01 ブッチの件 1(後)
01 ブッチの件 1(後)
「……違いますよ。はじめまして、じゃない」
「え?」
「ずっと昔……会ったことがあります。思い出したんだ……。お二人とも見覚えがあります。はじめましてじゃない」
「そ……そうだった……かな。すまない。よく覚えていない」
するとブッチはため息をついて「そうですか」と云った。
クドリャフカは戸惑った。彼の瞳に暗い光が宿ったように見えたからだ。
「ええと……マルコ。あれを頼む」
クドリャフカは背後を振り返った。
マルコは小さな箱を持って近づいてきた。
「ブッチ。ジャンの形見だ。受け取ってくれ」
と彼はその箱を差し出す。
ブッチが中を開くと、布に包まれた細長いものが現れた。使い込まれたハンティングナイフだった。
それにもう一つ。純銀製のマント留めが出てきた。こちらにはうっすらと血がこびりついていた。
「本当は遺髪を持ち帰りたかったんだが……」とマルコ。「化け物から逃げなきゃならなかったし、他の仲間の遺品も回収しなきゃならなかったもんでね、その二つで精一杯だった。すまねぇ」
ブッチはマント留めを手のひらで転がした。
そのまま無言で飽きずに眺める。
しばらくそっとしておくことにして、クドリャフカは少年から離れると、既に窓際に下がっていたマルコに囁いた。
「……どう思う?」
「まだわからねぇ……」
ちらりと隣を見ると、マルコはなにやら渋い顔をしていた。
「ただ――親父とは正反対のタイプのようだな。ジャン・ジャックは感情がモロにでるヤツだった。ブッチは何を考えているか読み取れん」
「そうだな」
頷いてクドリャフカはブッチに視線を戻した。
彼は相変わらずマント留めを眺めて悲しみを堪えているように見える。
思春期ということを差し引いても、繊細な子なのかもしれないとクドリャフカは思った。きっと彼は優しいのだ。それは人の世で生きるうえでは素晴らしいことである。が、迷宮を生き抜くには向いていない。たとえどれほど才能に恵まれていようと――
「……例のことはまだ伝えないでおく」
クドリャフカが目配せすると、マルコは頷いた。
と、そこで場の空気を振り払うように校長先生が咳払いした。
「さて……リンツ君。酷かもしれないが、今すぐ話し合わなければならないことがある。非常に俗な話だ。というのは現在の法律では、迷宮で消息を絶った場合、たとえ仲間の証言があろうと最低一年間は死亡手続きができないんだ」
ブッチは顔を上げた。「――そうなんですか?」
「うん。遺体がなければね」
冒険者という職業が誕生して百年余り、法の整備はほぼ完成しつつあった。
なかでも迷宮で命を落とした場合の処理は最初期に制定された項目である。死んだと思われた冒険者が数日後にひょっこり姿を現した、などという例は珍しいことではない。パニックに陥った人間の目はそれほど信頼できるものではないからだ。
校長先生は続けて云った。
「となれば遺産の相続もその後で、ということになる。そこで問題となるのが、君の父は今期の授業料をまだ納付していないことなんだ」
いきなり現実に戻されたようにブッチは唇を噛んだ。
経済面のことは父に頼りきっていて何も知らなかったという顔である。
「それでね、ブッチ」ガートランド先生が同情をこめて云った。「君にはもう身寄りがないだろう? 母親も兄妹も親戚も既に死に別れてしまったんだってね」
ブッチは頷いた。
「その事を君が来るまでに話し合っていたんだよ。そしたらこの人たちが君の後見人になってもいいと申し出てくれたんだ」
「あー、それは故人と約束したからです」とクドリャフカ。「わたしたちは仲間に万が一のことがあれば、生き残った者で遺族の面倒をみようといつも話し合っていました。といっても結婚していたのはジャン・ジャックだけで、未成年の遺族はブッチだけですが。ジャン・ジャックはいつも息子のことを気にかけていました。わたしたちはブッチが成人して経済的に自立するまでは――」
と、その時だ。
黙って話を聞いていたブッチがふいに声を震わせて、
「……嘘だ」
と呟いた。
言葉を遮られて、クドリャフカが目を丸くする。
マルコも校長やガートランド先生も驚いてブッチに注目した。
「嘘だ……嘘だ嘘だ。親父が……僕を気にかけていた? そんなのは嘘だ!」
突如見せた激しい感情だった。
ガートランド先生が「どうしたんだ、ブッチ?」と尋ねても、ブッチは両手で耳を塞ぎ、いやいやをするように首を振り続けた。
「――どう思う。アレ」
その夜。
クドリャフカとマルコは宿に併設された酒場で遅めの夕食をとっていた。客席はほぼ満席でよそ者である彼らが秘密の会話をしていても気にする者はいない――都合のいい環境と運ばれてきた蜂蜜酒のおかげで、いつになくマルコは饒舌になっていた。
「何考えてるかわからんボクちゃんが突然キレて泣き叫ぶとはね。あの野郎、息子とうまくいってなかったのかな?」
「まあ無理もあるまい」
クドリャフカはサラダをフォークでつつき回している。
食欲がない様子で店内を見回した。
酒場の暖炉の上には、大きなヘラジカのトロフィーが飾ってあった。だから店名が<雄鹿のねぐら亭>というのだな、と得心する。
「――ガートランドといったか? あの先生によれば、ジャン・ジャックはこの三年間一度も息子の顔を見に来たことがないそうだ。誕生日カードも手紙のひとつもなし。休暇に他の生徒が帰省しても、ブッチは寮に一人で残っていたらしいから」
「それは俺たちと各地を飛び回っていたせいだ」マルコも頷く。「しかしそれでも冒険と冒険の合間があっただろう。何やってたんだろうな、まったく」
「お互いプライベートなことは話さなかったからな。ま、死んだ人間の悪口はやめておこう」
クドリャフカが諭して、しばし沈黙が訪れた。
酔客の陽気な歌声がやけに大きく聞こえる。
クドリャフカは豪奢な髪をかきあげ、頬杖をついた。
気になっていたのは、自分はいつブッチに会ったのかということだ。
冒険の前はどこかの宿屋で落ち合うのが常で、家族を紹介されたことはない。一つだけ心当たりがあるとすれば、以前リンツ家の前に馬車で乗り付けた時だ。なぜわざわざ迎えにいったのか記憶にないが、何か理由があったのだろう。
そして、もしかしたらあの時、小さな男の子が家から出てきて、馬車を追いかけてきたかもしれない……。
「なあ……これから、俺たちどうしたらいいんだろうな」
酔いがまわったのか、マルコは赤い顔をして云った。
重々しい口調だった。
「俺はさ、こんなことになるなんて想像したこともなかったよ……。あんなに頼りになる仲間にはもう会えねぇんだろうな。ジャン・ジャック。ピエール・フラン。それにアンジー……。みんな本当にいいヤツらだった……」
彼らにしたところで苦楽を共にしてきた戦友を一気に三人も失ったのだ。使命感を燃料に行動していてもふと陰が差す時がある。
残された者の苦悩――
「なあ、クドリャフカ。いっそ例のアレを賢者学院に提出して、やつらに任せたほうがいいんじゃないか……?」
「駄目だ」クドリャフカは即答した。
「でもパーティーが半壊した俺たちに何が出来る? グノーシス王家が素早く行動を開始しているはずだ。きっと選りすぐりの人材がなんとかしてくれるさ」
「駄目だ。何をいっている? マルコ、仲間の仇を討つんじゃなかったのか?」
「しかし――」
「それにこのクリスタルの中身は発表できない。これは……この記録は……『魂の力』を根底から揺るがしかねないものだ。まだ公にするべきじゃない」
クドリャフカは胸の辺りを手で押さえた。
彼女はウォームクリスタルに鎖を通してネックレスのように身につけている。
あの時、迷宮の奥地から持ち帰ったクリスタルは、もう一つあったのだ。
「もう一度パーティーを編成するんだ。そしてもう一度潜る。そのためには、ジャン・ジャックの息子――ブッチの適正を見極めなくてはならないんだ」
つづく