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学園長室には学園長がいた。王立学園の学園長は代々王族が務めている。今の学園長は王嗣でもある王弟殿下である。たしか、ラヴァン侯爵とは同じ年齢の頃だ。
私が礼をとると、殿下はそれに応じてから、応接室を指差して問うような表情をした。ラヴァン侯爵がまだそこにいるかという意味だろうか、確信なく答えるわけにもいかずに私が首を傾げると、今度は殿下は囁き声で問うた。
「アクセルロッドはあなたに失礼を言わなかったかい?」
あ、そっち。
「はい、殿下。不快なことは何もおっしゃいませんでした」
「ほう。それは、それは。あなたたちはうまくいきそうだね。これで私も肩の荷が下りるよ」
殿下が微笑み、私はなぜと思った。なぜラヴァン侯爵の結婚について世話を焼くのか。殿下とラヴァン侯爵とが親しい友人であるとは聞いたことがない。時事に疎い私が知らないだけということも考えられるけれども。考えていると、察したのかそうではないのか殿下がその答えを言った。
「先代侯爵には娘がいてね。彼とは、ほとんど決められた婚約者だったんだが……うん、私が彼女をさらってしまったんだ。それで少し、気がかりでね」
「そう、なのですか」
何とも返事に困る。
王弟殿下が結婚されたのは、先の王が亡くなられてからのはずだ。今上の王は結婚するつもりはないといい、子を作るつもりもないとして、王弟殿下を王嗣に据えた。王でも王嗣でもない王族は、王族が特別な血統であると示すため滅多に結婚しない。今上陛下が結婚して子をもうけていれば、王弟殿下の結婚はなかったかもしれないのだ。もしや私のこの縁談は運命的なのでは。
「それ以来、彼は遊び人の代名詞になってしまって。彼女は、互いに恋愛感情はなく、遠縁で幼なじみで家族のようなものと言うが、彼はどうだったのか」
「私も同じですよ、殿下。相変わらず、口の多いことですね。私が新しい婚約者に逃げられたら、どうしてくれるおつもりですか」
応接室への扉が開いていて、ラヴァン侯爵が立っていた。
「お久しぶりです」
「おお、久しぶりだね。会えて嬉しいよ、エリオン・アクセルロッド。相変わらずの美貌だ」
「お誉めに預かり光栄です」
形式的なあいさつを交わしてから、二人は抱き合って再会を喜んだ。ラヴァン侯爵の後ろに、ミアが立っているのが見えた。震えているようだが、殿下の御前で緊張しているのかもしれない。と思ったら、隠れてしまった。
体を離してもまた肩をたたいたりなんかしている二人を見ながら、学園長室から出ていく機を逃したようなと感じた。
「ふたりは、もう、婚約届にはサインしたのかな?」
私がいいえと言う前にラヴァン侯爵が答えた。
「殿下、彼女は学生ですよ。先にご両親に許可を得なければ」
「ああ、そうか。たしか、あなたはもうすぐ卒業だね。待ってからのほうが手続きは楽だよ。ご両親に先に話を通したほうが、後の付き合いには楽だろうがね」
「殿下はうちの先代にはずっと睨まれていましたからね」
「いつも複雑そうな顔でね」
ふふと殿下が笑った。
次の王になる方の妻に娘がなったといって、もろ手をあげて喜ぶような人ではなかったのだろう、先代のラヴァン侯爵は。礼儀を重んじる方だったのか、ラヴァン侯爵領が娘の子に継がれていかないことが残念だったのか。
それはともかく、そろそろ私はここを抜け出してもいいのだろうか。来客の相手はしないと条件はつけてあるはずだから、許されるとは思うけれども。
ラヴァン侯爵が私を見た。考えていることが見抜かれたのかと思ってしまったが、違った。
「ご両親には明日にでも話をしに行きます。あなたも一緒に?」
「いいえ」
「今は、学園の寮に?」
「ええ」
「そうか。よければこの後……部屋まで送ろうか?」
何気ない提案のようにラヴァン侯爵が言った。嘘だろ本気か、と言いかけた表情をこらえる。ちらりと殿下を窺うと、呆れたような困ったような微笑だった。
「ご遠慮いたします」
にこりと笑って見せて答えた。ラヴァン侯爵はとくに何か感じた様子もなく頷いた。
「久しぶりとおっしゃっていましたよね。どうぞ、ごゆっくり、語り合われてください」
学園長室を辞す。応接室のほうから、よし、と呟きが聞こえたような気がしたが、ミアだろうか。縁談がまとまればよしだ。
それにしても、ラヴァン侯爵は気づかないのだろうか。私と彼とが二人で学園内を歩いたら、噂になるに決まっている。
すでに、ラヴァン侯爵が結婚相談所に訪ねていたことは広まっているのだから、相手が決まったらそれも広まるのが必然だ。
何もしたくないと私は言っているのに、条件の意味がまさか通じていないのでは。だとしたらこの結婚、残り二割に傾く。
何もしたくないのは、もちろん目立ったことによる後始末だってしたくないのだ。ひっそり静かに、せいぜい水や雲の流れるのを見るくらいで過ごしたいのだ。