72話
「なっ、何故お前が・・・」
ケイモスは、オフィーリアの頬を打ってしまったことに一瞬呆然としてしまったが、すぐに自分が犯した大きなミスに気が付いた。
「ち、違う・・・、お前を打つつもりなんて・・・、な、なかったんだ・・・」
だがオフィーリアは、今度はケイモスに見向きもせず、しゃがんだままのスカーレットの背中に両手を回し、優しく諭すように話しかけた。
「スカーレット、お姉ちゃんは恐くないよ。お姉ちゃんはあなたを殺したりしないわ。だから安心して・・・」
「本当に殺さない? ヒックヒック・・・王子様と一緒に・・・私をやっつけたりしない?」
「しないわよ。だってお姉ちゃんはスカーレットのこと、大好きだもの。」
オフィーリアは、スカーレットのウエーブのかかった栗色の髪を、優しく撫でた。
「どうして、お姉ちゃんが殺しに来たって思ったの?」
「だって、だって、ヒック・・・おねえさんが言ってたの・・・。」
「おねえさん?」
スカーレットが幼かった頃、若い使用人の女性を、おねえさんと呼んでいた。
もしかして、その人たちのこと?
「おねえさんが、何て言ってたの?」
「ヒック、ヒック・・・おねえちゃまのお母様が死んじゃったのは、ヒックヒック・・・私が生まれたからだって・・・。だから、ヒックヒック、おねえちゃまは、私のこと、殺したいほど憎んでるって・・・ヒックヒック・・・ウエーン」
言い終ると、スカーレットの泣き声がまた大きくなった。
そんな・・・なんて酷いことを・・・
オフィーリアは、スカーレットの言葉に大きな衝撃を受けた。
そして思い出した。
スカーレットが五歳の誕生日の次の日、熱を出して寝込んだこと、その日に若い使用人が二人、理由も告げずに辞めていったことを・・・。
ミラが、子どもが熱を出して忙しいのに、いきなり二人も辞めるなんてと、ブツブツ文句を言いながら怒っていたので、今でもはっきり覚えている。
おそらく、スカーレットは、使用人の無責任な会話を聞いてしまったのだ。
聞かれた二人は、スカーレットが目を覚ます前に、一刻も早く辞めなければならなくなった。
もし会話の内容が主人にばれてしまったら、クビどころじゃ済まなくなる。
貴族侮辱罪で、しかもこの内容は重罪に値する。
オフィーリアは、泣き止まないスカーレットをギュッと抱きしめた。
そして頭を撫でながら優しく優しく話しかけた。
「スカーレット、お姉ちゃんのお母様が死んじゃったのは、スカーレットが生まれたからではないのよ。もともと身体が弱かったの。だから、病気で死んじゃったのよ。スカーレットのせいだなんて、思わないでね。」
「ヒックヒック・・本当?・・」
「ええ、本当よ。お姉ちゃんは嘘をつかないわ。」
本当にそうなのだ。
オフィーリアの母クレアは、家に寄り付かないケイモスに対して、恨み言を言ったこともなければ、悲しみに沈むこともなかった。
病気がちではあったが、いつもオフィーリアとマリーと三人で、穏やかな時間を過ごしていた。
滅多に家にいないケイモスが、家に戻ってきたときの方が、顔がこわばっていたように思う。
スカーレットの存在は、おそらく知っていたとは思うが、クレアの口から聞いたことは一度もない。
オフィーリアの腕の中で泣きじゃくっていたスカーレットの泣き声が、次第に落ち着いてきたが、オフィーリアはスカーレットの頭を優しく撫で続けた。
「だからね。お姉ちゃんはスカーレットのこと、憎いなんて思ってないの。ずっとずっと大好きよ。」
だって、本当に大好きだったのだ。
母がいなくなって寂しかった心を、スカーレットは癒してくれた。
おねえちゃま、おねえちゃまと、追いかけてくれることが、どれほど嬉しかったことか・・・。
「おねえちゃま・・・、私・・・ヒック・・・怖かったの・・・ヒック・・・」
オフィーリアは、ようやく、スカーレットの心に奥底に潜む恐怖を理解した。
わずか五歳という幼い心の中に生まれた、大好きだった姉に殺されるかもしれないという恐怖感に、自分のせいで姉の母が死んだという罪悪感に、おそらく、スカーレットはずっとずっと苦しみ続けてきたのだ。
だが、オフィーリアは、スカーレットの苦しみに気付かず、逃げることばかり考えていた。
「スカーレット、ごめんね。お姉ちゃん、あなたの苦しみに気が付かないで、本当にごめんね。」
スカーレットを抱きしめているオフィーリアの目からも涙が溢れ、はらはらと零れ落ちた。
「おねえちゃま・・・ヒック・・・お姉さま・・・大好きだったお姉さま・・・ヒック、本当にごめんなさい。私・・・ヒック・・やっと思い出しました。怖くて怖くて・・・何を恐れているのかも忘れてしまっていたの。・・・ただ、お姉さまが怖くて・・・酷いことをしてしまいました。・・・お姉さま、本当にごめんなさい・・・ごめんなさい。」
スカーレットの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
さっきまでの涙とは違う涙が、溢れて止まらない。
「お姉さま、本当にごめんなさい・・・。」
「スカーレット・・・もういいいのよ。私は怒ってないから・・・。」
「お姉さま・・・」
二人は顔をお互いに見合わせると、ふふっと笑みがこぼれた。
泣きながら、幼児のように手で涙を拭っていたスカーレットの顔は、アイシャドーもチークも顔のあちこちに滲んで化粧が崩れてボロボロだ。
オフィーリアも、涙で目元の化粧が崩れている。
「うふふっ、酷い顔。」
「ふふっ、お姉さまだって・・・、お姉様、私のために・・・ごめんなさい。」
スカーレットは、オフィーリアの打たれて赤く腫れた頬をそっとなでた。
ずっと黙って二人の様子を見ていたオスカーが、いつの間にかオフィーリアの横に座り込み、ハンカチを取り出しオフィーリアの涙をそっと拭った。
「あ・・・ありがとうございます。でも、スカーレットは、ハンカチでは終わらないわね。マリー・・・」
マリーを呼ぶと、既に化粧箱を手にしたマリーがすぐそばに立っていた。
「奥様、おまかせください。旦那様、申し訳ございませんが、この布でしばし私たちを隠してくださいませ。」
貴婦人が人前で化粧直しをするなど、御法度である。
「ああ、わかった。」
オスカーは受け取った布で、三人を周りから見えないように隠した。
「お嬢様、頬は痛くございませんか?」
「これくらいなら大丈夫よ。」
「赤くなっておりますが、化粧でなんとかごまかしますね。スカーレット様も簡単ではございますが、お化粧直しをさせていただきます。」
マリーが手際よく化粧を直し、二分ほどでオスカーに合図を送った。
オスカーが布をとると、オフィーリアの目元の化粧は元に戻り、頬の腫れも目立たなくなっていた。
スカーレットも、見苦しさがなくなっている。
周りの人々から、おお・・と感心した声が上がった。
「スカーレット様は、まだお化粧直しが必要なので、控室にてお直しをさせていただきますね。」
「ええ、お願いね。」
本当に頼りになるマリーである。
マリーに手を引かれ、スカーレットが退場すると、オフィーリアは姿勢を正してケイモスを睨みつけた。
「オフィーリアや、本当にお前を打つ気などなかったのだ。わかってくれ・・・」
「まだ、そのようなことを・・・。ベイル伯爵、あなたは自分が私にしたことを棚に上げ、全ての責任をスカーレットに押し付けようとなさいましたね。」
「えっ、いや、あの・・・」
ケイモスは、返答に困り、しどろもどろになる。
「心が傷ついている実の娘に、理由も聞かず頭ごなしに酷い言葉を浴びせ続け、その上暴力を振るおうとした・・・」
「い、いや、あれは、スカーレットを泣き止ませようとしただけで・・・」
「ベイル伯爵、私は言い訳など、聞きたくもございません。このまま、あの子をベイル家に連れて帰れば、あなたは、もっと厳しく叱るかもしれません。私は、あの子を保護するために、今日はルイス侯爵家で、お世話をさせていただきます。」
「いや、そんな・・・いくら何でもそれは・・・」
「殿下、スカーレットをルイス侯爵家にて保護することをお許しくださいませ。」
ぐだくだと文句を言うケイモスに、スカーレットは、権力の鉄槌を喰らわせる。
「そうだな。私も先程からベイル伯爵の言動を見ていると、娘を虐待する可能性を感じた。スカーレット嬢は、ルイス侯爵家にて保護するように。」
「ありがとうございます。」
「ええええ・・・そ、そんな・・・」
ことの成り行きに驚くばかりのケイモスであったが、王族の決定に歯向かえるはずもなく、何も言えなくなってしまった。
そこにオスカーが、さらに追い討ちをかける。
「ベイル伯爵、私の妻に暴力を振るったそなたのことを、私は決して許すつもりはない。それに加えて、私の妻は今後一切あなたと関わりたくないと言っている。これは、ルイス侯爵家としての決定事項であるから、二度と私たちの目の前に現れぬことだ。それから、そなたの娘は、しばらく侯爵家で保護するが、決して迎えに行こうなどとは思わぬように。」
「ううっ・・・」
ケイモスは、オスカーに返す言葉もなく、ただ唸ることしかできなかった。
そこへ、もっと大きな追い打ち、セオドアが腹黒笑みで言葉を続けた。
「実は、私からも、話すことがあるのだ。」




