星命の少女
頬を伝う水滴が、宇宙に浮かぶ星々を映す。
少女は窓縁にそっと手を掛けると、金木犀の香りが鼻孔を掠めた。
「どうして……生きているんだろう」
真っ白に覆われた部屋の中で、少女は一人呟く。
自分の身に残っているものを数えるとすれば、この身体と何冊かの小説、そして残り僅かな命くらいだろう。
蛍白に輝くそれらから目を逸らさず、少女は冷気が混じる夜風に耳を傾けた。
「まるで……私とは正反対だ」
限りある命を燃やして、一生懸命に光を灯す。それが彼らに与えられた役目なのだから。
少女の瞳に映る星々は、今日も歌っている。
「和徳、もう準備できたの?」
洗面所の水が流れる音が止むと、身支度を終えた母が顔を覗かせた。
「ちょっと待って、あとタオル」
リビングの長椅子から腰を上げると、ふと好奇心に駆られてその場で足踏みをしてみる。
だが案の定ギプスを固定している右足がズキズキと痛み、和徳は表情を歪ませた。
「そんな早く治らないでしょ。ほら、松葉杖ちゃんと使って」
「わかったって……」
母が持ってきた松葉杖を素直に受け取る。今までの人生で初めて松葉杖を手にしたが、扱いが思ったよりも小難しい。
(くそっ……。骨折なんてしなければ……)
今から丁度一週間前の土曜日、和徳は中学のサッカー部の試合に出場していた。
久しぶりに綺麗な天然芝のフィールドでサッカーが出来る。そう心を躍らせる思いで、中盤のポジションを任された和徳は、前半からフルスロットルで駆けまわっていた。
(けれど、あの時……)
前半終了間際、走り込んでいた和徳が味方のこぼれ球をゴールに押し込もうとした瞬間、相手の猛烈なタックルを受けて、ブルドーザーにでも衝突したかのように身体が吹っ飛んだ。ギプスで固定された右足は、その時の着地ミスが原因だ。
「どうしたの和徳。早くしないとリハビリの時間に遅れちゃうわよ」
「……うん」
二か月後には、中学最後の中体連が控えている。
医者が言うには怪我の回復が間に合うか微妙らしいので、より良いコンディションで試合に出るために、水、土曜の週に二回リハビリテーションに通っている。
「間に合うと良いわね、試合」
「もし間に合わなくても……出るけど」
母は「そうね」と肩を竦めると、優しく微笑んだ。
回転式の自動ドアを潜り抜け、リハビリテーションの受付を済ませる。
(……やけに混んでいるな)
病院のエントランスで目につく、薄い赤や青の衣を身に着けた人の数と比例して、何人もの看護士が足を急がせている。
和徳が通っているこの病院は、都心の大きな総合病院なので、人が多いのは当たり前だが、今日は休日だからか、いつもより人波が忙しなく感じる。
「診察もあるから遅くなるかもね」
隣を歩く母が小さく囁く。そのままエスカレーターを上り、渡り廊下を歩いていると、「和徳君」と後ろから肩を叩かれた。
「あ……染谷さん、こんにちは」
振り向いて会釈すると、同じように母も頭を下げる。声を掛けてきたのは、たれ目が特徴的なリハビリテーションの受付員、染谷さんだ。
「毎回通ってて偉いわね。ところで『飯島先生』のリハビリメニューには慣れた?」
「いや、慣れたとまでは言えないですけど、やっぱり厳しいですね」
「まあ、結構なスパルタメニューだからね」
やれやれと両肩を上げた染谷さんが笑みを浮かべる。
(……実際、本当に地獄なんだけどな)
初めて飯島先生を紹介された時は、笑顔が温かい人だなと思った。だが実際リハビリを受けてみると、休憩が少ないのに何種類ものハードな体幹トレーニングを施してくる。
しかもヘトヘトに疲れている和徳とは真逆に、トレーニングが終わるまで飯島先生の笑顔が途切れる事はなく、ずっと楽しそうにニコニコしているので恐怖すら覚えていた。
今日も地獄のメニューに耐え抜かなければならないのか。そう心の中で呟いた時、リハビリテーションルームの扉が開いた。
「あー! 和徳君!」
出た。通称「笑顔が似合う悪魔」こと、飯島先生だ。
「こ、こんにちは」
嫌な予感に目を背けながらも、精一杯に表情を作って会釈する。
「こんにちは。じゃあさっそくリハビリ行こうか!」
「……はい」
雲の影が一切見当たらないと言ってもいい眩しい笑顔に、この後に待ち受ける過酷な特訓の兆候を感じる。肩を落として飯島先生の後ろを付いて歩く和徳に、こそっと染谷さんが耳打ちした。
「……実績は確かだから、頑張って」
まあ、こんなスパルタメニューで良くならないわけがないよな。と若干訝しく思いつつも、和徳は苦笑して見せた。
額の汗をフェイスタオルで拭い、全身の疲労を感じて重たい息を吐く。
(やっと、終わった……)
ただの体幹トレーニングのはずなのに、部活で走っている時と同じくらい汗をかく。時間が短い中に飯島先生直伝のメニューがギュッと詰まっているので、こんなに疲れるのは必然と言えば必然だが、もしこのリハビリが毎日続いていたら……と思うと恐ろしい。
「次は水曜日だね。風呂から上がったらストレッチも忘れないようにね」
もはや悪魔にしか見えない笑みを浮かべた飯島先生が、和徳の隣に腰を掛ける。
「はい。中体連……間に合いそうですかね」
「立場上絶対……とは言い切れないけど、僕のメニューをこなしているから期待していいと思うよ」
飯島先生は、そう前向きな一言で締めくくると、診察の時間などのスケジュールを細々と説明し始めた。
しばらく耳を傾け、確認事項が済むと飯島先生に礼をする。和徳はリハビリテーションルームを後にし、待合室で待つ母と合流した。
「診察、十五時からだって」
「十五時……あと一時間半くらいあるわね」
腕時計に目を落とした母は「やっぱり……」と嘆息を漏らした。
「時間もあるし、和徳、これでお昼買ってきなさい」
母はそう言うと、和徳の手に野口英世さんが描かれた紙切れを乗せた。思えば、リハビリに夢中になっていて、腹の虫が騒いでいることに気が付かなかった。
分かった。と頷き、一階に降りて渡り廊下を抜けた先にある売店へと足を進める。
(お母さんの分も買っておくか……)
自分の分のサンドウィッチと同じものをもう一つと、清涼飲料を二つ持ってレジに並ぶ。
合計金額が精算されると、予想していたよりも安く済んでお金が余ったので、辛いリハビリを頑張ったご褒美として、から揚げが五個も入っている「から揚げちゃん」という商品を購入した。
(どっかで食べちゃおっかな)
心の中から出てきた悪い和徳に見て見ぬ振りをし、売店を出て渡り廊下を歩く。すると、少し進んだ先の窓ガラスに一本の大きな樹が映り込んだ。
(……あんなのあったっけ?)
気になって、窓の外が良く見える場所まで近づいてみる。
透明な薄い壁に顔を覗かせると、一本の緑樹を囲んで円形にベンチが並ぶ、美しい中庭が姿を見せた。
四隅には多色の花が植えられている花壇が並んでいる。赤から黄、他にも多色の花が植えられているな……と眺めていると、和徳の視界にベンチに座る人の影が映った。
(誰だろう……?)
好奇心に任せて、目を凝らしてみる。
さらさらと長い髪を靡かせている少女が、どこか不思議な表情で本を読んでいる。
悲しいような、寂しいような。いや、何かを諦めて心を失ってしまったような。
少女の蒼く褪せた瞳が、和徳の好奇心をより一層と惹きつけた。
「あ……」
一瞬、蒼い瞳の少女と目が合う。
だが、確実にこちらの存在に気づいているはずなのに、すぐに少女は顔を伏せて読書に耽ってしまった。
(なんだよ、知らんぷりかよ……)
にこりともしない少女に、和徳は何とも言えない気持ちを覚える。
止めた。やっぱり待機室でご飯を食べよう。
せっかく打って付けの場所を見つけたと思ったのに、先客がいたならしょうがないし、集中して読書をしている人の邪魔をするのは決まりが悪い。
心の中の悪い和徳にそっと蓋を閉め、母が待つ待機室へと向かった。
(……おかしい)
初めて少女を見た日から丁度二週間が経った。
あれからリハビリが終わると、決まって中庭の様子を窺うようにしているのだが、今日も少女はいつものベンチで本を読んでいた。
しかも、水曜日に授業を終えて病院に来る時間が遅くなっても、少女は同じように本を読んでいることもあった。
(何でいつもここにいるんだろう?)
見たところ、少女は薄い赤の衣を身に着けているから、何らかの病気の患者であることは間違いないだろう。
だが手足が不自由そうな様子はなく、特徴的な蒼く褪せた瞳を除けば、至って普通の少女だ。
(ちょっと、話しかけてみようかな)
何の物事にも好奇心が働く、和徳の悪い癖だ。
さっそく扉を開けて、ふわふわとした芝生に足を踏み入れる。
すると、少女は初めて出会った時のように、こちらに目を配らせたが、すぐにまた手元の本に視線を落としてしまった。
また知らんぷりか、と眉間を曇らすも、本を読んでいる少女へと足を進める。
和徳はとうとう少女の目の前に立ち、穏やかに話しかけた。
「いつもここで何をしてるの?」
驚いた少女が、ふっと顔を上げる。
瞳の色と相対して、ゆったりとした顔立ちと態度が、全体的に落ち着いた雰囲気を醸している。
少しの間が空くと、少女は小さい声で呟いた。
「……別に」
愛想の欠片が一つも見当たらない言葉。
だがせっかく話しかけたのに、この一言でめげるのはまだ早い。和徳は負けじと続けた。
「君、名前なんて言うの?」
少女は俯き、また黙ってしまった。
「……から」
少女の唇が微かに動く。
何て言ったんだろう、と耳を近づける。
「私……もう死ぬから」
え……と言葉が喉につっかえる。
動けずじまいになっている和徳をよそに、少女は続けた。
「名前聞いても意味ないよ」
緩やかな薫風が吹き、花壇の花々がひらひらと踊る。
数秒ほど呆気に取られ、気が付いたときには、少女は何事もなかったかのように本に目を落としていた。
「なんで、そんなに落ち着いていられるの?」
ようやく言葉が喉を通過する。
「なんでって、別に……」
「死ぬのが怖くないの?」
「……そういう運命だから」
あたかも「自分の死は必然だ」と言っているような口ぶりに、和徳は不思議な思考に陥る。
それは、初めて少女の目を見た時に渦巻いた感情と、どこか似ていた。
「なら、ちょっと来て」
そう言ってパタン、と本を閉じた少女が、花壇の方に足を進める。
やがて少女は黄色い花の前で屈むと、こちらにむかって小さく手招きをした。
和徳も言われた通りに少女の隣に足を進め、黄色い花の前で屈んだ。
「この花の名前、何て言うか分かる?」
少女が指差した先には、鮮やかな黄色の花びらをちらつかせた植物が、ゆらゆらと揺れていた。
これはタンポポの仲間か何かだろうか。いずれにせよこの花の名前が思い浮かばない。
「……分かんない」
「これはね、福寿草って言うの」
少女が縁起の良さそうな名前を口にする。
「それじゃあ、花言葉はなんだと思う?」
「えーっと、縁起がいい、とか」
ぱっと頭の中に思いついた言葉を口に出してみる。
「少しかすってるね。正解は、『永久の幸福』とか『幸せを招く』って言われてるの」
「へぇー、そんな意味があるんだ」
縁起の良い花言葉に感心していると、少女は「けれど……」と話を続けた。
「花は枯れる。たとえ『永久の幸福』という意味を持つにしても、命あるものは必ず死んじゃう。ほら、『驕れるものも久しからず』って良く言うでしょ」
「……物知りなんだね」
少女の難しい物言いからして、全く自分と同年代とは思えない。
「……つまり、私の死も運命ってことだよ」
一見筋が通っているように感じるが、不安定で心なくも感じる少女の理論に、胸の辺りがチクリと痛む。
だってその言い様は、この中庭でただ本を読みながら死ぬ時が来るのを待っている、というのと同じではないか。
「私には……生きる希望がないの」
「なら、作ればいい」
少女の顔に、困惑の色が浮かぶ。
「俺のリハビリの日、絶対君に会いに来る。それが君の生きる理由になる」
傍から見れば勝手な意見かもしれない。だが、少女には生きて欲しい。
少女は、ぽかんと目を丸くしたが、口を押さえて笑みを溢した。
「ふふっ……変な人ね」
少女の揶揄するような仕草に、カッと頬が熱くなる。
初めて見る少女の笑顔は、中庭に咲いているどの花よりも輝いて見えた。
「……知崎菖蒲。あなたは?」
……菖蒲。なんだ、良い希望を持ってるじゃん。と心の中で呟き、自分も菖蒲に名前を伝える。
「和徳、か。良いね、その名前」
人生で名前を褒めてくれたのは、菖蒲が初めてだった。
オルラヤの花が笑む頃の、褪せない思い出。
その日から和徳は、リハビリが終わると中庭に訪れて、菖蒲と色々な話をした。
本を読むことが好きなこと、星が見える夜に星座を眺めていること、余命がもう残り少ないこと。
……それから、菖蒲の病気は治療法が見つかっていない。すなわち絶対に治らないということも教えて貰った。
ただ、話を聞いても分からないことがあった。
この世から存在が消えることの無恐怖。どうして菖蒲は死ぬのが怖くないのか。そしてそう思える根拠は何なのか。
たった一つの疑問が和徳の中で蠢きながらも、今日も中庭へと足を進める。
「おはよう、菖蒲」
ベンチに座る白い頬が振り返る。
「おはよう……って、もう足治ったの?」
菖蒲が和徳の右足を見て声を弾ませる。
そう、実は今日の診察で松葉杖が外れて、ようやく両足で歩けるようになったのだ。
「まだ完治はしてないけど、一応ね」
菖蒲は小さく笑うと、寂しそうに目線を落とした。
「じゃあ、もうここには来ない?」
「いや、今までみたいに、ここに来るよ」
……菖蒲がいつ命を落としてもおかしくないからね。と出かかった言葉を飲み込む。
「そっか、でも大丈夫」
胸に手を当てた菖蒲が優しく微笑む。
「死んだら、星になるだけだから」
菖蒲の口から出された言葉に、心臓がドクンと大波をうつ。
彼女と出会ってから『死』という言葉に敏感になり、『死』について考える事が多くなった。
ある夏初めの夜のこと、和徳は菖蒲の真似をして星空を眺めていると、ふと彼女の言葉を思い出した。
--私も星になりたいな。
当時、また不思議な事を言っているなと解釈した自分は、菖蒲に『どういう事?』と何気なく尋ねてみた。すると菖蒲は『星みたいに、一生懸命に輝きたいって意味』と教えてくれた。
でも、それは表向きの理由でしかなく、その言葉にはもっと別の意味があったのではないか。と今になって気づく。
言葉の本当の意味は今の和徳には分からない。ただ、この言葉だけは今この瞬間に菖蒲に伝えなければならない。それだけは確かだ。
「……また来るから、死ぬなよ」
蒼い瞳の少女は、こくりと頷くと、小さく笑って見せた。
そして約束した水曜日、いつものように中庭に行くと、そこに菖蒲の姿はなかった。
ベンチの上には、菖蒲の瞳と同じ色の花束が置かれていた。
長い間電車に揺れていた身体を起こし、近くのバス停に待機していた『緑樹霊園行』のバスに乗り込む。
数十分くらいが経ち、バスが入口付近で停車すると、和徳は白い紙きれを片手に持って、砂利道の上を踏みしめた。
木漏れ日が差し込む小道を歩く。しばらくすると『桜場之墓』と彫られた墓碑が目に映った。
手に持つ紙切れと場所を照らし合わせ、彼女の墓であることを確認する。
(……ここか)
一回り小さな大理石の墓、それは間違いなく菖蒲の墓だった。
墓前で合掌をし、墓石の汚れを雑巾で落とす。それから打ち水をし、購入してきたリンドウの花を供えて線香を上げる。
最後に合掌して一連の礼儀作法を終えると、和徳は墓前で屈みこんだ。
「ごめんな……来るのが遅くなっちゃって」
菖蒲が死んだ日から三年くらいが経っただろうか。和徳は高校三年生になり、進路決定の時期に差し掛かっていた。
しんと静まり返った霊園に、涼風に揺れた枝葉の擦れる音が響く。
どこか懐かしいこの音色は、菖蒲と過ごした中庭で聞いたものと似ていた。
「……星に、なれたんだな」
ずっと気になっていた一つの疑問。
希望を無くした少女がぽつりと呟いた言葉は、しっかりと和徳の胸の奥に刻まれている。
「俺さ、医者になるよ。そして、全ての人に希望を与えるんだ」
三年前、自分は死を待つだけの少女を見殺しにした。
『君の生きる理由になる』と言いながら、何も出来なかった。
でも、最後に菖蒲は笑ってくれた。
果たして、その笑みは死を予感して諦めを意味したのか、あるいは純粋に良い意味で笑ってくれたのか、真理は今でも謎のままだ。
でもこれだけは分かる。
本当は、自分が彼女に希望を貰っていたのだ、と。
「だから一言だけ伝えに来たんだ」
桜場菖蒲という少女の存在を表す言葉であり、和徳の未来に告げる誓いの言葉。
「俺も、星になりたい」
緑樹の下で、そっと呟いた。
ちょっと間が開いたのですが、時間が出来たのでかつての短編を載せてみました!
あと個人的に。活動報告でコメントを書いてくれた読者の方、Twitterなどで僕の投稿にいいねをしてくれてる読者の方、久しぶりに投稿した機会だから言います。「ありがとうございます」
読者の方がいたので小説を書けてます。