31 約束
「おかげで準備は整った」
ガーネッツは倒れた黒騎士に視線を落とした。最後の同志を失ったその目には、言い知れぬ深い何かが感じられる。
「わたしがやるべきことはもうない。後は時間を経つのを待つだけだ。ただ、機械は繊細なものでね。ちょっとしたことでダメになるかもしれないから、儀式が終わるまで君には邪魔しないでもらいたい」
クロードに静かに語りかけるガーネッツ。だが、獣と化した盗賊はそれを拒絶した。
「あいにくと俺は盗賊なんだ。世界の平和になんざ興味はない」
「本当かね?」
ガーネッツは覗き込むように人狼の目をじっと見つめる。
「クロード君。君は人狼だ。であれば、君の人生は容易なものではなかったはずだ。長年続いた人狼狩りも経験しただろう? 君はあんな人の愚かさを許せるのか? そんな世界を受け入れられるのか? 人狼はバケモノではない。人と何も変わらないものだ。違うか?」
「……おまえに何がわかる」
血がにじむほどにクロードが歯をくいしばった。ガーネッツは正しい。しかし、その正しさを受け入れたくはなかった。
「わかるさ。わたしは同胞だからね」
そう言うとガーネッツは纏っていた服を放った。それがゆっくりと宙に舞っている間に、彼の身体は武骨に隆起し、クロードと同じように全身から毛が伸び始める。そして口から牙がのぞき、指には鋭い爪が生えた。
「貴様も人狼であったか!」
驚くジークフリートに対し、クロードの動揺は少ない。
「飛空艇で見たときは少し匂った程度だったから確信は持てなかったが、やっぱりそうだったのかよ。帝国の宰相にまでのぼりつめるとは、上手くやったものだな。それで今度は人を救ってみせる? 強欲な人狼もいたものだぜ」
「欲しい物を欲しがって何が悪い。それも獣の性とは思わんかね? もっとも獣とは人間を含めてのことだがな」
ガーネッツは獣と化した口から低く長い唸り声を発した。ようやく本来の姿に戻れたことに喜びを感じているかのように。
「そこだけは同意しておくぜ? 俺は盗賊だ。欲しいものは奪うだけさ」
肩の傷の痛みをかき消すようにクロードは大きく吠えてから、飛びかかった。
ほぼ同時にガーネッツも跳ぶ。それも牙をむき出しにした頭から突っ込んだ。
それは人の戦いではなかった。爪と牙でお互いを削り合う狼の争いである。技も無ければ身を護ろうともしなかった。
怪我の分、クロードのほうが動きは鈍いが、雷の腕輪のおかげで攻撃力は高い。それで何とか渡り合えている。
「姫君はおまえには関係ないだろう!」
ガーネッツがクロードの顔を強烈に殴打した。
「関係ある!」
殴られながらもクロードが相手の腹に蹴りを入れた。
「数週間程度の短い付き合いだろうが!」
ガーネッツの鋭い爪がクロードの胸を斬り裂いた。
「それだけじゃねぇ!」
傷にかまわず、クロードは相手の顔を殴り、さらに蹴りを入れた。
「俺はエマの母親に命を助けられた! その借りがある!」
──
いてぇいてぇ。
身体中がいてぇ。この感覚はずいぶん久しぶりじゃねぇかと顔が歪む。
ガキの頃はこんなことは珍しくなかった。追い回されて狙われて、散々な目にあったもんだ。
まったく嫌になる。こんなはずじゃなかった。俺はもっと悪党になるはずだったんだ。
奪われる側から奪う側に回って、好き勝手して生きていくはずだったのに……
最初は仕方なく、だった。人狼だ、ってことだけで差別された。生きていく場所なんてどこにもなかった。
食う物がないから盗んだ。殴られたから殴り返した。殺されそうになったから殺した。
ただ、それは自分が思っていたよりも上手くやれた。
だから、自分は天性の悪党じゃないかと思った。
割り切って盗賊になったら、自分を悩ませていたものが何もなくなった。
欲しかったら奪えばいい。腹が立ったら殴ればいい。簡単だ。
とたんに人生が上手く回り始めた。飢えることがなくなり、欲しいものが手に入り、望めば何だって叶うような気がした。
それで──調子に乗った。
商人の店から品物を盗むようになって、貴族の館から金目のものを奪うようになって、とうとう王様の城にまで手をつけた。
あれはいけなかった。城には騎士やら魔法使いやら、街では滅多に見かけないような手ごわい連中がいっぱいいたのだ。
魔法使いの張っていた結界とやらに引っかかって見つかって、やたらと素早い騎士たちに追われた。
連中に容赦なんかなかった。魔法を撃たれ、剣で斬りつけられた。
当然だ。俺は盗賊で悪党なんだから。
殺されて当然なんだ。思えば俺はそういうものになりたかった。殺されて当然のものに。
だって、まっとうで殴られたら腹が立つじゃねぇか。まっとうで殺されたら悔しいじゃねぇか。
だからこれで良いと思った。何もしないで殺されるよりかは、何かをして殺されたほうが良い。
ただ──やっぱり死ぬのは怖かった。
命からがら逃げ延びた。死ぬつもりで盗賊を始めて、いざとなったら怖くなる。我ながら生き汚いことだ。呆れちまう。
けれど、傷は思ったより深くて、結局俺は逃げ込んだ森の中でくたばりかけた。
(あぁ、死ぬんだな……)
そう思うと自分が死体になった後のことが気になった。見つかって晒し者にされちまうのが嫌だった。
身体を引きずって、水の匂いがするほうへと向かった。川に飛び込んじまえば、誰にも見つかることはないはずだと思って。
そこにあいつはいた。
赤茶色の短めの髪の翠眼の女。
水を汲んでいたのか、洗濯でもしていたのか、細かいことは覚えていない。
ただ、「終わった」と思った。人を呼ばれて袋叩きにされる未来しか見えなかった。
ところが俺を見つけたあいつがかけてきた言葉は
「水、飲む?」
だった。
言われて気付いた。確かに水が飲みたかった。川に沈んで死のうと思ったのも、水がたらふく飲みたかったからかもしれない。
ぼんやりと俺は頷いた。
「ちょっと待っててね」
女はそう言うと、近くにあった小屋みたいなところに走っていった。
ボロい小屋だ。まさかとは思うが、あの女はあそこに住んでるんじゃないだろうな?
そんなことを薄れていく意識の中で考えていると、女が水の入った木の器をもって飛び出してきて、それを俺の口に押し付けるようにして飲ませた。
──うまい──
それだけを覚えている。
次に俺が目を覚ましたときは、身体を布でぐるぐる巻きにくるまれていた。
(捕らえられているのか?)
と疑うくらい入念にくるまれていた。
俺が目を覚ましたことに女は目ざとく気付いた。
「良かった。身体中傷だらけだったから、薬を全身に塗って布で巻いておいたの。結構傷が深かったから、薬が効くかどうか不安だったけど大丈夫だったみたい」
女は朗らかに笑っていた。
何だ? 何でこの女は俺を助けたんだ? 俺が誰だかわかっていないのか?
何でそんな笑顔を俺に向ける? 俺はそんな人間の顔なんて見たことがなかった。
俺は殴られたら殴り返した。殺されそうになったら殺した。
でも優しくされたことなんかなかった。こういうとき、俺はどうしたらいいのかわからなかった。
だから、そんな気持ちを正直に話した。
「じゃあ、1回だけで良いから人間に親切にしてあげて? 1回で良いからさ。1回に親切を受けたら1回返す。そんな風に世界が回っていったら素敵じゃない? 生まれてくるこの子のために、少しでも良い世界にしたいのよ」
女は腹をさすって、そんなことを言った。
20年近く前のことだ。そんな約束、すっかり忘れていたんだ。エマに会うまでは。
見た瞬間、すぐにわかった。エマはあいつの娘だと。
例えそうじゃなかったとしても、俺は約束を果たさなければならないと。




