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02.昆虫パニック!①

 こんなこと起きるはずがないと、母が起き上がって言って欲しかった。だが、そんな願いがかなわない。スティーブはただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。

 その時、玄関の扉を叩く音が聞こえた。


「ジューン、どうしたんだ。さっきから物音が聞こえて苦情が来てるぞ!ジューン。」


管理人がやってきたのだ。未だ呆然としたスティーブはなかなか動くことができない。すると、しびれを切らした管理人はマスターキーを使い、無遠慮に部屋に乗り込んできた。

「いったい何があったんだ…?」

 廊下を走り、寝室へ勢いよく入ってきた。管理人はそこで窓辺に立ち尽くし目を見開いて窓を凝視しているスティーブを見つけた。話を聞けないと思った管理人はスティーブが見ている先が気になり、窓を覗き見る。


「なんてことだ。ジューン。」


 管理人の顔は青ざめていた。警察を呼ばなくては、と思った管理人はすぐさま電話を掛けにリビングに向かおうとした。


「…母さんが、」


 ようやく我に帰ったスティーブが蚊の鳴くような言葉を発した。管理人は振り向き、スティーブの言葉に耳を傾ける。


「もう何がなんだか…。バスが遅れて、家に帰って、そしたら家に母さんがいなくて、探してたらッ、」


 スティーブの脳裏に母の姿が映る。血だまりに沈むように倒れている母。そして自分を映す鳶色の瞳。何もかも生々しく、現実に起こったとは考えたくもない情景。スティーブにとってあんなに血を流している人間はテレビや小説の中でしか知らなかったことだ。どれほどは痛かっただろうか。想像できないほど苦しかっただろう。そう思うと、涙が溢れた。呼吸が荒くなり、小さな子どもみたいに「それで、それで」と意味のない言葉を続け、仕舞いには次の言葉が上手く出なくなる。舌足らずの子どものように口ごもりながら、ありのまま起ったことを話すしかなかった。

 話を一通り聞いた管理人は、スティーブの顔を覗きこむ。管理人も顔色が悪いが、スティーブもそれ以上に顔色が悪かったのだろう。管理人は警察への連絡を自ら買って出て、スティーブに別室に休むように促した。気を使ってくれたのだろう。

 促されるまま寝室から出て、管理人が警察に連絡を取る間にキッチンで水を飲もうと水道の蛇口を捻った。生暖かい水がコップに溜まる。

 どうしてこんなことになったのだろうか。

 思い出そうとすると喉の奥が引きつる。脳裏にすぎる現実とは思えない光景に目の前がぼやけて、もう何も見えない。こんなこと起っていいはずがないのだ。母が、死んだなんて。夢か幻でも見ているのではないかと、瞬きを何度もして確かめてみても夢が覚めることも、幻が消えることもなかった。現実なのだ。

 シンクの脇に手をつき、目元を手でこする。この目で見たことは事実で、変えようのない現実だ。溜まったカップをあおった。身体に取り込んだ水が腹に納まり、腹を中心にサッと冷えていく。混乱と不安でカッとなった頭にも冷たさがいきわたった時、そこでふと異変に気づく。

 どうして母が死んだ。そんな考えが頭に浮かぶ。母は自殺をするような人ではない。理由がないのだ。そもそも、自殺をするならどうして窓を突き破る必要があったのだろうか。窓を開ければいいことではないか。自殺ではないとするなら、どうして飛び降りるのだろうか。眼鏡やティーカップの処理もせず、寝室に行く理由は何だ。これではまるで、何かに追い込まれて逃げようとしたようではないか。妙な考えばかり頭に浮かぶ。考えすぎかもしれない、そう思った瞬間。

 短い悲鳴が、聞こえた。

 悲鳴はリビングの方。コップをシンクに放り投げ、音の出所へと走る。考えすぎかも、と思っていたことに現実味が増す。『母は何者かに襲われた』としたら、今もその犯人が部屋にいる可能性がある。だとするなら、管理人が危ない。襲われている。

 怖い気もするが、助けに行かなくてはとスティーブはリビングに向かう。警戒して、身を低くしリビングを覗いてみる。この部屋は所謂リビングダイニングでキッチンはリビングの奥まったところにあった。しかし、リビングとキッチンの間には一枚のパーテーションに仕切られ、リビングからは見えづらい位置にある。見つかることはまずない、だろう。物音を立てなければの話だが。

 しかし、覗いた先にはソファーに座っている管理人しかいないのだ。こちらからは管理人の後ろ姿しか見えないが、何事もなかったようにソファーに座っている。悲鳴は気のせいだったのか、それともただ何かに驚いて悲鳴を上げたのか。とにかく、管理人に異常は見当たらなかった。

 何かおかしい。得もいえぬ違和感。何か妙だと、スティーブの本能が告げる。

恐る恐る顔を出し、辺りを見回しながら物陰から出て来たスティーブは管理人に近づいた。どうしたのか、声を掛けるも管理人の返事はない。二度、三度声をかけなおしたが、全くと言って反応がない。今度は肩を叩こうと、肩に手を添えた時。

 グラリ、と管理人の身体はゆっくり傾く。何の力もいれていないにも関わらず、そのままリビングテーブルに倒れたのだ。倒れた後も動かず、ピクリともしない。


「管理人さん!」


 思わず肩を掴むと、ぐらりと体が揺れ管理人の顔が窺えた。スティーブは管理人の顔に愕然とする。


「うっ」


 息をしていない。死んでいる。顔面は蒼白で、目を剥き、口を大きく開らいている。恐怖の形相だ。何か信じがたいものを見たのか、管理人の絶叫が今にも聞こえてきそうに顔が強張っている。これは普通ではない。スティーブは悲鳴を上げ、思わず管理人の肩を掴んだ手を離した。その衝撃で、管理人はまたしてもテーブルに倒れ伏す。恐怖の顔はスティーブに向けられ、その口から何か這い出てきた。

 ゴキブリだ。セミほどの大きさのゴキブリが舌を伝い、口から出て来たのだ。それも、一匹ではないようで、まだ口の奥にも何匹か潜んでいる。


「なにがどうしてッ!?」


 よく見ると管理人の顔や腕には無数の細かい傷があった。ほんの数分前まではこんな傷は影も形もなかったはずだ。しかも、その傷を作ったと思われる鋭利なものはない。カップの破片は落ちているが、転んで切ったとしてもこれだけの傷はできないはずだ。ではなぜ、管理人は死んでいるのか。嫌な空気が纏わりつく。

 そう思った瞬間、体に電流のような刺激が身体中にいきわたり、背筋を這うような気味の悪さを感じさせた。この部屋で何かがあったと直感的に感じ取ったのだ。確証などはない。スティーブは「ここから離れなくては」と本能が伝えている。ここから離れなくては。スティーブはそう思い、急いで玄関に向かった。

 その時、背後から音が聞こえた。日常で聞き慣れた音だ。虫の羽音。天井から聞こえてくるようであったが、床からも聞こえてくる。見えないがスティーブの周りをぐるりと旋回し、やがては遠ざかっていった。振り返って見ると、消えていった先には暗闇が蠢いていた。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

これからもよろしくお願いします。

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