蒲公英
大地の微笑み、太陽の温もり。そんなものから生まれるタンポポが大好きだった。種子が出来るまでの時期は、黄色い浴衣に身を包み、冴え冴えとした目で仲間を見回す。それに飽きたら、砂浜に立てたパラソルから抜け出し、綿毛のチュチュに着替える。行き先に拘らず、追い風と共にどこまでも飛べる。地味な羽織りの下に豪華な衣装を着たタンポポは無邪気で、いつも晴れやかに笑っている。その単純な遊び心が好きだった。かつては。ところが、うちの祖母に「タンポポほど厄介な雑草はないな。どんな退治方法であろうと、無駄だね」と言われると、タンポポは単に可愛らしい野花ではないかもしれない、と薄々でありながらも、その正体が分かった。花壇アレンジと菜園作業が好きな人にとっては手に負えない強敵。「道端にいくら生えても問題にならないし、美しい野草としか思わない。けどよ、好き勝手にうちの庭にまで手を付けちゃ困るんだ。最近の除草剤も全然効かないし。防草シートを買うしかないだろうか」と祖母は草取りをする度に決まり文句を口にする。なるほど、実際に自分でタンポポの草むしりをやってみると、その根の長さや逞しさに驚くばかり。人間の手では一部しか抜き取ることが出来ず、その大半が土の中に残っているので、シャベルで掘ってゆくよりほかない。祖母の自家製のタンポポコーヒーを飲むのも楽しみの一つだった。当時、その工程には骨の折れる手作業が必要だとは勿論、想定してもいなかった。除草の苦労を味わったことのない私は、タンポポの可愛らしい一面だけを知っていて、どうして祖母があんなにぶつぶつ言っているのかも理解できなかった。でも、初草取りの日以来、あの植物に対して、あのとてつもない莫大な生命力に対して、嫌悪感混じりの恐怖を抱くようになった。他の草花とは土地を分かち合う気がなく、手当たり次第の土地を奪い取っている。自己中心的で、他者を気にかけない残酷な心の持ち主。そして、何より旺盛な繁殖力が恐ろしい。見た目で騙され、こんな明らかな事に気が付かずにいた自分は何という愚かなのでしょう。昔、近所のタンポポ畑を素足で歩くのが日課だった。今はあれもあたかも禍々しい絨毯のように見え、近づくことさえ怖い。ヒヨコやカナリア。金鎖や銀葉アカシア。どこに目を向けようと黄色が牛耳っている。或いはそれらの本来の色調をタンポポが吸収し、無断でこの世界を自分の色に塗り替えているかもしれない。何もかもタンポポの都合の良いように黄色になってしまったら、どうすればいいの。こうして怯えていて、ひょっとして私ってかのゴッホと同様に黄視症じゃないかしらと疑い始めた。とは言え、その疑いとは真面目に付き合う暇もなかった。折悪しく私の目にもっと過酷な光景が現れてきたのだから。
いつも通りのルートで下校していた時に忌まわしいタンポポ畑の方から不満そうな大きな声が響き渡ってきた。横柄な黄色に相応しい野卑な声。しかも、聞き覚えのある声音。あの狡猾なやつに相違ない。私のクラスで最も権力を与えられている女子中学生であり、「美貌の麻黄」という通称で知られている。猫を被って美声を出すので、先生などから好評を受けているのも当然。美少女だし。しかし、相手の機嫌を伺わなくていいと判断したら、その声が一変して、サーチライトのように彼女の卑俗な趣味や醜い心を見事に照明する。その時の麻黄の素顔が見えたのは、多分彼女の子分と私のみでしょう。今、彼女たちがくすくす笑っているのも微かに聞こえる。硫黄の匂いがする笑い声だから、これ以上立ち聞きをしたくないし、用もなくここにいつまでも佇んでいのもあほらしい。すると、もう立ち去ろうと思った途端に、ふわふわした和毛を無残に毟り毟り取られた無防備な鶏の悲鳴のように哀れな涙声が耳に留まった。誰のでしょう。記憶をまさぐって名前、いや、せめて顔を思い浮かべようとした。ダメ、何も出てこない。ただ、その哀れな響きからすれば麻黄陣営の一人とは到底思えない。それどころか、寧ろなぶり者のすすり泣きに近い。虐められっ子かしら。そんな者はクラスにいたっけ。学校には友達なんぞ一人もいない。ここの子供とは挨拶を交わした程度の仲という私には同級生の日常を考察する習慣もなかった。それでも、皆の顔を知っているし、氏名もよく覚えている。今にも割れそうなシャボン玉を想起させるその声も間違いなく初めて聞いたのではない。そうだわ、あの子でしょう。何故すぐに思い出せなかったのかが不思議。あの子は転校してから、麻黄たちの仲間入りをしようとしている。あまりにも必死だから皆から揶揄され、お笑い種になってしまった。さらに、本人は虐められていることには気付きさえしていないみたい。それとも、見ても見ぬふりをしているだけなのかしら。いずれにせよ、私には全く関係のない事件だから、助けに入らなくていいわ。いつぞや私もあの麻黄の連中から喧嘩を売られたことがある。そして誰1人も私の味方になってくれなかったというのも未だによく覚えている。校庭には常に人がいっぱい集まっているのに、そういう時に限って皆、三猿の傍観者に変貌してしまう。その日から、自分の尊厳を自分の手で守るべき、と肝に銘じて、この学校の誰かと仲良くなりたいなんて思わない。敵が誰であろうが私は恐れない、自分を踏みにじるやつに屈せない。だから、あの子もそうすればいいの。他の人の情けを頼りにせず、自分自身で自分の権利を主張するなり、関わりたくない人間とは付き合わないなり。そうしておかないと永遠にあの人たちに付き纏われているだけなのよ、と自分に言い聞かせつつ、足がタンポポ畑に導く脇道を踏んでいる。歩調を速めて半意識的に一歩一歩近づいてきている。私が何をするつもりなのか、残念ながら私にも見当がつかない。計画を立てる余裕もない。なぜながら、既に小高い丘から黄身のように無数のタンポポの群れがそっと頭を上げて私を睨んでいるから。この距離では気になる声の持ち主も容易に見分ける。3人対一人という有様。美貌の麻黄の提灯持ちが二人で、見たところではそんなに力を入れずだけれど、あの子の両手を捩じ上げながら、何かを言い付けている。どういうわけか、今日は二人とも一層醜く見える。
「鳩胸」と「しゃくれた顎」。以前からそれぞれ彼女たちに私の付けたあだ名は実にぴったりだった。どうせそれ以外には何の特筆すべきこともないし。しゃくれた顎はあの子の膝頭を横から軽く蹴って、首長の反応を待っている。全て、親分を喜ばせるために。くだらないお芝居。こんなものと私は同じホモ属なのでしょうか。見っともない、でも、さらに情けないと思ったのは、あの子が抵抗しないばかりか、この卑怯な輩の慈悲心に訴えようとしているという事。血も涙もないやつらの前でいくら命乞いをしたところで、助命されるはずがない。まさかそれくらいのことも知らないと言うの。信じられない無知さ。虐められる側が惨めに見えれば見えるほど、虐める側は抑えがたい興奮に燃え、自分の手に掛かった獲物を苦しめたくてたまらないといった恍惚に浸ってしまう。餌食となったものをろくに見ないで鼻であしらっている麻黄の態度も予想通りだった。見苦しい。何といっても見苦しい。あの子に同情すべきなのに、やはり出来ない。詫びるかのようなその表情をちらっと見るだけで、犠牲者であるはずの彼女を私もこの手で散々殴りつけたくなるくらい、今まで経験したことのない憎悪感の吐き気がする。あの子も果たして鳩胸としゃくれた顎とは大して変わらない。その二人と同様に、自ら権力者と名乗ったやつにへつらっているだけではないでしょうか。ここに来るのではなかった。しかし、もう堪忍袋の緒が切れた。こんな見苦しい光景を目にした以上、単なる通行人として家に帰るわけにはいかない。口出ししないと気が済まない。タンポポの草叢の匂いがするこの醜女の集いが嫌だわ。しかし、気持ちを表に出さずに静かに声をかけた。
「騒々しいわね。楽しんでいる最中に割り込んじゃって悪いけど、その放課後の遊びを止めた方がおすすめよ。取り返しのつかないことになりはしないか、とちょっと心配してるけどね」
さすがに「何だと」と云々罵詈雑権の突風に襲われた。ジャケットのポケットに手を入れたまま話を続ける。
「アンタたちって、やっぱり頭おかしい方々ね。その子は何方なのか知らない?」と黄疸の患者と思えるほど顔色が悪くなった彼女たちを見回してから言い添える「まさか、本当に知らないの?それじゃ、教えてあげる。その子のお父さんがね、うちの校長の恩人であり、確か学校側もその方から結構寄付金をもらっているんだって。さらにね、現にあの旧校舎の改築工事が始まったのも、その子のお父さんのお蔭らしいわよ。篠田様宛てっていう市長からの感謝状みたいなのが貼ってあるのを見ていたでしょ。言うまでもなく、その篠田さんというのは、その子のお父さんなの。で、私が何を言いたいかというと、その子がお父さんにうちの学校ではあんなに酷い目に合っちゃったとか不平を一つ零したら、アンタたちはかなりやばくなるんじゃなくて?」
一瞬静まり返ってきて、向こうの4人は一斉私の方に視線を向けた。しゃくれた顎と鳩胸の瞳が狭窄し、逃げ腰になった。篠田家のお嬢さんは少し頬を赤らめて体を震わせている。
静けさの中で、麻黄の歯ぎしり音がはっきりどよめいている。憤慨しそうな顔。と同時に、怯んでいる様子。深海魚の発光器と間違えられるくらい眼球が不気味な黄色を放っている。すると、急に目まぐるしい変化が起きた。別人になった彼女は、いつも先生の前で演じなれた可愛い笑みを湛えてしごく落ち着いた声で言い出した。
「篠田さん、不快にさせちゃってごめんね。別に悪気があったわけじゃないけど、あたしってさ、冗談が好きで調子に乗りがちなやつだから、ついあんな風になっちゃって。よかったら許して。そして、これから宜しくね」
相手が何かを答えるか答えないかのうちに、三人組は早足で遠ざかっていった。黄金の夕焼けに染まったタンポポ畑を後にした美貌の麻黄が見返って、愛想よく手を振っているなんて、滑稽なことではないでしょうか。「応じるな」と忠告しようかと思えば、もう手遅れで、篠田家の子は恥ずかしそうに手を振り返していた。腹が立つ。これから自尊心の意義などについてたんまりお談義を聞かせてやると決心したけれど、彼女の膝小僧と手首当たりの青あざを見ると怒りが治まってきた。痛いかどうかしか聞かなかった。
「いいえ、大したことではありません。もう大丈夫です、本当に。心からお礼を申し上げます。笹野さんが助けてくださらなかったら、私はどうなったのでしょう、そんなことを想像するだけでぞっとします」という返答だった。私の苗字まで覚えていてくれたことにはやや吃驚した。
「お礼には及ばないわ。たまたまこの周辺をぶらぶらしていて、美貌の麻黄の姿に気が付いて、様子を確かめに来てみただけよ。遠目にも何だか、揉め事があるように見えたし」と私が小道を先に歩きながら肩越しに言う。後ろは口を開いて何か質問しそうな感じがした。でも躊躇っていたためか、結局それを飲み込んで別の話を持ち出した。
「あのぅ、ちょっと伺いたいことがありまして。私の父のことは、どなたかからお聞きになったのでしょうか」
足を止めて沈んでいる太陽を見ている。
「いいえ。そういうわけではない。お父様のご活躍については何も存じないわ」
「では、あの話は最初から最後まで、、、」彼女は言葉選びに困っていた。やむを得ず、私は振り向いて説明をする「そう、最初から最期まで作り話なのよ。言わば、ちょっとした推理と空想のコクテールね」と困惑している相手を凝視しながら意味ありげに微笑んでいる。
「しかし、仮に全部仰る通りだとしても、例えば、旧校舎の復旧工事に父が関わっていることについては一体どうやって?」
やはり面倒くさい、説明というのは。「どうやって?難しいことなんてないわよ。貴女は割と裕福な家庭で育った人なのね。身なりもそうだけれど、教養の高さといい、礼儀正しさといい、良家の出って一目で分かる。まぁ、間違っていてもこっちの人の目にはそのように写っているはず。改築工事に関しては、校舎内はあの張り紙をあっちこっちで見かけているし、体育授業の先生もその話をしていた。貴女と同じ苗字の何とか篠田さんだから、何か関係がありそう、と仮定してみた。しかも、その篠田さんの顔写真もあって、どこか貴女と似ていて、親子と思われたっておかしくないのね。まさか、この当てずっぽうに言ったことが本当だったとは」
ウコンの砂丘が溶けているような地平線から、自分の目の前の地面へ、そして最終的に私の方に、という風に空中で目で放物線を描いて彼女は絶望的な調子で口を切った。
「でも、危険ではありませんか、そのようなやり方は。もし、ご推理が当たらなかったら、皆から軽蔑される羽目になり、何という恥なのでしょう。私のために行動を起こしてくださいまして感謝してはおりますが、父は校長の恩人だなんて、そんな酷い嘘をつく必要はあったのでしょうか」と泣かんばかりの声だった。何という分からずやなのでしょう。やはりこの子と関わるのではなかった。レモン汁っぽいお嬢ちゃんだから。
「一先ず安心して。絶対にばれないのよ。恩人かどうか、そんな細かい事まであの連中が調べてみようなんてあり得ない。あのタンポポ畑の野営を引き上げた時点ではもう見事に釣られちゃったと解釈していい。それは明白よ」
彼女が何かを言い返したいと思っているのが分かったけれど、それをあっさり無視して続けた「それから、もう一つ。嘘か本当のことか重要じゃない。嘘をついたものが悪く、どんな事情であろうがいつも素直に本当のことを言うものが良いというのもない」そして少し声を下げて敵に挑む様子で言い足した「貴女の高尚な理屈はあの方々には通じると思う?」
ポケットの中でビー玉を手に握りながらこの篠田嬢と睨めっこをしている。確か辛子色のビー玉だった覚えがある。何なの、この子。一人では何もできないくせに、麻黄たちには手向かおうともしなかったくせに、今、私が相手となると意外と闘志満々たる態度を見せた。気に障る。やがて彼女は低音で答えた。
「通じないでしょう。だって経験上、よくそのことを存じておりますもの」と俯いてほんの数秒くらい黙っていたけれど、また私と目を合わせると、無念無想で言い続けた「しかし、友達が欲しければそうするしかないと思っているのです。随分と浅はかな考えですね」
友達が欲しければ、ですか。あんなのと友達になれるのは同類の愚か者のみでしょう。でも、相手のあどけない顔を見て、切ない気分になり、あれこれと口論をする元気も失った。やはり祖母の言う通りだったと物思いに耽っていて、独り言のように悠々と話し出した。
「あいつらは、人間型のタンポポだから仕方あるまいって思えばいいのに。全くもって、雑草ほど繁殖力の強い植物はないわね」
「蒲公英?」と篠田家の子は太い眉をを釣り上げて聞き返す。
「いや、何でもない。ただ、柄が悪くて不良なやつらはよくまぁ、生命力に満ちてるって言いたかっただけ。気にしないで。それより、どうして貴女ほどの人はこんな僻地にいるの?」
彼女の髪はそよ風に吹かれているのを流し目で見た。吹かれていてもその尼削ぎの髪型はボサボサにならない。
「父親の仕事関連でこちらに引っ越すことになったのです」
「そうなの。でも、うちの学校以外にはもっと良い転校先もあったはずじゃない?あの「動物園」に転校したのは、間違えっぽいと思うけど」
彼女は照れ隠しに笑って、ちょっといじけた顔をした。
「蝶よ花よと育てちゃいけないんだから公立学校で普通の子供と仲良くなってくれ、と親に言われたもので」
なるほど、清濁併せを呑む主義というとこかしら。ただ、あんなのは果たして普通の子供なのでしょうか。少なくとも私から見れば普通ではない。生い茂ってばかりでは、荒涼たる原野になるだけなのよ、と叱っても無効化だろうと悟って口を噤んだ。話題を変えて話しながら歩き続けている。10分前後で私がいつも一人で右に折れる三叉路まで来た。あれを言わなきゃならないのか、と少し狼狽えていてる。
「これでお別れね。見える?あれって私のうちよ」としか出てこなかった。
「笹野さん」彼女の目つきが輝いていた「笹野さんのお蔭で今日、素敵な一日を過ごせました。本当ですよ。ここに引っ越してからもう一ヵ月ほど経っていますが、この一ヵ月の間に今日が一番楽しい日だったと思います。もし、宜しければ、気が向いた時にまたこうしてお散歩しませんか」と気持ちが上ずったためか歯切れの良い声だった。やはりあれを言わずに済ませようなんて、こんな都合の良いことは最初からなかったでしょう。
「散歩はいいわね。ただ」とため息をついて、少し考えていた。平然として全てを明かすことにした「実は私も親の事情で転校することになって、もう明日の朝、この町を出ていくわ」
彼女は号泣しないかと恐れていたけれど、そんなことはちっともなかった。私に負けないほど平然とした顔で「そうですか」としか言わなかった。二人とも目を逸らして何かを待っている。何となしに酷い寒気がする。こんな時こそ、美貌の麻黄にでも口を挟んで欲しいとさえ感じている。しかし、繁茂したタンポポは既に花を閉じていて、ここは私たちしか誰もいない。最後に彼女のために何かしようと思ってこの重苦しい沈黙を破った。
「連絡先を教えてくれれば、手紙を送るわよ」と何気なく言い出した。篠田家のお嬢さんが嬉しそうに笑顔を見せた。強張った表情も和らいできた。でも、自分の住所を教える代わりに、後で私の新しい住所を調べて自分から便りを出すと提案した。どうやって調べるのかと疑問に思いながらも、それ以上は何も聞かなかった。ただ、別れる前にポケットからビー玉を取り出して彼女にあげた「お土産というか、にわかの誼みの証よ。もし、またいつか会うことになったら、それを返してもらうわね」と口早に言うや否や、家の方に足を向けていった。手渡している時に、あれは辛子色ではなく、透明感のある金箔入りトンボ玉だったと初めて気が付いた。