08 火
「それで、すごすご逃げ帰ってきたわけか」
ガーネッツは彫像のような冷たい表情を浮かべていた。
目の前には倒れ込むように平伏しているオイゲンの姿があった。
「申し訳ございません! ですが閣下! わたしの的確な判断により、何とか被害を最小限にして撤退することができたのです! 普通なら全滅するところでした!」
オイゲンはその身を球体のように丸めつつも、自分の判断を自画自賛した。実際は彼の弟子たちと現場の指揮官である将校が協力して、何とか撤退することに成功しただけである。オイゲンは茫然自失となっていて、ほとんど役には立っていない。
そして、逃げることができたとはいえ、部隊には甚大な被害が出ている。
「もう一度、もう一度、わたくしめにチャンスを! まさかユーリとムラクモがいるとは思いもよらず、準備が足りなかっただけです! 次こそは必ずや姫を奪還してみせます!」
ガーネッツは半ば感心していた。2度も失敗しておいて、この男はまだやる気でいるのだ。身体だけでなく神経もとんでもなく太い。
「不要だ、オイゲン。もう、おまえの出る幕ではない」
「いやしかし!」
オイゲンが勢いよく頭を上げた。汗だくで必死の形相をしていた。実際に汗が執務室の床に滴っている。
それを見てガーネッツは「後で誰かに床の掃除をさせよう」と考えた。
「恐れながら、閣下! 閣下の配下でこの大役を務められるものは、わたしを除いて他に誰もいますまい!」
それもまた事実であった。ガーネッツの配下である程度の実力と地位を兼ね備えた者は少ない。ガーネッツも好きでオイゲンを使っているわけではなく、単に人材が不足しているだけなのだ。
(まったく人望が無いものだ)
帝国の宰相は自嘲した。
「いや、おまえ以外にもその大役を務められる者がいるだろう?」
「わたし以外に? いやそんな人間は……まさか、黒騎士卿で!? しかし、黒騎士卿は北の国ハイランドと戦争中で、そうそう持ち場を離れられないのでは?」
「ハイランドの王都は陥落したよ。さっき連絡がきた」
「まさか! あの城塞都市が!?」
北の国ハイランドの王都は難攻不落で知られており、歴史上一度も攻め落とされたことがなかった。
そのため、帝国軍も攻略するのに手をこまねいていたのだ。
「かなり強引に攻め落としたそうだ。おかげでハイランドの王都は酷い有様らしい。それにせっかく勝ったというのに、黒騎士は直属の部隊を率いて、すぐに盗賊たちのいる山岳地帯に向かったそうだ。まったく働き者だよ」
おまえと違ってな、と言わんばかりの視線をガーネッツは目の前の魔導士に向けた。
オイゲンはまた平伏し、その汗で再び床を濡らした。
──
「この間の帝国の連中の顔ったらなかったな」
クロードは昼食から酒を飲んでご機嫌だった。
先日、オイゲン率いる帝国軍が砦まで迫ったものの、結界に翻弄されて疲労困憊となったところを逆に襲撃して蹴散らすことに成功したからだ。
そのどさくさに紛れて、戦利品として大量の銃を強奪することにクロードは成功している。帝国製の銃は需要が高いので、ラクシュがさぞかし良い値段で引き取ってくれるはずだった。
「でも、すぐにまた帝国の人たちがやってくるのではないですか?」
スープを口にしながら、エマは不安そうな表情を浮かべていた。彼女は砦に籠っていたので、クロードたちがどのように帝国軍を追い返したか見ていない。
「大丈夫だ、エマ。あの程度の連中、いくらやってこようが剣の錆にしてくれる」
ムラクモが口の端を上げて不敵な笑みを浮かべた。気持ちよく帝国の兵士たちを倒したことで、自分の剣にさらに自信をつけたのだろう。
「オイゲンやその弟子たちにも破れない強力な結界を張りなおしたから、もう近寄ることもできないよ。今度やってきたら野垂れ死ぬかもね。そもそも、この山と森自体がかなりの難所でね、僕はそれに少し魔法を付け足すだけで十分なんだ」
ユーリがパンを口に運びながら淡々と告げた。オイゲンたちに結界を突破されたことが内心悔しかったので、今張ってある結界はかなり強力なものになっている。
「そういうことだよ、エマ。そんなに心配する必要はないさ。帝国なんか大したことはない。あの太った魔導士の逃げる姿なんて傑作だったぜ?」
酒を瓶から直接飲んで、クロードは大笑いした。
慌てふためいて逃げるオイゲンのことを思い出し、それが面白くて仕方ないのだ。
と、そこでクロードが鼻をかぐ仕草を見せた。
「……なんか焦げ臭くないか?」
「鍋に火でもかけっぱなしにしたんじゃないのか?」
ムラクモが調理場のほうに目をやった。
「いえ、火は確かに消しましたよ?」
言いかけて、エマはふと外の景色に目をやり、その異変に気付いた。
「外で煙が上がっています!」
クロードとムラクモが慌てて窓に駆け寄った。
普段は森しか見えない景色が一面火の海に変わっていた。
山々を覆っていた森が劫火に蝕まれ、砦にまで迫ろうとしている。
「山火事!? いやこれはまさか……」
ムラクモが唸った。
「……帝国軍だ。連中が森に火を放っている」
目を閉じ、身体から呪文の文様を浮かび上がらせていたユーリが呟いた。魔法で外の状況を確認しているのだろう。
「何で気付かなかった、ユーリ!」
クロードが声を荒げた。
「連中は結界のはるか外に陣取っている。僕の結界は人の出入りにしか反応しない」
「使えない魔法だな!」
吐き捨てるように言ったクロードに、ユーリは眉間に皺を寄せてにらんだ。
「そんなことを言っている場合じゃありません! 早くここから逃げないと!」
エマが半分悲鳴のような声を上げる。
「無駄だよ。もう周囲は火に囲まれている。逃げ場はない」
ユーリがつまらなそうに答えた。
「じゃあ、わたしたちはみんなお昼の豚肉みたいに、焼かれちゃうんですか!?」
エマはテーブルの上の豚肉料理を指さした。
「僕は大賢者だよ? この程度の火なんて簡単に防げるさ」
自信に満ちあふれたユーリの言葉に、エマは胸を撫で下ろす。
「ただ……」
ユーリが視線を外に向けた。
「森が無くなっちゃったら、結界によって砦を隠すことはもうできない」
──
帝国の兵士たちは自分たちのしたことに恐れおののいていた。
森に油を撒き、風上から火を放ったものの、その炎は予想以上のものだった。
炎が巨大な動物のようにうねり、次々と山や森をのみ込んでいく。
(この火は本当に消えるのだろうか? 世界を焼き尽くしてしまわないか?)
そんな恐怖に囚われている兵士たちもいる。
ただその中にあって、黒騎士とその直属の4人の部下たちは動じていなかった。
黒騎士の部下たちは、主と同じように黒い鎧に身を包んでおり、時代遅れの騎士のようにも見える。
彼らは皆一様に体格が大きく、言葉を発するのを誰も聞いたことが無い。戦場においてはただ敵を狩り続ける存在であり、敵味方から『死神』と呼ばれて恐れられている。
黒騎士はじっと炎を見つめていた。
炎がすべてを焦土に変えていくのを、微動だにせず見つめていた。
どれくらいの時間が流れた後だろうか。兵士のひとりが報告に来た。
「黒騎士様! 目標の砦が視認できるようになりました!」
そこは山をも呑み込む炎が綺麗に避けている場所だった。
まるで見えざる壁にでも阻まれているように。
ただ、望遠鏡から確認したその場所には、はっきりと古い砦の姿が見えた。
「砲撃の用意をしろ」
黒騎士は淡々と告げた。
「宜しいので? 目的の姫もそこにいるのでは?」
かたわらに控えていた将校が進言した。
「かまわん。砦が跡形も無くなるまで撃て」
その言葉と共に、黒騎士の背後から馬に引かれた何十台という黒い金属でできた巨大な筒──大砲が姿を現し、砦に向かって進み始めた。