03.昆虫パニック!②
何かがおかしい。スティーブ以外、何もいないと言うのに誰かに見られている。そういう気配がこの部屋にはあった。一つや二つではない。無数の目にさらされているようだ。生唾を呑む。早くここから立ち去りたい気持ちがあるにもかかわらず、身体が言うことを聞かない。スティーブは身体が強張って進めないでいるのだ。なぜか視線は、虫が消えた暗闇から目を逸らせないでいた。意識してみているわけではない。見ていなくてはいけない、そんな気がして自然と向いてしまったのだ。
直後、複数の羽音。
暗闇の中でぐるりと影が蠢く。ゆっくりと重力を感じない動作で円を描くように回る。暗闇の奥で、まるで生き物のように動いている。
スティーブの心臓は激しく脈打ち、嫌な汗ばかり身体を伝う。逃げなければ。しかし、暗闇の中にいる何かに畏縮し、足が覚束ず思うように体が動かない。それでも震える身体に鞭打ち、一歩でも玄関に近づこうと足を延ばす。この現実味のない状況に、どうしようもない恐怖が足を引っ張るのだ。
また、どこからか羽音が聞こえる。暗闇の中からじゃない。部屋のあちらこちらからだ。それに加え、部屋がざわついているのも感じる。まるで部屋中が動いているようだ。
逃げなければ。
弾かれたように身をひるがえし、一直線に玄関に走りだす。背後でけたたましく、いくつもの羽音が飛翔し、部屋のざわつきも遠慮を失くした。振り返ることはしない。振り返れば終わりだということ直感が告げているのだ。
玄関のドアを勢いよく閉め、外に飛び出す。何者かが背後に迫っているような気がして、そのまま流れるように一気に階段を降り、アパートの入り口まで逃げてきた。しかし、振り返って見ると誰もいない。耳鳴りがしそうなほどの静けさがあるだけだった。
大した距離でもないのに息が切れる。深呼吸を一つ、二つ。街灯に手をつき、体重を預ける。
母が死んだ。管理人が死んだ。こんなこと、普通じゃない。スティーブは空想家でも妄想癖があるわけではないが、現実ではないことを考えてしまった。
虫に、殺された。
見たわけではない。ただ、そこにいた虫と羽音を聞いただけだ。けれど、頭の中で勝手にストーリーが構築されていく。
母は自殺なんかじゃない。管理人は心臓発作や心不全なんかで死んだんじゃない。部屋にいた人間が殺されたのだ。どんな理由があるかはわからないが、あの部屋にいた人間が虫に狙われているのは間違いないのだ。
こんなこと信じられない。しかし、そうとしか考えられない。裏路地に行けば、母の死体があるだろう。部屋には管理人が。いずれ、スティーブもそうなってしまうかも。
アパートの入り口に留まることは危険だ。虫が、やってくるかもしれない。ここから離れなければ。スティーブは街灯から手を放し、歩き始める。確か、このまままっすぐ行けば人通りの多い道に出るはずだと、頭も中の地図を広げ考えながらスティーブは足を進める。行先など考えてない。ここから離れることが最優先だ。車を拾って、離れてから考えればいい。今は逃げることが最優先。それ以外は後回しだ。
そう言い聞かせながら、頭を切り替えた。辺りを警戒しながら、通りに向かう。しばらく、歩いていると車のヘッドライトの光が見えた。もう少し近づくと、まばらに人がちらほら見え、スティーブは少しほっとした。行きかう車の中にタクシーを見つけると、手を上げて停車するように促した。タクシーはすぐにスティーブの近くに車を寄せ、ドアを開いてくれた。しかし、乗り込もうとした瞬間。
バチン。
背後で何か硬い物が弾ける音か聞こえた。金属とガラスが破裂する音。
振り返れば、アパート近くの街灯が一つ消えていた。するとまた、バチンと音を立て一つ割れた。今度は一つ手前の街灯が消えた。一つ、もう一つ。まるで、スティーブに迫るように暗闇がこちらに向かって来る。遠くから虫の羽音が聞こえ、息が止まった。
「出して!」
スティーブは叫んだ。運転手は行先を尋ねようとしたが、有無も言わせぬスティーブの勢いに負け車を発車させた。スティーブはリアガラスから後ろの様子を窺うと、暗闇は追いかけるように街灯の火を消して迫ってくる。しかし、さすがに車のスピードには負けるのか、やがては遠のいて行った。
まだ追ってくるかもしれないとしばらくはリアガラスから様子を見ていたが、追ってくる様子はまるでないことを確認するとようやく座席に身体を沈めた。
「お客さん、どこまでいくの?」
運転手が行き先を尋ねた。どこへ、などと考えていなかったが、口は「駅へ」と言葉を出していた。特に理由はない。しいていうなら、単純にアパートとは遠く別の方向へ行きたかっただけだ。決まった行き先なんてない。ただ遠くに逃げたら、この意味不明で理解不可能な出来事がなかったことになって、何事もなかったように夕飯を用意する母から「早く帰ってこい」と催促のメールが届くような気がした。
何なんだよこれは何なんだよと頭を抱え、泣きたくなった。
家には当然、戻ることはできない。だとすれば誰かを頼るほかない。事情を話して、助けてもらう。
そう思ってポケットから携帯を取り出したが、掛ける相手を思いつかない。警察、に話したところで信じてもらえないだろう。それどころか最悪、母と管理人を殺した犯人扱いされかねない。友人に匿ってもらうことも考えた。けれど、友人が巻き込まれてもしかしたら。そう思うと、電話を掛けられなかった。
そもそも、この状況を説明したところで信じてくれる人など早々いない。スティーブ自身も言われても信用しないだろう。しかし、次の瞬間一人だけ信じてくれると思った人物が頭に浮かぶ。家族を捨てた、あの男、スティーブの父親だ。そう思った自分に愕然とする。しかし、それ以外思い浮かぶ人物がいなかったのだ。父親とは何年もあっていない、連絡すら取っていないような父親。
いつの間にか、緊張していたスティーブはしばらく携帯を見つめ、思い切ってボタンを押す。携帯を操作し、ディスプレイに父の携帯番号が映し出される。母が半ば無理やり登録させた番号だ。登録する際に何かあれば、頼れと言っていたのを思いだす。
スティーブは父親が嫌いだ。父とも認めたくないくらいには大っ嫌いだ。母を捨て、自身も捨て、遠く離れて行った父親を大好きだと言える人間などいないだろう。だが、頼れる人物がその人以外に思い浮かばないのだ。鉛の入ったような重い手が這うように動き番号に掛けようとした。
その時、突然、けたたましく携帯のベルが鳴り響いた。慌てて携帯を操作するとディスプレイには見慣れた番号が映し出されている。さっきまで見ていた父親の携帯番号だ。一度も掛けたことも、掛かったこともない番号。どうして今そこから掛かってくるかわからなかったが、頼れるのは他になかった。
「もし、もし。」
震える指が通話ボタンを押した。
「あんた、スティーブ・ウィリスだな!?」
以外にも返って来たのは、若い男性の声。走っているのか呼吸が荒く、声が上ずり、心なしか大きい。おかしい、電話番号は確かに父親の物だったはずだ。心臓が早打つ。
「俺はあんたの親父さんの同僚のトーマス・ダルトリーだ。事情があって代わりに俺が掛けている。今は家か!?」
スティーブは答えられない。予想外の人物に尻込みするように「いえ、あの、」とうまい具合に言葉が出ないのだ。なかなか答えないスティーブにトーマス・ダルトリーと名乗る男は遠慮しがちに、今度はゆっくりと話しかける。
「突然で悪い。だが時間が無いんだ。さっきからジューンに掛けているんだが出ない。何かあったのか?返事をしてくれ。」
声を抑えてあるが所どころに緊張と不安を押し殺した硬い声が漏れる。本当に心配している様子だ。信じてしゃべってもいいのだろうか。そう思って息を呑むと、喉の奥がキリリと痛んだ。もう誰でもいい、この意味不明な状況から逃れられるのならば何でもよかった。差しのべられた手に縋らずにはいられなかったのだ。
「家には、いません。母は」
喉の底から引き絞ったかすれた声が出た。自分でも驚くような小さな声だ。自分の声に情けなく感じた時、頭の中にある何かがプッツンと切れた。そこから押し貯めた混乱、不安、悲しみ、孤独が堰を切って流れてくる。
「母は、亡くなりました。もう、何が何だか…。僕は、どうしたらいいですか。」
スティーブは、電話に囁くように説明した。母が虫に殺されたかもしれないこと。管理人がその巻き添えになって死んでしまったこと。自分も狙われていること。いつの間にかスティーブはすすり泣いていた。信じてもらえるとは到底思えない。けれど、反さずにはいられなかった。ただ、誰かに話したかった。それだけで良かったのだ。しかし、何一つ信じられる要素などなかったにもかかわらず、トーマス・ダルトリーは「そうか」と小さく囁くと、ひとり悔しそうな落胆を呟いたのだ。まるで、全てわかっていたかのように。
「信じてくれるんですか。」
スティーブは反射的に言った。
「事情は後で説明するし、話も聞く。だが、今は逃げることだけを考えろ。」
俺もすぐに行くから、とトーマス・ダルトリーは続けて言う。信じてくれたことに、スティーブは明らかにホッとしていた。そして、自分を信じ、案じてくれたことにまた眼元が熱くなる。スティーブは短く小さいが、素直に返事を返し、彼の次の言葉を聞こうとした瞬間。
ガシャンと、ガラスの割れる硬質な音と共に車体が一気に傾いた。
次回予告(嘘かもしれない)
恐ろしき暗殺虫の前にまた一つ命の炎が消えた。そしてスティーブにも血に飢えた暗殺虫の魔の手が迫る!次回、ESPers!『暗殺虫!お前の母を殺したのは俺だ!』ああ、また一人、命の炎が消えていく!
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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