3話
「いったい、どうなってるんだ。俺の目の前で、オフィーリアがオフィーリアになって、オフィーリアに戻ってしまった。いや、俺はいったい何を言ってるんだ。」
目の前には、子犬の姿のオフィーリアがいる。
「クウーン」と鳴く子犬のオフィーリアは、なんだかすごく恥ずかしそうだ。
「お前は本物のオフィーリアなのか?」
「キャン(そうです)」
「ああ、いったい何を言ってるのかわからない。そうだ、イエスなら一回、ノーだったら二回鳴いてくれ。わかったか?」
「キャン」
「俺の言ってる意味がわかるのか?」
「キャン」
「お前は本当にオフィーリアなのか?」
「キャン」
「ああ、オフィーリア、会いたかった。 夢にまで見たオフィーリアに、こうして会えるなんて!」
オスカーはオフィーリアをぎゅっと抱きしめる。
「お前を、否、あなたを抱きしめることができて、俺は幸せだ!」
「コホン、お坊ちゃま、そろそろ王城へ行く時間でございます。」
オスカーの顔が一気に冷酷な顔に変わる。
「セバスチャン、いつからそこに。」
「ああ、オフィーリア、会いたかった、からでございます。」
「・・・そうか、では、今日もオフィーリアを頼む。くれぐれも粗相のないように。」
「はい。かしこまりましてございます。」
オスカーはそそくさと着替えて、部屋から出る前にベッドの上のオフィーリアに向かって言った。
「オフィーリア、話の続きは、俺が帰ってからにしよう。」
オスカーが出て行った後、セバスチャンはオフィーリアを抱き上げて呟いた。
「お坊ちゃまは、あの方のことをお慕いするあまりに、とうとう気がふれてしまわれたようだ。はぁ。」
「クーン(違うのよ。)」
「しかし、あのように幸せそうなお坊ちゃまを見たのは、いったい何年振りでしょうか。オフィーリア様、どうかこれからもよろしくお願いしますね。」
セバスチャンはオフィーリアの頭を優しくなでた。
朝食は、昨日生肉を食べなかったからか、焼いた肉が出た。
さすがセバスチャンだわ。私の好みをわかってくれている。
オフィーリアは喜んで食べた。
「次は散歩に行きましょう。」
セバスチャンはオフィーリアを庭に連れて行き、自由にさせた。
昨日は緊張していたオフィーリアも、二回目となると、心に余裕ができ、あちこちを見ながら歩く。
大きな木は、木陰を作り、その下を歩くと涼しくて気持ちがいい。
庭師の手入れが、行き届いているようで、雑草は抜かれ、色とりどりの花が咲いている。
オフィーリアが、赤い花に鼻を近づけクンクンと嗅いでみると、甘い香りが鼻をくすぐる。
セバスチャンは、そんなオフィーリアを少し離れた場所から大事そうに眺めている。
オフィーリアの鼻の先に蝶々が飛んできてひらひらと舞った。
なんだか楽しい!
オフィーリアは蝶々を追いかけた。
十八歳の乙女なら、きっと追いかけることはしなかっただろう。
子犬になって犬の本能が目覚めたのか、動くものを追うのが楽しい。
ちょうどその時、
「執事様、この件はどうしましょうか?」
使用人がセバスチャンに声を掛け、ほんのわずかの間だが、オフィーリアから目を離してしまった。
オフィーリアは蝶々を追いかけ、いつの間にか侯爵邸の敷地外へと出てしまったのだが、セバスチャンは気づかない。
通りに出てしまったオフィーリアは、それでもまだ蝶々を追い続ける。
オフィーリアに馬車が迫っているのも知らずに・・・。
地響きに、やっと気がついたオフィーリアは、目の前に迫る大きな馬を見て、逃げれば良いのに足がすくんで動けない。
「危ない!」
走って来た誰かがオフィーリアを抱き上げ、救った。
「ふー。危ないじゃないか。」
オフィーリアを救った男は、茶色いローブをまといフードを深く被っているので、服装も髪形もわからない。
だが、フードからはみ出た茶色い髪と、少ししわのある顔から、オフィーリアには、この男が若者というよりもおじさんに見えた。
「クーンクン(ごめんなさい。助けてくれてありがとう。)」
オフィーリアはすぐに離してくれると思ったのだが、男はオフィーリアを自分の懐に入れて、濃い茶色の目を細めて笑顔で話しかける。
「可愛い子犬だな。野良にしてはきれいだ。首輪をしていないところを見ると、もしかして捨てられたのか? お腹がすいてるだろう? 食い物をやるよ。」
いえいえいえ、私は侯爵邸に帰りたいのよ。
オフィーリアは男の懐から出ようともがいたが、頭を押さえられて、出ることができない。
「こんな高い所から飛び降りたら、足の骨を折っちまうぞ。しばらく我慢しろ。」
しかたなく、オフィーリアはちょこんと顔だけ出して、迷わず侯爵邸に帰れるように、目印になるものを覚えながら運ばれることにした。
男は、懐に入っているオフィーリアを、時々なでては可愛いなと話しかけながら家に向かう。
着いた男の家は、古びた二階建てのアパートの二階の一番端の部屋だ。
男が部屋の鍵を出すときに、オフィーリアを床に降ろしたので、その隙に逃げ出すことができた。
鍵を開けた男が足元を見ると、既にオフィーリアは消えている。
「あれ? 逃げたのか? せっかくミルクでも飲ませようと思ったのに・・・。」
オフィーリアは、ここに連れて来られるまでの目印を覚えていたので、迷うことなく侯爵邸に帰ることができた。
それにしても、優しい人で良かった。あの人、きっと犬が好きなのね。
たった、これだけの出会いであったが、この後、この男がオフィーリアに深く関わることになろうとは、このときは、知る由もない。
侯爵邸に近づくと、セバスチャンがロマンスグレーの髪を振り乱し、オフィーリア目掛けて走って来た。
「オフィーリア様―。良かった無事だったのですね。もう、わたしは 生きた心地がしませんでした。本当に良かった。」
セバスチャンはオフィーリアを抱き締めて、緑の瞳で涙を零しながら、喜びの声を上げた。
「クーンクーン(セバスチャン、ごめんなさい。)」
母が死んでから、こんなにも私のことを心配して、涙を流してくれた人はいなかったのではないかしら・・・。
そう思うオフィーリアの目にも、涙が浮かぶのだった。
オスカーの勤務は今日も多忙だ。
若い騎士の指導、近衛騎士団の訓練、王太子セオドアの護衛と休む間もなく仕事が詰まっている。
今朝は昨日の続きで訓練場にいるが、寡黙なオスカーの顔が昨日よりも厳しくなっている。
騎士たちは昨日との違いを敏感に感じ、緊張しながら訓練を続けていた。
子犬がオフィーリアだということは分かった。
それは喜ばしいことだ。
だが、何故子犬に戻ったんだ?
俺が何かしたのか?
俺が悪いのか?
騎士たちの訓練を黙視しながら厳しい顔で思い悩むオスカーの周りには、暗黒のオーラが漂っているようだ。
これぞ魔王の再臨か・・・?
訓練を続けている騎士たちは、ちらりとオスカーを見る度に緊張が高まっていた。
「あ、あの・・・侯爵閣下。」
「何だ?」
恐る恐る声をかけてきた若い騎士は、オスカーの鋭い眼差しにヒッと息を飲んだ。
「つっ、次は何をすればよろしいでしょうか。」
「そうだな。」
今、オフィーリアのことで悩んでいてもしかたがない。
すべては彼女に会ってからだ。
オスカーは、騎士たちに視線を向けるが、彼らを見る目は相変わらず厳しい。
「次は対戦訓練だ。俺と順番に勝負する。待機中の者はペアを組んで対戦。もし、少しでも気の緩んだ動きをすれば、容赦はしない。」
ギロリと睨みながら話すオスカーに、「ヒーッ!!」と騎士たちは心の悲鳴を上げる。
この日の訓練が終わった後、訓練場に立っている者はオスカー以外に誰もいなかった。
夜になると、オスカーが帰って来た。
オフィーリアはオスカーを待っていたのだが、昼間の疲れがひどく、いつの間にか眠ってしまったようだ。
オスカーは、一刻も早くオフィーリアに逢いたくて、近衛騎士団の青い制服のまま寝室に向かったのだが、残念ながらオフィーリアは眠っている。
オスカーは、ベッドの足元のクッションの上で、安らかな寝息を立てているオフィーリアの頭を優しく撫でることで我慢することにした。
「オフィーリア。眠っているんだね。ああ、もう一度、あなたに会いたい・・・。」
オフィーリアは、温かく大きな手で頭を撫でられる気持ち良さに目が覚めた。
ああ、オスカー様が戻ってきたのね。
ぱちりと目を開けると、目の前に口をあんぐり開けて驚いているオスカーがいる。
だが、オスカーはくるりと背を向けて、慌てて叫んだ。
「見てない、俺は何も見てないぞ! 本当に何も見てないから!」
「えっ?」
オフィーリアが自分の身体を見ると、また人間の姿に戻っている。
子犬のときに服など来ていないから、もちろん裸だ。
「え、え、ええ? どうして?」
裸の姿は恥ずかしいが、オスカーが背中を向けてくれているのでほっとする。
「オフィーリア、ひとまずこれを着て欲しい。」
オスカーは制服の上着を脱ぐと、後ろ向きのままオフィーリアに渡した。
「あ、ありがとうございます。」
服を着終えたと言われたオスカーは、やっとのことでオフィーリアに対面したが、ぶかぶかの制服はオフィーリアの身体を太ももまですっぽりと包んでいるのに、はみ出した白い足が何とも艶めかしい。
真っ赤になりながら、できるだけオフィーリアを直視しないように話しかける。
「あなたと話したいことがたくさんあるのだが、とりあえず、きちんとした服を着た方がいいようだ。でないと俺がもたない。」
オスカーは、今は使われていない母親の部屋にオフィーリアを案内することにした。
部屋に入ると、きれいに整頓されてはいるが、うっすらと埃がたまっている。
通いの家政婦が掃除をしてくれているのだが、使っていない部屋を隅々まできれいにするとはいかないようだ。
「母親のお古で申し訳ないのだが、この家には女ものの服はこれしかないんだ。あなたが気に入ってくれれば良いのだが・・・。」
「いえ、気を遣っていただいて、申し訳なく思っています。ところで、オスカー様、子犬のときはお前と呼んでいたのに、今はあなたと呼んでくださるのですね。」
「ああ、その・・・、子犬と同じでは失礼かと思って・・・。」
「私はどちらでも良いのですよ。ただ、何となく、あなたと呼ばれた時に、寂しく思ったような気がして・・・」
お前は本当に可愛いな。
オスカーが子犬のオフィーリアに言った言葉を思い出す。
愛情にあふれた一言だったと思う。
「俺は男社会の中で育ったせいか、女性に対してどう接して良いのかわからない。きっと無意識に乱暴な言葉遣いをしてしまうと思う。それでもいいのか?」
「はい。オスカー様が一番話しやすいように話してくださいませ。気を遣っていただくと、かえって恐縮いたします。」
どんなに丁寧であっても、冷たい言葉を浴びてきたオフィーリアにとって、オスカーの言葉は少々乱暴でも、温かく感じられるものだった。
「では、失礼してお母上様の服を拝見させていただきますね。」
オフィーリアが、ガチャリとクローゼットの扉を開けると・・・
「キャ―――――ン(キャ――――!)」
一瞬にして子犬の姿になってしまった。
「オ、オフィーリア!」
オスカーの上着の隙間からもふもふの子犬が顔を出し、申し訳なさそうにクーンと鳴く。
何事が起ったのかと思ってクローゼットの中を覗くと、大きな蜘蛛が糸を垂れてぶら下がっていた。
「・・・もしかして・・・これか?」
オスカーは昨夜と同じようにベッドで胡坐をかいて、その中にオフィーリア入れた。
お互いに見つめ合う顔は、真剣そのものだ。
「オフィーリア、話をしよう。」
「キャン」
「返事は、イエスは一回、ノーは二回、これも覚えているね。」
「キャン」
「それから、お前が言ってくれたように、これからは子犬と人間の区別はなしにする。少々乱暴に聞こえるだろうが、我慢してくれ。」
「キャン」
「俺はこの目ではっきり見たんだ。眠っているときは、何も変化はなかったのに、お前の目が開いた瞬間に子犬から人間の姿に変わった。お前もそれはわかっているだろう?」
「キャン(そう。目が覚めたら人間に戻っていたわ。)」
「だが、俺が布団をめくったり、目の前に蜘蛛が現れたら子犬に戻ってしまった。」
「キャン(確かに。)」
「だから、思うんだが・・・、何かすごく恥ずかしいことや嫌なものが目の前に現れて、何らかの激しい拒否反応が起こると、子犬の姿になるんじゃないか? お前もそう思わないか?」
オフィーリアは思い出す。
今朝、裸の自分を見られたくない、嫌だと強く思った瞬間に子犬の姿に変化した。
さっきもそうだ、大嫌いな蜘蛛を見たとたん、一瞬で子犬の姿に変わってしまった。
「キャン」
「やっぱりそうか。お前もそう思うんだな。つまりだ。眠った後に目を開けると人間に戻り、拒否反応が起こると子犬になるということだ。」
「クーン(なるほど)」
「それで実験をしようと思う。今からお前は眠るんだ。だが、目を覚ました時に裸では今朝と同じだ。だから、これを用意してきた。」
オスカーが出してきたのはネグリジェだ。
ふわりと柔らかい布でできており、見ただけで上質な品だとわかる。
「これは母上が着ていた寝着だ。さっきも話したが、この家には母上以外の女ものの服がなくてな。すまんが、まずこれで試して欲しい。これなら締め付けることもなく、手足が伸びても邪魔にはならないだろう。」
「キャン」
「わかってくれたか。では、もうお休み。」
そう言うと、オスカーは、オフィーリアの顔が出るようにしてネグリジェの中に入れた。
オフィーリアは、自分がどうなるのかわからずドキドキしてなかなか寝付けなかったが、元来子犬というものはよく眠る。
いつの間にか深い眠りについていた。
ドキドキしているのは、オスカーも同じだ。
今朝の衝撃が忘れられない。
目の前に、一糸まとわぬ裸のオフィーリアがいた。
今も胸に残る柔らかい感触、そしてその残像がチカチカと目に浮かぶ。
オスカーは横にならずに、隣で眠るオフィーリアをずっと見守っている。
ああ、俺の可愛いオフィーリア、朝まで待つと、話す時間が短くなる。
だから、ごめんよ。時間をかけて話すために、夜中にお前を起こすよ。
オスカーは、完全にオフィーリアが眠ってから1時間後に声を掛けた。
「オフィーリア、オフィーリア、もう目を覚まして。」
オフィーリアが目を開けた。
すると手足が伸び、一瞬で人間の姿になった。
オスカーの目の前で、十八歳の若き乙女の裸体が現れたのだ。
だが、ネグリジェを着ているので、今回は裸ではない。
「オスカー様、私、人間になれたのですね。」
オフィーリアは、寝着を着ている安心感から無防備にむくりと起き上がる。
オフィーリアの若く張りのある乳房の形と、ぽつんと突き出た乳首の位置が、柔らかいネグリジェの布を通してはっきりとわかり、なんとも艶めかしくて色っぽい。
オスカーは目のやり場に困りながらも、見ていたい欲望に負けてオフィーリアの身体から目をそらせられない。
しかし、このまま見続けていたら、拒否反応が起こって、子犬に戻ってしまうかも・・・。
オスカーは興奮し、自分の顔が赤くなっていることが、鏡を見なくてもわかった。
鎮まれ俺。
このままでは鼻血が出てしまいそうだ。
ああ、俺はどうすればいいんだ?