ナコの物語(4)
「ナコ。どうした。ナコ!」
私はしゃがんで目をつぶっていた。目を開けて立ち上がる。ユタは心配そうな顔をして言う。
「何かあったの?」
私は記憶をたどる。何があったのか。教室を出て、ユタと並んで廊下を歩いていた。すると、窓には、
「巨大な赤い男!何かあったの?じゃないでしょ。巨大で、真っ赤の男!」
「それがどうしたの?」
「普通の人は赤くないし、あんなに大きくもない。」
「普通って何?」
「ねえ、ゼミみたいなことしないで。」
「ゼミ?ごめん。」
ゼミが何だかわかっているんだろうか。ユタは、一応申し訳なさそうな顔をしている。でも「ゼミって何?」と訊かれなくて良かった。
私は別に怒ってはいない。私の住む世界とこの世界ではルールが違う。齟齬があるのは当たり前の話だ。おかしいくらいに大きくて真っ赤の男は、普通ではないしても、突然出てきて驚いたりするようなものではない。そういうルール。
しょぼんとしているユタと一緒に、昇降口まで会話もなく歩く。
上履きを履き替える。下駄箱には大きく『ナコ』と書かれてあったから、ユタに訊くまでもなくわかる。靴までユタとお揃いだ。足首まである茶色の靴。それをすぐに履き替えると、ユタが履き終わる前に私は外に飛び出す。
「うわっ」
思わず目をつぶる。まぶたの裏に空の景色がこびりついている。巨大な赤い男はもういなくなっていた。でもその代わりに、大きなピンク色の蜘蛛がいた。別に虫が怖い女の子アピールをしているわけではない。そういう問題じゃないだろう。これは、腰を抜かして立てなくなってもいいレベルだと思う。でも、私は目をつぶるだけにとどまっている。
後ろからユタが出てくる音がする。私は目をつぶったままユタに尋ねる。
「ユタ。大きくてピンク色の蜘蛛はどう?」
「大きいし、ピンク色な蜘蛛だと思う。」
「そういうこと訊いてるんじゃないの。」
「でも、何をすればいいかはなんとなくわかる。」
そして、少し間があってからユタは言う。
「たぶん目を開けても大丈夫だと思う。」
恐る恐る目を開けると、さっきまでいた蜘蛛が、いなくなっていなかった。
私は再び目をつぶって叫ぶ。
「どういう神経してるの!」
「蜘蛛らしい薄い茶色っぽい色にしたよ。」
「馬鹿じゃないの!」
私はやはり目をつぶったまま怒鳴る。ルールが違うから許される。そんなわけがない。さっきの考えは撤回する。
「じゃあさ。ユタはあの蜘蛛が家の中に出てきても平気なわけ!」
「大きくて入らないよ。」
「なんだお前。」
時間の無駄な気がした。私が今やらないといけないのは、具体的なお願いではないだろうか。それが現状を良くする最善の方法だろう。
「ねえユタ。具体的に言うと、あの蜘蛛を消してほしい。お願いします。」
「わかった。」
次に目を開けたとき、空には何も浮かんでいなかった。ユタは難しい顔をしている。一応謝っておこうか。そんな顔をされたらこちらも気分が良くない。
「ユタごめんね。せっかく蜘蛛をさ、なんと言うか、その、蜘蛛っぽい薄茶色に変えてくれたのに、怒鳴ったりして。」
「いや、わかればいいよ。」
私は拳を固く握りしめて歯を食いしばったけど、すんでのところで衝動を抑え、ゆっくりと力を抜いていくことに成功する。危ないところだった。顔はゆうたに似ているのに、言動は微妙に違う。それは、本当に微妙な違いなのに、こちらに与える印象は大きく変わる。ただ、「ここがこう違う」と指摘することはできない。もどかしい。
私は息を大きく吸い込み、吐き出す。
昇降口の目の前は、学校によくある普通のグラウンドだった。四方は緑色のフェンスで囲まれている。周りには、建物が一つも見えない。高い丘のようなところに位置しているのだろうか。
私はしばらくユタの方は見ずに(お互いのために)左のフェンスのところまで向かう。周りの景色がどうなっているのか気になる。
フェンスの向こうに見えるのは、空だけだ。そこで私は、フェンスに顔を押し付け、できるだけ下を見ようとする。でも、そこにはやっぱり、空があるだけだ。
この学校は空に浮かんでいる?
ユタに後ろから声をかけられる。
「もしかしてさ。ナコじゃないでしょ。」
一瞬返答に困ったが、正直に答えることにする。
「うん。違うみたい。」
「そうだよね。でもそんなことって滅多にない。」
「ここではたまにあるの?」
「あーいや、ごめん。絶対にありえないと思っている。」
「じゃあ最初からそう言って。」
私はユタの方を向く。逆の立場になって考えたとしたら、とここで思う。私がもしユタだったとする。そして、ナコの言動がいつもと違うとする。でも、見た目はどこからどう見てもナコなのだ。そこで私は「ナコではない」という判断をすぐにすることができるだろうか。そしてそれを本人に伝えて、「そうです」と言われたとき、驚かずにいられるだろうか。
私がユタの顔を見ながら考えていると、ユタは言う。
「じゃああなたは誰なの?」
「私は、名前はななこ。でも、誰なんだろう。」
私はこの世界ではどういう存在になるんだろう。いや、なぜこんなことを考えているんだ。ここは私の夢で、この世界は私が作り出したものだ。意識して作ったわけではないにしても。
私は、そのままユタに説明することにする。でも、その前に一つだけ確認をする。
「ユタは、眠る時に夢を見ることはある?」
「あるよ。」
それなら説明は簡単だ。
「私は今夢を見ている状態なの。私はこことは別の世界にいて、夢を見ている。だから、ここは私の夢の中の世界ということになる。」
「そうなんだね。」
ユタはうなずいている。あまりにもものわかりが良すぎる。でも、ユタのものわかりの良さも、私が決めたことなんだろう、きっと。今までこの世界で起きた出来事は、すべて私の夢だ。ということは、すべてが、たとえ無意識であるにせよ、私が全て決めているということになる。大きくて赤い男や、ピンク色の蜘蛛が出てくることでさえも。
「ななこはさ、」
「私は今二十一歳」
「ななこさんはさ、この夢をよく見るんですか?」
「いや、最近から見だすようになった。」
「夢の中で、おれが小さい頃どんな子だったかとかも見ましたか?」
「いや、見てないよ。」
「じゃあおかしいですね。この世界がななこさんの夢だったら、ななこさんが眠っている時にしかこの世界は存在しないはずで。それなのに、この夢は最近見るようになったんですよね。おれは、ずっと前から存在していて、と言っても十年だけど、その間の記憶がちゃんとあるのに。」
「変だね。」
「それと、本物のナコはどこに行っちゃったんですかね?」
「それはわからないけど、私がこの夢から覚めれば、ナコに戻るんだと思う。」
「ならいいんですけど。」
私もユタもしばらく考えを巡らせていた。
そして、しばらくするとユタは言う。
「ななこさん。じゃあそろそろおれは帰リます。」
「え、もういいの?」
「いや、考えてもわかることではなさそうだし。別に、たまにナコがななこさんになっても、おれには特に問題はないです。」
「そんなもんなんだね。」
ユタは、フェンスの角にある扉に向かって歩き出す。私もついていく。
「ここは、IPの効果が働かない区画なんですよ。そう先生に教えられました。フェンスを出たあの空間から使えるようになるはずなんですよ。だから帰るときは、そこで自分の家を想像すればいい。街のどのあたりにあるのかとか、どんな建物なのかとか。見た目はどれも同じだけど。それで、ななこさんはどうするんですか?」
「どうしよう。」
「目覚めることはできないんですか?」
「うん。なんだかできないみたい。」
「そうですか。」
「でも、そうだな。もう少しここにいることにする。」
「わかりました。」
「やっぱり、敬語は気持ち悪いかもしれない。それに、さん付けもしなくていいや。」
「わかったななこ。」
切り替えが早すぎる。自分で言ったことだけど、少しイラっとする。
フェンスの前まで来ると、ユタが扉を手前に開ける。扉は、錆びた金属の軋む音を上げながらゆっくりと開く。IPで直せばいいのにな。
扉の幅は、十人くらいの子どもがに通れるくらいの大きさだ。けっこう大きい。そして、その先には、扉と同じ幅の地面が続いている。奥行きは四、五メートルくらいはあるように見える。
フェンスの外に移動しながら、ユタが扉を閉めてくれる。
「このフェンスを出ると、IPが使える、はず。みんなここに来て帰る。」
私は気になってユタに訊く。
「ねえ、IPって言葉。私が勝手に作ったはずなんだけど。」
「だって、ここはななこの夢の中なんでしょ?」
ユタは当然のように言う。
「いや、なんだか本当にこれは私の夢の中なのか、心配になってきて。」
「それは、そう。」
ユタのこの返答は、どういう意味なんだろう。
私は、もう一つユタに訊く。
「フェンスの中ではIPが使えない、フェンスの外のこの空間では使える、で合ってる?」
「うん。そのはず。でも、さっきおれはグラウンドで空にいた蜘蛛を消すことができた。だから、もう違うんだと思う。ななこがどこまで知っているのかわからないけど。この学校にも当分来れないと思う。もしかしたら、もう二度と来ることもないかもしれない。」
私はその意味について考える。夢なんだから、そういうルールで動いている世界なんだから、それで十分なのかもしれない。でも、脳は勝手に考える。私の意思に反して。
「じゃあそろそろ帰るよ。ななこも気をつけてね。」
「うん。色々ありがとう。」
私がそう言うと、ユタは私に手を振り、一瞬にしていなくなる。私は、しばらく空を眺めたり、フェンス越しに学校を眺めたりしていた。たぶん、この学校は私が通っていた小学校と同じだと思う。どこも小学校は同じ造りをしているようにも思えるけど、教室と廊下、昇降口、グラウンドにある鉄棒やアスレチックの位置など、記憶にあるのと一致している。
頭には、色々な事実が浮かんでは消える。でも、ここでじっとしていても、それらが有効につながってくれることはなさそうだ。目が覚めるまで、この街の様子を見て回ることにしよう。どうせなら、ユタに案内してもらえばよかったかもしれない。でも、もういないから、そんなことを考えても意味はない。
私は、街の中心にある噴水を想像する。そして、何度かまばたきをするだけで、私はもう噴水の前にいる。
噴水の前には、サックスを演奏している二人組の女性がいる。一人は、よく見る大きさのサックスを、もう一人は、とても大きなサックスを首から下げている。どこかのテーマパークで演奏されていそうな楽しい曲だ。周りに、聴いている人は一人もいない。それなのに、二人はにんまりと笑っている。窓の外にいた赤い男と同じ表情だな。
そう思ったときだった。
二人の顔は、なぜか、あの赤い男と同じ顔に変わる。二人ともあの真っ赤な顔に。
にんまりとした顔で私の顔をじっと見つめながら演奏は続く。そして、だんだんこちらに近づいてくる。私は後ずさる。すると二人は、私が後ずさる速度よりも少し速くなる。演奏は続いている。さらに後ろに下がる速度を上げる。でも、このままではたぶん追い付かれる。
二人に背を向ける。そして、早歩きになる。少しして後ろを振り向く。二人はまだ追いかけてくる。演奏はやめない。私は、とうとう走るしかなくなる。もう後ろは振り返らないが、演奏の音でこちらに近づいてくるのがわかる。
音はだんだん大きくなっていく。
どうしようこのままだと追いつかれる。
必死に走りながら、空を見る。そして、思い切り高く飛び上がる想像をする。すると、すぐに体は浮かび上がる。振り返ると、二人は私を見上げたまま演奏を続けている。私はその様子を見ながらどんどん高く上っていく。どうやら二人は、こちらに飛んでくることはなさそうに見える。
しばらくすると、二人の姿は見えなくなる。あの二人は、というか、あの男は、いったい何者なんだろう。そして、もし追いつかれていたら、どうなっていたんだろう。怖かった。