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狂い鬼の花

作者: 古深

 走っていく道の先に、貴方の姿がないことなどとうの昔に知っていた。

 それでも立ち止まれなかったのは、振り返ったそこに、優しい笑顔を見ることが辛かったからで。

 私はただ、がむしゃらにひたむきに盲目に、前を目指すことしかできなかったのだ。



* * *



 人里のざわめきと、溢れかえるばかりの生活臭が苦手だ。


 二月ぶりに森を出、道とも呼べぬ細く荒れた散策用の小道に踏み入れて一刻。目指していたはずの里を前に、結はひとり鼻にしわを寄せた。あぁ、人々はどうしてこうも雑多な匂いの中で平気な顔をしていられるのだろう。


 思わず足を止めかけ、すれ違う商人らしき男に不審げな眼差しを投げられて気を取り直す。さも足元に石があったかのごとくよける仕草をすれば、ぎょろりとした黒目は無関心に通り過ぎて行った。


 ため息を肺に押し戻し、踏み出した足を向けるのは里の中 ―― ではなく、外縁をぐるりと囲う石壁の入り口だ。近頃騒がしくなったという鬼に備え、誰かしら警護の者がいるだろう。案の定、閉ざされた木格子を叩くまでもなく武骨な男が顔をのぞかせた。四角張った顔にいかめしい表情を浮かべる、結よりも頭ひとつも背の高そうな偉丈夫だ。


 「見かけない顔だな。物乞いか、武器商か、はたまた気狂いの芸人か。まさかここで雇われようという馬鹿じゃあるまい」

 「残念ながら、私はその馬鹿にあたるようですね」

 「その細っこい腕っぷしじゃあ刀も握れないだろう。世迷言は物見小屋でぶちな」

 「たしかに形は枯れ木に例えられることばかりだけれども、こんな腕でも紋のひとつやふたつ、切ることはできますよ」

 「ほぉう、紋切り屋だと?」


 ぴく、と片眉をはねる表情は見慣れたものだ。そんなものは意識から排除し、左手を右の袂へ突っ込む。途端、わずかに右足を引いて構えた男の気配に、心の内だけでふ、と笑った。どうやら、いかつい見かけだけの軟弱者ではないようだ。


 伸ばした指先に、雑紙のざらりとした感触。それを何枚か繰って、目当ての札を引きだす。意識してゆっくりと右手を下ろせば、表の文字を見たのだろう、男の表情が緩んだ。


 「なんだ、治し屋か」

 「一人旅できる程度には、撃ち手も持っておりますがね」


 挨拶代わりに、と札に息を吹きかければ、若葉の淡く滑らかな香りをまとう風が一陣、男を包み霧散する。疲労回復の術は、無事お気に召したらしい。結に向けられる声から棘がぐんと減った。


 「ちょうど明後日、鬼狩りが一件入っていたところだ。これでこのあたりの鬼はしまいだからっつって、前の狩りからそう間もないってのに事が決まったもんでな。ちょいちょい怪我をしてる野郎がいる」

 「三、四人であれば、手持ちの札ですぐに治せますよ。もし明日も暇があれば、護りの呪もご用意できますが」

 「ふん、大頭に話を通しておいてやろう。宿は決まっているか?」

 「いえ、生憎」

 「なら、そこの通りの狐屋に入りな。こいつをやっておこう」


 無造作に投げられたものを左手で取れば、それは指ほどの厚みの木片だった。表にかえすと、この土壁を守る武師団の銘らしき文字列と印がある。触れ慣れた質感からすると、桜を用いたもののようだ。反射的に右手に走った震えを抑えるように拳を握ると、結は意識して口角を持ち上げた。


 「ありがたい。それでは、狐屋に世話になりましょう」

 「半刻は部屋にいてくれ」


 つまり、今日中に治療をするならばそれまでに知らせが来る、ということだろう。心得た、と顎を引き、結は今度こそ里の中へと足を向けた。背中を追う視線は数歩のうちに外れ、男が壁に引っ込んだと知れる。首尾はまずまず、といったところか。右の袂を軽くゆすり、札をきちんと納め直した。


 他所からの納品にやってきたらしい車を横目に、大通りを進む。大抵の里と同じく、ここも壁の狭間と狭間を繋ぐ通りはぐんと広い。大の大人が通せん坊の恰好で、六人ほど並べるだろうか。鬼に余計なちょっかいをかけられまい、と素通りさせるべく広げられた大通りに、里人にとって馴染み深い店や長屋はほとんど建てられていない。代わりに目につくうちのひとつが宿であり、それも通り沿いからのぞくのは看板ばかり。玄関口は脇に作られている。


 鬼狩りが近いと通達されているからだろう。人影の少ないおかげで、狐屋の在り処はすぐに見つかった。人を化かすために使うという木の葉を咥えた皮肉な絵を添えた看板は、端にひっそりと武師団の印を飾る。里公認の協力者、ということだろうか。


 ふと浮かんだ仮定は、すぐに正しいと証明された。


 「旅の方、うちにお寄りになりませんか」

 「元よりそのつもりで参りました」

 「あら。ご贔屓の方ではありませんよね。それとも、あたしのお頭がすかすかになっちゃったのかしら」

 「そんなことはありません。運よく紹介を受けただけで」


 手にしたままだった木片を差し出せば、浅葱の袖を揺らして娘がそれを検める。客の呼び込みに出ていたのだろう、結より二つ三つ幼げな形の彼女は、あらまぁと目を見開いた。


 「女の一人旅というのでも珍しいのに、あなた、狩りを?」

 「私が相手をするのは鬼でなく、奴のつけた傷ですよ」

 「あぁ、治し屋さん! ちょうどいい時に」


 ぱっと表情を明るくするところは随分とかわいらしい。だから余計に、若い女が狩りの動向を気にかける違和が強まった。


 こちらの怪訝そうな顔に気づいたのだろう。はっとして頬に右手をやると、娘は意味なく左手をぱたぱたと振る。


 「あぁ、あたしは別に、男衆のやることに首を突っ込むつもりじゃないんですよ。ただ、うちの兄さんが前の狩りで怪我をしていたもので」

 「なるほど、狩りに参加されるお方がお身内に。それでこの印が看板にあるんですね」

 「えぇ。武師団の人間がいる家ですからね、支援だってやりますよ」

 「おい、お客さんをいつまで店先で足止めするつもりだ」

 「っと、いけない。さ、どうぞ」


 奥からの低い声に首をすくめ、すぐさま右の手のひらをかえして誘う仕草に素直に従う。帳簿を前に座る、声をかけてきた男 ―― おとらく娘の父親だろう ―― に軽く会釈をした拍子、女の好む焚き染めの香りが、仄かに鼻先をかすめた。その控えめさに好感が持て、心中の箍を少し緩める。片手で数えられるほどの日数といえど、我が身を預ける先の居心地が悪ければ体に毒だ。いい宿を知らせてくれた門の男に感謝する。


 記帳をし、案内されるままに一人用の部屋へ入る。備品の説明と茶の用意をすませると、にっこり愛嬌のある笑みを置いて娘が引っ込んだ。清潔そうな寝具と、よく拭きこまれた卓袱台。照明に仕込まれた札をちらりと返せば、夕陽にも月明かりにもなじむ穂色に設定されている。客の気を引こうとあれこれ物が積まれているよりもよほど趣味がいい部屋だ。


 結は肩から荷を下ろすと、貴重品だけを懐に、すぐさま札の用意を始めた。紋切り屋を名乗る以上、手指の動きに気を載せるだけで術を編むこともできるが、怪我人への負担を思えば補助媒体は欠かせない。切り傷、打ち身、骨接ぎに熱冷まし、と作り置きのある札を並べ、足りない分はすぐに刷れるよう、墨と紙、版木も出しておく。傷口に触れることを考え、汚れていない手拭いを引っ張り出して手を清めると、ようやく茶に口をつけた。


 こくり、こくりと少しずつ喉に流れ込む熱さが心地良い。ふぅ、と息をついて目を閉じれば、宿周辺の物音が耳を刺激した。里に入る前に多少感覚を絞ったはずだったが、制御が甘くなったようだ。まぶたを下ろしたまま、さらに視覚を閉ざすようにぐっと力を込めて五感を押し込める。表通りの音が遠くなったと薄目を開くのと、戸の脇の呼び板を軽く叩く音が聞こえるのが同時だった。


 「ユイさん、着いてそうそうで悪いけれど、ちょっと時間をもらえますか?」

 「門から知らせが来ましたか」

 「察しがいいのね」


 遠慮がちな娘の声を受けて部屋から顔を出せば、ほっとしたように手招きされる。そう案じられなくとも、自分から言い出したのだからきちんと出向くつもりはある。そう苦笑をこぼし、ついで深く俯いて表情を隠した。あぁ、違う。彼女の心は、客が口約束を守るだけの誠実さを備えているかを憂いているのではなく。ただ、家族の痛みを一呼吸の間でも早く取り去りたいと、案じているのだ。



 ―― 私にはもう、彼の人の安寧を祈ることすら叶わないというのに。



 「こちらです。足許に気をつけて」

 「今行きますよ」


 じわりとにじんだ苦みを舌の上に抱えたまま、結は娘の手招きに応じて足を進めた。



* * *



 「いかがですか。皮が突っ張るように感じたり、膝の曲げ伸ばしで太ももがしびれたりはしませんか」

 「いや、まったく。これはたまげた」


 己の左足を擦り擦り、言葉どおり驚きに目を見開いた男 ――太吉というそうだ―― の隣で札を繰る。どうやら、追加の処置は必要なさそうだ。念のためにと痛みを和らげる効能を持つ札を引き抜き、軽く気を込めて風を呼ぶ。これで、急な激痛に身動きもとれないまま意識を飛ばすなどということも防げるだろう。


 残りを袂につっこんでひと息つけば、敷布に座り込んでいた男が姿勢を正す。痛みをこらえるように、その忍耐を悟らせないように、ひたすら縮こめられていた身体がぐんと伸び、正座をしている結よりも目線が高くなった。とはいえ、あからさまな感謝のにじむ目許の緩みに、見下ろす威圧感は欠片もない。


 「本当にありがとうございます、治し屋殿。まさかこうもはやく、この怪我とおさらばできるとは思わなかった」

 「こちらこそ、余所者に素直に診られてくださって助かりましたよ」

 「まさか、治療を拒まれたことが?」

 「いえ、札だけ置いていけとうつけたことを言い出す輩がおりましてね」

 「そいつは道理をわきまえない。世の中にはよっぽどの阿呆もいるもんですね」

 「本当に。ユイさん、あたしらの飛び込みのお願いを聞いてくださってありがとうございました」

 「いいえ。これも仕事のうちですから」


 武師団の上役殿に、うまく売り込んでください。そうなけなしの茶目っ気を出せば、心得たと頷く仕草はそっくりだ。仲の良い兄妹の素直な反応に、ひとまず職の確保はできたとみて足を崩す。術を切り始めてから放置していた茶に手を伸ばすには、卓袱台が少し遠かった。


 一口すすり、猫舌のきらいがある結には程よい温度だ、とさらに湯呑を傾けようとしたその時。背を向けた廊下側でかたりと木が鳴った。


 「お? もう終わってんのか」

 「あ、組長」

 「ちょっと遅かったですね」


 とっさに半身を返し、視界に入ったのは、門で声をかけてきた男だった。役付きだったのか。それならば、独断で試しをつきつけてきたのにも納得がいく。


 あらためて挨拶をすべきか、と湯呑を置いたところで、カタイのはいらん、と手をひらひら振られる。そのままどっかと胡坐をかくので、とりあえず向き直って座り直す。怪我人のために清潔に整えられた中では、男の無骨さが際立つようだった。畳に落ちた影は広く、太吉の様子をうかがって身を乗り出すせいで急に部屋が狭くなったようにも感じられる。


 さりげなく札をしまい、身を脇にのけて試しの評価を待つ。宿の娘が茶を用意しだしたところで、男が口を開いた。


 「太吉が言ったように、俺はこの里の団のうち、呂の組を預かってる。俺らは鬼と真正面からぶつかるのが仕事だからな。一番怪我を抱えやすい。ってことで、治し屋の確保は俺の権限のうちなんだよ」

 「組長殿から見て、私の腕は雇うに値しますか?」

 「十分だ。太吉の怪我、左脚の太ももからひざがぱっくり割れてたはずだろう。それがぴったりくっついて平気そうな面してんだ。他の奴らもさっさと診てやってほしいところだ。引き受けてくれるな」

 「もちろんです」


 結の返事に満足そうににやりと笑うと、組長は娘に差し出された湯呑を片手に、ぐっとあおる。結に出されているのと同じらしいそれは、刀を握るごつい手の中で随分と小さく見えた。ひと息に飲み干したところからすると、中味も少々不足気味らしい。


 「名乗ってなかったな。俺はここらじゃあ寅で通ってる。ま、狩りが終わるまでよろしく頼む」

 「これはご丁寧に。私は結と申します。どうぞよろしく」

 「丁寧だったか、今の?」

 「寅さんとは対極の言葉よね」

 「お前ら聞こえてんぞ」


 いつもこんなやり取りをしているのだろう。怒るというよりは呆れきった顔の熊に、悪びれもしない兄妹。


 こんな時間が、いつかあった。あの方と、彼の人と、皆とともに笑い集った時間が。



 ―― 今は、もう戻らない。



 「さて。それでは、次の仕事をお伺いしても?」

 「おう、そうだったな」


 割り込むように口を開けば、寅が懐に手を突っ込む。かさりと取り出されたのは、四人分の名前の羅列と、狩り当日の簡単な予定が記された紙だった。見やすいよう皺を伸ばしたそれを畳に置いて、寅が右端の名を指さす。


 「これが、今ちょいと使い物にならない程度に怪我しちまってる連中だ。といっても、どいつも腕やら脚やらを壊してるだけだからな。明日一日かけて治してやってくれ」

 「怪我人を動かすより、私が出向いた方がいいでしょうが、皆さんはどちらに?」

 「ふたりが実家、ふたりは武師団の治療所だ。実家の方も、あんたが行って問題ない。案内は任せた、太吉」

 「お安いご用です」


 よろしく、と軽く会釈をすれば、太吉の方もにっと笑って頷いてくれる。組長の言葉には従うのが当然、と思っているのが伝わってくる仕草だ。この分なら、妙な気を起こして治し屋囲い込みのために独断で動かれる、ということもないだろう。素直に案内されることにする。


 「いきなり歩き回って、大丈夫?」

 「平気平気。いきなり狩りに行くよりか、慣らしておいた方がいいしな」

 「もし動かして具合が悪いようだったら、痛み止めなりなんなり、私のほうで対処もできますから」

 「あ、ごめんなさい。疑ったわけじゃないのよ」

 「わかってますよ」


 罰の悪そうな娘に言って、寅へと向き直る。まだ、後半分の説明をもらっていない。


 心得たように伸ばされた指が、『守護』の字を叩いた。


 「で、だ。あんたには、狩りの日の護りの呪も頼みたい」

 「団の方々へ?」

 「おう。里には里の専属がいるんだがな。逆にいえば、あいつらは里の外に出たがらねぇ。出発前にどれほど強力な呪をもらっても、鬼を目の前にして切れちまえば意味がねぇからな。引き受けてくれるか」

 「えぇ。ただ、できれば今回出てきた鬼の特徴を知りたいところですね」

 「そりゃ当然だ」


 結が仕事を引き受けるとなった途端、いくぶん気が緩んだらしい寅が、はじめて目尻まで下げる笑みを見せた。それでも強面ぶりが軽減されないあたり、どこまでも武師向きな人間だ。


 そのいかつい顔を上向け、無精髭の生えた顎を撫でながら、寅は獲物である鬼について思い出し思い出し話し始めた。


 「そいつを見たって奴らの話によると、鬼は二本足らしい。四足の獣型なら、森に潜みっぱなしになんぞなってないでとっくに里を襲ってるだろうから、人型でちっとは頭のまわる奴なんだろうってのが俺らの考えだ。壁を突き破ってこようとはしないで、行商の奴らをもっぱら狙ってるんだと」

 「荷だけさらっているわけではないんですか」

 「たいていは荷だけひっつかんでとんずららしいんだがな。娘っ子がいるとちょっかいをかけてくるらしい」

 「それ、ユイさんが危ないんじゃないですか?」

 「だな。組長、ついてきてもらったら、かえって鬼を煽る気がしますよ」

 「いや、平気だろう。奴が反応するのは、親子連れか夫婦の片割れだけって話だ。あんた、この辺の出身じゃないだろう?」

 「そうですね。その条件にあてはまるような相手は居ませんよ」

 「なら問題ねぇ」


 組長に言いきられてしまえば、平の団員に口出しなどできるはずもない。揃って口元を引き結んだ兄妹を前に、結はことさらゆったりと動いた。組紐で括っただけの黒髪が、さらりと首筋をなぞる。


 「それでは、今日はこれで失礼しても?」

 「あぁ、歩きで来たってのに、着いてすぐ話しこませて悪かったな。明日は、怪我した奴らのためにもそう早い時間から動かなくていい」

 「承知しました。私は部屋に戻りますね」

 「あ、ユイさん、夕飯はどうします?」

 「宿で用意していただけますか」

 「はーい。夕の二の鐘が鳴ったら運ぶから、ゆっくりしてくださいね」

 「では、お言葉に甘えて午睡を楽しむとしましょうか」


 膝を伸ばし、腰を起こし、前に垂れてきた髪を背に払って。静かに立ち上がれば、引き止める者はいない。


 結はひとり、借り受けた部屋へと引き返した。



* * *



 「ヌシ様、ヌシ様」

 「どうした、乾」

 「ほら、西の堂に置いておいた酒がいい具合に出来上がりましたよ」

 「おや、もうそんな時期か」


 穏やかで低い女の声が、はしゃいで一段と高く響く男の声を受けて笑みを含む。ほら、と差し出された杯にほっそりとした腕が伸び ―― 墨をつける前の柔らかな筆の穂先に、ぺちりと叩かれた。


 「ヌシ様、まだお仕事が残っているわ」

 「そうであったな」

 「邪魔をするなよ、アヤ」

 「ヌシ様のお邪魔をしているのは、どこからどう見てもあなたよ、ケン」


 つん、と顎を上げて男 ―― 乾を見下ろすのは、冷たい相貌に似合わず甘い声をした少女だった。歌に草紙、お堅い学術書であろうと優美に詠みあげるその声は、乾を前にした時だけぐんと棘を増す。その温度差にくつくつと笑ってみせる神経の持ち主は、呑気に頬杖をして三人を眺めていた。


 「アヤ、ケンに何を言っても無駄だと知っているだろう」

 「無駄とはなんだ!」

 「それでも言わなければ、心の病にでも罹ってしまいそうよ」

 「そいつを治す薬は、なかなか難しいね」

 「そなたでもか、庫」

 「クラにも薬がつけられないのでは、諦めた方がよさそうね」

 「誰も彼もが俺に冷たい……!」


 ちくしょう! と飛び出した悪態は、文の肘打ちという形で乾に戻った。それもからからと笑って見ているばかりの庫を前に、おしゃべりに興じながらも書類を繰り、筆を下ろし、と仕事を続けていた主は、そこでようやく手を止めた。


 「さて、しばし休憩としようか。刻と結は?」

 「ここにおります」

 「遅くなりました」


 別室でそれぞれに割り振られた役目をこなしていたふたりは、主の執務室の前でばったりと出会い、戸を引いてみればいつも通りの漫才をこなす友人らを前に、口を挟むこともせず佇んでいたのだった。それはもちろん、乾と文のやり取りに困惑したためではなく。


 「相も変わらず、君たちは楽しいな」

 「仲の良いことで」

 「誰がコイツなんかとっ」

 「わたくしをコイツ呼ばわりできるほどの何が貴方にあるというのかしら」


 ただ、芝居を見物するように楽しんでいたがためだった。


 主とそのしもべたる五人は、とある国の山中、普通の人間が決して寄り付かない霊峰と呼ばれる土地に簡素な屋敷を構えて暮らしていた。仙の一員である主は、時の流れと共に人里から退き、諸先輩から押しつけられる仕事を受け流しやすいよう、高い高い山に根を下ろした。


 共に暮らすのは、主を一心に慕う乾に、冷静さで群を抜く文。飄々と山を歩き回る庫と、物静かに仕事をこなす刻、それに常に微笑みをたたえ家を整える結の五人だった。誰がいつから暮らしを共にするようになったのか、当人たちも正確に把握してはいなかったが、主たる仙と過ごす日々は穏やかに優しく、ただあたたかかった。



 それが崩れたのは、主の身体に病が宿った時だった。



 仙の身すら蝕むそれは、天命なのだ、と微笑む女を前に、乾がまず膝をついた。日に日に色を失う頬を、動かなくなる腕を、ただ眺めることしかできない我が身に耐え切れず、仙の位を失い儚くなった主と共に、火中に身を投げたのだった。


 次に崩れたのは、文だった。一度たりと己に目を向けず去った乾に心を寄せていた彼女は、屋敷を一人発ち、今も行方が知れない。屋敷で命を絶つことを良しとしなかったのは、主と添いたいという乾の想いを汲んだがためだったのか。それすらも、残された者にはわからなかった。


 持ちこたえた三人のうち、庫は文を探して旅を始めた。ただ眺めるばかりだった自身を省み、遺された文の心を救うことはできなくとも、せめて、ひとりにはさせたくないと言い残し、国中を歩いているという。


 そうして刻と結は、人里へと下り、兄妹として家を借り受けた。いつか文や庫が彷徨うことに飽いた時、帰れる場所をつくりたい、と願って。



 ―― その願いが果たされる前に、二人もまた、分かたれることとなってしまったけれど。



* * *



 「そっちいったぞ!」

 「ちぃ! おっらぁっ!」


 ギィィン!


 「ぅおっと」

 「太吉、怪我ねぇな」

 「まだまだいけます!」

 「呪を上掛けします。 ―― 『護輪』」


 紋を切り、今し方鬼の拳をかすめた太吉に守護の呪を載せる。礼代わりに左手をふってさっと戦列に戻る背を見送り、結は新たな札に指を伸ばした。


 目の前には呂の組の武師団が寅を筆頭に十二名、二人ずつに組んで鬼を取り囲んでいる。囲まれる鬼の頭は、男たちの背に阻まれながらも結の目に届くほど高い位置にある。七尺に及ぼうかという体躯は、墨色の着物をまといひょろりと長い。鍛え上げられた武師の身体に比べれば幾分弱々しげにも映るが、人間勢を目にした途端右手に構えたのは、自身の身長に匹敵する長さの槍だ。材質は何なのか、刀の刃を受けて響くのは鈍い打撃音。度重なるそれを耳にしながら、結はふと目を左へと走らせた。


 「熊、次を受けろ!」

 「承知」


 ゴゥン!


 鬼の槍が振り下ろされた先、結の太ももほどもある棍棒でもってそれを受けたのは、名にし負う分厚い巨体の男だ。寅の指示通り、鬼の一撃を流さず留め、踵を地面にめり込ませながら歯を食いしばる。


 「撃て!」

 「―― 『鎌鼬』」


 ッュン!


 鬼の動きが止まる、その一瞬を見逃さずに叩き込まれたのは、攻撃系の紋をかじった武師の一打。眉間に首筋、両の肘、脛、と狙いを定めた風の刃が形無く飛ぶ。とっさに首を振り、熊から距離を取るように飛びすさった鬼は、左脚に深い切り傷を負い声なき声で呻いた。


 そう、鬼はこれまで一言も発していなかった。気合いも、怒りも、痛みも、何も。まるでその面を覆う能面と同様、感情など身の内に抱いていないかのように。


 「ったく、どこまでも気味の悪ぃ野郎だなぁ」

 「鬼に小気味良い奴なんざいねぇでしょう」

 「にしても、こいつは極端すぎだ。どんな鬼でも、怪我すりゃ怒り狂うし、挑発すりゃあ戦意をぶつけてくるもんだ」


 それなのに。逆接を飲み込んで、男たちが跳ねる。右足を軸に深々と身を沈めた鬼が、円を描くように槍で薙いできたからだ。目口だけ申し訳程度に穴を開けた白い面の向こうに、今、どんな表情が浮かんでいるのだろうか。男たちに問えば、一様に『無表情』と答えられるだろう。



 ―― けれどきっと、今、彼は。



 きゅ、と下唇をかみしめ、結は面を上げる。真っ直ぐ見つめるのは、鬼の面、その目許の穴だ。瞳の動きも満足に伝えてこないそこから、彼女だけは鬼の疲労を読み取っていた。もうすぐ、決着がつく。


 「『守壁』の呪、間もなく切れますよ」

 「俺らと、右の二人にだけかけてくれ!」

 「はい。 ――『守壁』」


 全身を薄い膜で覆う『護輪』と異なり、『守壁』は頭と胸元を盾のように厚い面で守る呪だ。これをかけ直す時、寅は毎回鬼に連続攻撃を仕掛ける。この一刻でそんな作戦を見てとっていたから、結は呪の効力切れより早めに声をかけた。


 案の定、結が札を捨てると同時に四人の武師が飛び出していく。槍と拳で応戦する構えを取った鬼は、四人の刀が間近に迫ったところで、ふと握りを緩めた。戦闘に身を投じる男たちに、それは隙と映り、結には、何かに安堵したように緊張を緩めた姿と見えた。


 「「っだぁぁあ!」」

 「「ゃあ!」」


 攻めをいなしきれず膝をついた鬼に、快哉が上がる。止めを刺すべく振り上げられた寅の腕を、傷を負った鬼がついと見上げた。その横顔。面の向こうには、まだ余裕がうかがえるはずだ。避けることも、転じて武師団を薙ぎ払うこともできる。それでも動かない鬼は、ただ細い穴の向こう、ちらりとこちらに眼差しを向けたようだった。受け止め、結の口からはあぁ、と声が漏れそうになる。



 ―― やっと解放されるって、笑ってるんだ。



 肺の上に重石を乗せられたように息が詰まる。予備の札をくしゃりと握りつぶしそうになって、無理やり袂につっこんだ。


 同時に、寅の刀が振り下ろされる。


 カァァンッ……ドンッ


 金属同士がぶつかり合う音に、癇癪玉を分厚い布にくるんで破裂させたようなくもった破裂音。男たちの息をのむ音が続いたかと思えば、それは一転して歓声に変わった。


 『よっしゃぁぁぁ!』

 「お前ら、よくやった。これで狩りは終いだ!」


 晴れ晴れとした寅の目の前に、あれほど大きかった鬼の姿はなく。ただ『核』と呼びならわされる、人の頭ほどもある鈍色の球が転がっている。多種多様な姿を持つ鬼の共通点が、この『核』を持つことであり、これを出現させることが鬼狩りの最終目的なのだった。


 「怪我が残っている方はいらっしゃいますか?」

 「誰かいるかぁ?」

 「舐めときゃ治るようなのしか残ってないっす」

 「戦闘中の処置、すげぇ助かりましたよ」

 「こっちも問題ない」

 「ふん、大丈夫そうだな。ありがとうよ、紋切り屋」

 「いえいえ。皆様、お疲れ様でした」


 思い思いにかけられる感謝の言葉を笑顔で受け、核を抱え上げた寅の目の前に歩み寄る。


 「どうした? 報酬なら、里に戻らねぇと用意がない」

 「それは後で構いませんよ。それより、その核はいかがなさいますか」

 「このあたり締めてる街の紋問屋にまかせるつもりだが。んなこと気にするってこたぁ」

 「えぇ。私も処理をするすべを心得ております。認証もここに」

 「そんだけの腕を持つ奴が、どうしてこんなとこをふらついてんだか」

 「……探し物を、しているもので」


 問いかけの形をしてはいるが踏み込んではこない、そんな寅の言葉に何故応じたのか。自分でもわからないまま、結はそっと、それだけを告げた。探し物。探し者。追い求める、彼の人。その面影がよぎったまぶたを、きつく瞬く。


 今この目に見えるのは、戦闘にところどころ荒れた、森にぽっかり開けた広場であり。汗を拭い傷を押さえながら、達成感に笑いあう男たちであり。寅の腕の中で沈黙を保ち、鈍く陽光を弾いている球体だけだ。


 「探しもんな。鬼に荷でもかっさらわれたか?」

 「当たらずとも遠からず、といったところでしょうか」

 「なら、核を割れるってのも頷けるな。こいつは任せる。報酬は」

 「要りません。これは私の都合ですから」

 「欲のないこった」


 呆れた風なため息にも笑ってみせて、結はくるりと踵を返した。里へ戻り、報酬を受けたら、すぐにでも旅立つ準備をするために。


 捜し者は、とうとうその細腕に戻ってくるのだから。



* * *



 「すまない、結」

 「待ってください、どうして急に出て行くなどと」

 「本当にすまない。君には何の非もないんだ。ただ、僕があまりに未熟だったから……いや、逆かもしれない」


 いずれにしろ、もう二人で暮らすことはできない。そう告げる刻の表情は、ともすれば置き去りにされる結よりも痛切だった。常に微笑みを絶やさない男の、今にも泣きださんばかりの張り詰めた空気に、結は言葉を呑みこむほかない。それでも胸の内には、何故の一言が泳ぎ続ける。なぜ、何故、ナゼ。どうして遺された二人、寄り添って生きていくことさえ否定されなければならないのか。


 喉を焼く熱が、結の眦にも涙をにじませる。それを見て持ち上げられた刻の右手は、しかし何に触れる事もなく下ろされた。すまない、と絞り出される声は、涙を留めるどころか新たに誘い出し、結を俯かせる。


 「僕が、これほど人に近づかなければ、きっと一緒に居られたのに」

 「こ、く?」

 「ただ二人、兄妹のように共に過ごし、昔を懐かしんでいられたのに」


 独り言のような言葉が、結の耳に落ちる。


 人に近づかなければ ―― 情などというものを、体得しなければ。


 兄妹のように共に過ごし ―― それはつまり、結を妹のように思わなくなった、と。


 おぼろげながら像を結びだした答えに、結ははっと両の拳を握った。もしかして、いやしかし、とせめぎ合う己の声を振り払い、刻の顔を見ようと顔を上げて。


 その面に前触れもなく現れた能面に、絶望した。


 「僕はもう、人でも、それ以前のものにも戻れない。鬼になり果ててしまったのさ」

 「待って、刻。話を!」

 「さよならだよ、結。僕が君を殺してしまわぬうちに」

 「刻!」


 呼びすがる結の目前から、刻が一足で飛び退る。その手に、何かが握られていた。何だ、と見極める前に、長身をしならせて鬼が飛ぶ。


 「息災に。幸せに。 ―― どうか」


 僕を、忘れて。


 そんな身勝手な言葉をどうして受け入れるというのか。言い返す前に、結のたった一人の家族は、姿を消した。


 「忘れて、なんて言いながら。貴方は何を持っていったの」


 力が抜け、膝が崩れ。腰と同様、地についたものがある。きっちり結い上げられた、豊かな黒髪だ。それをまとめていた櫛は、彼の人が持ち去っていった。まるで、形見のように。まるで、楔のように。そうされてしまえば、忘れることなどできるはずもない。はたはたと涙の滴をこぼし、それがとうとう枯れ果てる頃に、結はひとつの決断を下した。


 「絶対に、忘れてなんてあげません」



 ―― 鬼になったというのなら、私があなたを下しましょう。



 それが、結の旅の始まり。鬼に身を変えた大切なただ一人を取り返すための、長い永い流離いの引き金であった。



* * *



 人里を離れ、慣れ親しんだ自然の気に満ちる、山を登って。人は眠り獣たちが我が物顔に歩き出す夜半に、結は足を止めた。深い深い木々の中でも殊更太く高い、樹齢は三桁にも上るだろう立派な樹を前に、女の身はひどく小さく映る。しかし、それを見上げる眼差しは静謐さを宿し、山中の孤独など欠片も感じてはいないようだった。


 背には旅荷を、腕には風呂敷にくるんだ核を抱え、立ちすくむことしばらく。人のなりをしながら木々に溶け込む結に、虫も獣も構い立てはしない。元より彼女には山を傷めつける意志などないと、知れているからだろう。ただその周囲からは生き物の気配が遠のき、異様なまでの静けさが結の身を覆っていた。


 「そろそろ、始めましょうか」


 樹の頂を、あるいは見えるはずもない空の月を眺めるように仰のけていた首が、ふと手元に向く。丁寧な手つきで風呂敷から取り出された核は、月光も星明りもないのに、微かに白い光を放っていた。女性らしい細く、けれど紙を繰り切り傷をいくつも拵えた指が、そっとその表面をなぞる。


 「元々、私たちは人非ざる身。ある意味ではこの姿のほうが、よほど私たちらしいと言えるかもしれませんね」


 語りかけるような声に、昼の戦闘を見ていた時のような焦燥感も悲壮感も、既にない。笑みこそ浮かべていないものの、結の目つきも、飽きることなく核に触れる手つきも、慈しみにあふれていた。


 人非ざる身。結たち ―― 昔、とある仙に仕えた五人は、もともと主の持ち物にすぎなかった。長の年月を仙と共に過ごし、仙気に触れて使われるうち、意識を持ち、仮初めの肉体を与えられ、主に尽くすというただそれだけのために生れ出たのが、結たちしもべのはじまりなのだった。


 人のなりをしていながら、人間とは全く異なる魂を宿すもの。それだけを言えば、結たちは鬼にこそ近い存在と見ることもできた。だからこそ、刻が瞬く間に姿を変えたことにも説明がつく。人の身に余る激情を、人にすぎぬ身に収めようとして生まれ出るものが、鬼なのだから。


 「貴方の姿は変わろうと、その魂は変わらぬままなのでしょう。なればこそ、彼らの攻めに抗いもせず、討たれたのだと信じています」


 貴方は、優しい人だから。何かを傷つける、そのために己が心まで痛めてしまう人だから。労わるように、懐かしむように唱えながら、結は核を足許に置く。広げた風呂敷の上で転がったそれは、彼女の声にも何の反応も返さない。ただ一陣の風が吹き、木々の枝をざわりと揺らした。


 葉擦れの音に包まれながら、結の指は袂に伸びる。もはや習い性となった紙を繰る動きは滞りなく、探り当てたのは上質の紙ですられた、一枚の札。核を割るための、特別にあつらえられた札だった。


 「ようやく、会えますね。貴方に、その心に」


 ふわりと笑みを結んだ唇が、次の瞬間綻んで呪を紡いだ。


 「―― 『解玉』」


 刹那、白い光が弾けた。結の足元を照らし、顎下からまばゆい光でまぶたを差し、ただ黒いばかりだった木々の肌を茶に藍に翠に浮かばせ、光が散る。何事もなかったかのようにしずしずと舞い戻る闇の気配にまぶたを持ち上げれば、ぱっくりと割れた核があった。そして、そのはざまに二つの影。握り拳くらいの大きさしかないそれを見つけ、結はそっと膝をつく。そろりと伸ばした両の手は、壊れ物のように丁寧に影を掬い上げた。


 右の掌には、ざらりとした竹の皮の感触。よくよく使い込まれた滑らかな丸い面に、人の手に触れ馴らされたしっとりとした持ち重り。結が札をするために持っている物とは桁違いの時を経た、馬連。


 左の掌には、つるりとした木の冷たさ。滑らせた指に細やかな飾り彫りの線が走り、よく整えられた歯が縁に並ぶ。結の髪を飾らなくなって久しい、櫛。


 「ずっと、持っていたんですね。刻」


 やっと、呼べた。そう歓びに弾む声は、けれど湿り気を帯びて落ちていく。右手にとらえた、懐かしい気配へ向けて。主の許で化身を得る前の、刻の身体へ。


 「それなら、貴方からの贈り物を取り上げられれば、私があなたをあっさり忘れてしまうだろう、なんて、愚かな考えだったとよくわかったことでしょう。これを持ち続けた貴方は、きっと私をずっと覚えていてくれた。私が貴方を、いつまでも追い続けたように」


 ふ、と弓なりに持ち上がった唇の端、流れを乱され弾んだ涙が滴となって膝を叩く。馬鹿な人。その呟きは、刻に向けたものだったか、あるいは結自身を評したものだったのか。馬連に櫛、どちらも載せたままに重ねられた両手が、ぎゅ、と胸元に押し当てられる。温度のないはずのそれらは、それでも結の心を温めるに足るものだったらしい。夜の山中、ひんやりとした空気にさらされ続けた白い肌が、ほんのりと朱に染まる。


 「私も貴方も、元は人間に使われる道具だった。だからこそ主様に懐き、里の人々に馴染んだ」


 あの日。刻が姿を転じ、結の許を去った忘れようもない日。同じ里に住む男の一人が、結が一人でいる時を見計らって声をかけた。から回りながらも熱心に思いを紡ぐ声に心を揺さぶられたのは、それを向けられた結よりも、むしろ折悪しく帰宅してきた刻の方だったのだろう。


 人里に下り、屋敷とは全く異なる時の流れに身を浸し、日々何気ない言葉を交わし合い。そうして人間と交わる結を見て、刻は何を感じたのだろう。既に問うべく相手はなく、ただ、遠い記憶に答えを求めるとするならば。



 ―― その激情の名は、『嫉妬』ではありませんでしたか。



 どれほど目を凝らしても、ようやく木々の輪郭が浮かび上がるかどうかという闇の中、結はもう一度立ち上がる。迷いのない足取りで巨木の目の前まで歩み寄り、馬連と櫛を右手に収めた。空いた左手で、袂から二枚の札を取り出す。どちらも鳥の子に筆で紋を認めた、極上の品だ。指先の感触だけで選び出した内、一枚を樹の幹に押し当てる。


 「―― 『結炎』」


 ぱちりと音を立て、火除けの結界が、ぐるりと円柱状に展開する。下草、巨木、それに周りの木々から張り出した枝にいたるまで、全ての者の表面に水の膜を張った結界に満足げにひとつ頷き、結はふ、と自身の背に左手を回した。高等部に回された細い指が、飾り紐の端をつまむ。それをほんのわずか下に引いただけで、豊かな黒髪が華奢な背を覆った。解けた紐は口にくわえ、指に挟んだままだった札を地面にたたきつける。くぐもった声が、最後の呪を静かに唱えた。


 「―― 『炎珠』」


 ぼ、と唐突に闇に浮かんだ炎は、まるで草双紙に描かれる人魂か狐火のように一瞬漂い、地についた途端勢いを増す。ごう、と空気を呑んで伸びる火の舌に無造作に飾り紐を吐き捨て、結は櫛を左手に持ち直した。す、と額に押し当てたそれを、やさしく炎に投げ入れる。瞬く間に形をなくすそれを見つめる瞳から、涙の気配は退いていた。代わりに浮かぶのは、穏やかな慈しみ。そうして視線を右手に転じれば、たぎるような愛おしさが切なげに寄せられた眉にまでにじんだ。


 「愛していました、家族として。 ――お慕いしておりました、モノの身なれど、女として、貴方のことを」


 囁いた唇が、そっと馬連に寄せられる。それが触れた刹那、結の姿が歪み、解け、掻き消えた。女の身を包んでいた着物はくたりと下草の上を這い、炎を照り返した真っ直ぐな髪は、地に触れる前に闇に溶ける。繊手の支えを失った馬連は、無防備に炎へと飲まれ。


 その後を追うように、使いこまれ飴色に艶めく、木目も美しい櫛が宙を舞った。



 ――共に生きることはかなわなくとも、共に灰となりましょう。



 馬連を、櫛を受け止めた炎がぱちぱちと爆ぜ、結界に阻まれながらも空を目指す。その腕が途切れた先、ただ二筋の煙が、木々の合間を縫って高々と昇っていった。


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