第十話「勝負」
店を出て沖元と別れた塁はまず、コンビニで傘を買った。そして電車に乗って数十分、新宿区の右下に位置する四谷に来た。新宿区とだけあり、全体的に高めの建物が多い。きっとビルだろう。家賃はどんなものなのだろうか。やはり十万は超えてしまうのだろう。よく萩口はこんな場所に住めるものだ。
レレラに教えてもらった住所をグーグルマップに打ち込んで歩く。塁は方向音痴ではないため、数十分歩けばマップが指し示すアパートへと辿り着いた。
「あってる……はず……だよね」
ここまで来て間違っているのでは無いかと心配になる。念のためにと住所を入れ直して再び検索して、間違いが無いのか確認をした。どうやらここで間違いがないようだ。
号室は一〇二と書かれていたので、同じ番号が書かれた扉の前まで移動する。残念ながら標識には名前が書いていなく、萩口なのか判断は出来ない。
どうする?
本当に合っているのか?
間違っていたら大恥を掻くんじゃないか?
確認しようにも覚悟を決めて突撃しようにも、インターホンを鳴らす以外方法は無い。分かっている、分かっているのに塁は押せず、そのまま十分くらい経ってしまった。
アパート前の廊下の往復に慣れる。冷静に考えてみれば扉の前でうろうろしている不審者だが、止まっていても不審者に変わりない。
歩き疲れ、一〇二の扉の横の壁に寄り掛かる塁。
「……はぁ……なんでここまで来たのに」
自分でも珍しいと思えるくらい、能動的に動けていた。計画のおかげで、自分は変わり始めたのだと思ってしまった。
けど蓋を開けてみれば、これだ。
結局いつも通り肝心なところで動けなくなる。自分の意思だっていうのに。
ラップも、きっとこうなってしまうの――
「おい、お前誰だ?」
「ッ!?」
塁は呼ばれて、項垂れて居た顔を咄嗟に上げる。
目の前に居たのは、傘を差して袋を持った、見たことのある顔。
「……萩口?」
「意外と整理されてるんだな」
「うるせぇ。チッ……なんでこんなことに」
帰り道の萩口に遭遇したおかげで、中に入ることに成功した塁。
萩口の部屋はというと、一部屋で廊下部分にキッチンがあり、反対側にトイレや風呂場があるという、標準的な間取りだ。物は塁の部屋同様少なく、棚にはHIPHOPのCDが置かれていた。
部屋の真ん中に置かれた机を中心に、相対する形で床に座る塁と萩口の二人。
「HIPHOP好きなのか?」
「別に。元々聞いていただけだ」
座ったにも関わらず、即座に萩口は立ち上がる。冷蔵庫に向かったと思えば、ペットボトルを塁目掛けて投擲してきた。
「おっと、と」
塁はペットボトル綺麗にキャッチする。嫌がらせではない。彼なりの歓迎だろう。
「ありがとう」
「本井、だったか。関わるなって言ったよな?」
「そう、だっけ」
「はあ? まあいい。事情を話せ。ここまで来た理由と住所を知っている訳だ。答えない限り返さねぇぞ?」
閉鎖された空間に二人きりでの脅しと、普通ならビビってしまいそうだが、塁の萩口に対する印象の中で、恐怖の感情は消えていた。だが抱き続けている感情は理解出来ていなかった。
「お見舞い」
「は?」
「だからお見舞いに来た」
「お前が? 何で」
「それは……気になったから」
「意味わかんね……というかお見舞いされるべきなのはそっちだろ。人の家の前で頭下げて捨てられた子犬みたいにしてやがって」
耳が痛いと、気持ち蹲る塁。萩口は顰め面で頭を押さえる。
「本当になんだよこの状態は……」
「……それで、体調の方は大丈夫?」
「別に問題ねぇよ。次の日から行けるくらいには戻した」
「そう……ならいいけど」
「……本当にお見舞いに来たのか?」
「え、うん……」
「なんだよお前……まあいい。用は済んだんだろ。さっさと帰れ。住所を知っている理由はもういい。さっさ帰れ」
まだ困惑したままの萩口。だが塁を帰らせるという選択肢しかないようだ。それも住所の問題を捨ててまで。
しかし塁は帰れない。帰りたくない。
これじゃあ何も変わっていない。変わっていなくて落ち込んだとしても、彼と仲良くなりたいという気持ちは依然に持っていた。
「……まだ用事はある」
と、塁はレポート用紙を萩口に渡す。
「ん? レポート?」
「課題。昔と今のラップの違いを纏めてレポートにかけって」
「レポートかよ……めんどくせーな……礼は言っておく」
レポート用紙を放り投げ、萩口は腕を頭の後ろで壁に寄り掛かる。
気まずいようで何とも言えない空気に、塁は口を開く。
「萩口」
「なんだ」
「前より優しくなったか? お前」
「あ? 何言ってんだお前」
「いや純粋にそんな気がする」
「お前が馬鹿だから勝手にそう思っているだけだろ」
「……やっぱり体調まだ悪いんじゃないか?」
「ば、馬鹿言うな! 俺は平気だっ」
とは言いつつも、手をあちらこちらに振り回して否定しようとしている萩口。冗談多めで言ったつもりだったが、結構真面目にまだ隊長悪いんじゃないのだろうか。
「チッ……おい、これで最後だ。二度と俺に関わるな」
「……嫌」
「は? いい加減にしろ。こっちがお前と関わるのが嫌だって言っているんだ」
知っている。けど、それじゃあ来た意味がない。
沖元さんは仲良くなりたいのでは、と言っていた。未だにそうなのかは自覚出来ないが、受け入れてしまうのが悪手だというのははっきり分かる。
だが、どうすればいい?
考える。この場を打開出来て、尚且つ仲良くなるための架け橋となる提案を。
……ああもうやっぱり出てこない。なんて何も思いつかないのか。頭叩けばアイデアが出てきてくれるのか?
塁はふと思い出す。ついさっき見てしまった、喧嘩する男女の姿を。
喧嘩、そうだ。
喧嘩、だ。
「だったら……」
力じゃない。声の喧嘩を。
「僕と勝負しないか?」
「……狂ったか」
嫌味を言う萩口を無視し、塁は提案を続ける。
「今度の、試験。どっちが上手いか競おう。そして負けた方が勝った側の言うことを一つ聞くっていう話だ」
本当は競いたいとは思えない。ラップの実力も、努力も負けている。下馬評があったのなら、僕の倍率は凄い高くなりそうだ。
だがこうでもしないと萩口は乗ってこないだろう。彼が提案に乗らなきゃいけない理由なんて一つもないのだから。
萩口はペットボトルを口に付ける。半分以上あった中身を一気飲みし、空になったペットボトルを玄関の方へと投げた。そして彼は鋭い目つきで、塁に向き直る。
「――いいだろう。俺が勝ったら二度と俺に話しかけるなよ」
手足の先が震える。きっと体も喜んでいるんだろう。まるで中毒者みたいだ。
もう後には引けない。
なに、簡単な話だ。勝てばいい。
「僕が勝ったら今後も関わっていくから」
そう、勝てば、だ。