あれほどウザいと思っていたにもかかわらず声にならない叫びをあげて追いかけました。

 もう少し。というところでロンパースの足首をつかみ損ね、あっくんはばしゃんと池に落ち込みました。

 ショウちゃんはまだ泳げません。でもあっくんの後に続いて迷わず飛び込みました。

 暗い池の底で目を見開いて口からあぶくを出しているあっくんを抱え上げ、明るい水面のほうに押し上げようとしましたが、ショウちゃんの体はどんどん沈み、とうとう最後は両足をつっぱるようにあっくんを押し上げ、ショウちゃんはぶくぶく沈んでいき……。

 突然、なにかがショウちゃんの両足をビート板のようにかかえ猛烈に下からぐんぐん押し上げはじめました。気力を振りしぼって息を止め、気が遠くなりかけているショウちゃんはなぜか、それが自分のあとを追って飛び込んだ、モクちゃんの弟に違いないと思いました。

 もう、だめだ。がぼっと水を飲み込んだ途端、何人もの手が上からショウちゃんの脇をぐいっと抱え上げ、ショウちゃんはひどく咳き込みながら水を吐き出すと、大きく二回三回、肺が痛くなるほど胸いっぱいに息を吸い込みました。

「ショウ!」

 ショウちゃんを抱きしめ泣いているのはお母さんでした。一年会わなかったけど、別れたのがつい昨日のようだ、いつもと変わらないシャンプーの香りがする、とショウちゃんはぼんやり考えました。

 まわりでは他のお客さんから一斉に拍手がわきあがっていました。

 びしょ濡れでぎゃん泣きしているあっくんを抱いたお父さんが、大きな手でびしょ濡れのショウちゃんの頭をぐしゃぐしゃとなで、「今年の夏は泳げるようになろうな」と言いました。

 僕、帰ってきたんだ……。

 ショウちゃんはそっと白鳥池のほうを振り返ってモクちゃんの弟の姿を探しましたが、あのまま沈んでしまったのか、人ごみにまぎれたのか、見つけられませんでした。


 遊園地はそれからすぐに閉園となり、あとかたもなく壊され、跡地には大きなタワーマンションが建ちました。親方がその後、老化を防ぐゼリーなどの研究結果や発明をどこかに発表したという話はなく、あの子供の顔をしたおじさんおばさん、モクちゃんたち少年がどうなったのかもわかりません。

 ただ、ショウちゃんは高校生の時、一度だけあの魔法使いのおばあさんを見かけたと思いました。塾の帰りに踏切で待っていた時、反対側の道を歩いていました。電車が通過するのを待って急いで追いかけようとしましたが、もう見つかりませんでした。その足取りはふらふらとさまよう感じではなく、少なくともしっかりとどこかに向かうものだったので、おばあさんにも帰る場所ができたに違いないとショウちゃんはなにか救われた気がしました。できれば親方と二人、どこかで静かに暮らしていてほしい、なんとなくそう願いました。

 ショウちゃんはその後、ものすごく勉強して、えらい教育学者になり、すべての子供が学校を好きになるように尽力しましたが、あのとき食べたゼリーのせいか結局、おとなになっても背はそれほど伸びませんでした。


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