02 ブッチの件 2(前)
02 ブッチの件 2(前)
酔い潰れたマルコを彼の部屋に運ぶと、クドリャフカは運河のほとりをしばらく散歩することにした。
インバネスの町は北海貿易の重要な拠点になっており、港から町の南端まで運河が発達している。繁華街の騒音から離れ、考えごとをするにはうってつけの散歩コースだ。
かすかに潮の香りがする運河は黒い板のように凪いでいた。
高地地方特有の柔らかい夜風がクドリャフカの火照った頬を撫でる。
今宵、世界はまだ平和だった。
レンガ敷きの道を歩きながら、残された時間はどれくらいあるんだろう、と彼女は考えた。
それほど多くないかもしれないし、案外まだ持つのかもしれない。
できればパーティーを再編成して迷宮に挑むまでは待って欲しいところだが、楽観視はできない。
ウォームクリスタルを賢者学院のやつらに渡して、何もかも任せちまえよ。
マルコの言葉が蘇った。
正直、魅力的な提案だったことは認めざるをえない。
賢者学院でなくてもいい。信頼できる誰かにクリスタルを託し、『はじまりの迷宮』の奥深くで見たものを洗いざらいぶちまける。そして彼らに世界の命運を任せ、自分は歴史の傍観者に戻る。自分でなくてもいい。誰かがフロア5にたどり着けさえすればいいのだから。
しかし、それは出来ない相談だった。
命を賭して戦い、地上に持ち帰った情報だ。その最前線から遠ざかるなどという選択は有り得ない。
なにより彼女は仲間の仇を討ちたかった。
そのためには迷宮に戻るしかない。
見上げれば、空には磨き上げた銀貨のような月が浮かんでいた。
クドリャフカは服の上からウォームクリスタルに触れた。
……みんな、どうか力を貸してくれ。
月を通して呼びかけてみる。
が、どこまで本気で死者たちに祈ったのか彼女自身わからなかった。
ふと気づくと、運河を外れて見知らぬ路地を歩いていた。
考え事に熱中しすぎて、迷子になってしまったようだ。
慌てて来た道を逆に辿る。
すぐに三叉路にぶつかった。
クドリャフカは途方に暮れた。どっちから歩いてきたのか覚えてないのだ。
「あっちゃー……これはマズイ……」
酒場の名前は覚えていたので誰かいれば道を尋ねられるのだが、生憎と人影はない。
焦ってあちこち歩き回ってみたが、ますますドツボにハマっていくようだった。
「これではまたマルコに馬鹿にされてしまうな……」
ふうとため息をつくと、向こうに見覚えのある生垣が続いているのに気づいた。
昼間に訪れたパブリックスクールに隣接する運動庭園だった。ということは、いつのまにか町を北から南に縦断していたのか。
生垣に沿って歩いていくと、簡易地図が描かれた案内板を見つけた。
腕組みをして帰るべき方角を見定めようとしたクドリャフカだったが、首を捻ったり、通りの名前を確かめたりしているうちにわけがわからなくなってきた。ともすれば、現在位置すら見失いそうになって、慌てて地図を指でなぞったりする。
「……どうも昔から地図というものは好かんのよな」
忌々しげに呟き、彼女は庭園の中に入っていった。
ここを突っ切れば、町の中心街に戻る大通りに出られる「はず」である。
昼間は騒々しかった園内も、今はさすがに人っ子一人いない。
しん、と静まり返った空気を肌で感じながら、クドリャフカは芝生を踏みしめていった。
と、クリケットのコートを通り過ぎた時だ。
空気を震わせて、かすかに、だむ、だむ……という音が聞こえてきた。
思わずクドリャフカは周囲を見回す。
音は、ランブルボールのコートの方から聞こえてくるようだ。行ってみると、少年が一人、月の光を浴びながらシュート練習をしていた。
ふいに振り返った少年の顔を見て、彼女は足を止めた。
「……ブッチ?」
そう、その少年はブッチだった。
声をかけられて、彼は驚いたように身を竦めている。教員に見つかったと勘違いしたのだろう。
金網フェンスを迂回して、クドリャフカはコートの中に入っていった。
「わたしだよ。クドリャフカ・サバーカ。今日の午後に会っただろう」
ブッチはボールを胸に抱えて立ち尽くしていたが、クドリャフカが名乗るとようやく警戒をといた。
「……なんだ……ビックリした」
「それはこちらの台詞だ。こんなところで何をしているんだ?」
「眠れなくて」
彼はちょっと首を傾げて笑う。
とりあえず敵意はないようだ。
「でも消灯時間はとっくに過ぎているんだろう?」
「抜け出したんです。あなたこそ、なぜこんなところに?」
「わたしか? わたしは……まあ、ちょっとな――」
散歩をしていて道に迷った、とは云えず、クドリャフカは誤魔化した。
少年が抱えているボールを見つめ、
「ランブルボールか? 練習でもしていたのか?」
「ああ。はい。もうすぐ球技大会があるから」と、ブッチ。「チームのお荷物になりたくないんです。で、こっそりと――」
だむ、だむとボールを数度弾ませたあと彼はシュートする。
ボールはリングに跳ね返って戻ってきた。
「まあ、ご覧のとおりの腕前ですから」
「フッ……わたしにもやらせてくれるか?」
クドリャフカはブッチからボールを借りると、心持ち足を開いて構えた。久しぶりの感触に懐かしさを覚える。子供の頃によくやったものだな、とひとりごちながらシュートを放った。
ボールは放物線を描いて、ゴールに吸い込まれる。
リングに触れることなく、さしゅっと心地よい音が夜のコートに響いた。
おお、とブッチ。
「わかるか? コツは正しいフォームだ」
ボールを拾いにいって、もう一度シュートする。
さきほどと同じ軌跡を描いてボールはリングを潜った。
「すっげ……さすが冒険者」
ブッチが云うと、クドリャフカは笑った。
「いや、力は何も使ってないんだぞ。『魂の力』を使えば、こんなことも出来る」