その1 朝のお茶会。
プロローグ
帝国暦九三九年、北部第五基地第八部局格納庫。
「ツチ機ビンニー、起動確認」
濃緑の搭乗服を着た厳めしい青年は、その両腕を操縦桿についた手袋に差し入れて、低く静かな声で告げた。手袋は肘を覆うほどに長く、掌紋と静脈の個人認証も兼ねていた。その二つを確認して、操縦桿に着いていた手袋は弛緩し、青年の肉体にぴたりと装着される。その上で起動を宣言する声紋の確認、照準器を覗く網膜の赤外線照射が続く。同様のチェックを経て金庫から出した記録媒体を差し込むと、ようやく二足歩行兵器ヴィタ・エクス・マキナ――通称VEMの動力が起動する。雑然とした操縦席に明かりが灯り、個体名ビンニーは搭乗するツチ工兵科少尉を確認して起動する。
武張った容姿のツチは、航空機と戦車の搭乗服を継ぎ合わせて拵えたVEMの搭乗服が様になる青年軍人だ。着崩すこと無く首元まで閉じた襟元や、手順を飛ばさない生真面目さが彼の性格を物語っている。
「ビンニー、通信機機動。チャンネルは」
カツン、と搭乗席を叩く音がツチの動きを止めた。機体は機動したばかりで、動かしてもいない。ツチは未だに格納庫の中で、搭乗席まではキャットウォークで近寄れる。それでも通信機を介さず、搭乗席に近寄ってきたと言うことは、何か急ぎの案件かもしれないと、ツチはヘルメットを外して搭乗席を開けた。
ツチと同じ、濃緑の搭乗服が目に入る。
「よう、忠犬」
軽口を叩いたのは、顔の右半分が焼け爛れた青年だ。ツチと対照的に、搭乗服の前をはだけてシャツを覗かせる、砕けた着こなしが不思議と様になる。名をトキハと言い、かつて儀仗航空隊で活躍した帝国軍工兵科少尉である。
トキハは包帯を巻いた右手に持っていた瓶を、巫山戯た調子でチョイと持ち上げた。雪に埋もれる北部では一般的な蜂蜜生姜である。子供や病人がよく飲んでいる。
「付き合えよ」
「構わないが」
ツチは鷹揚に答えた。年はトキハが一つ上で、身長もトキハが勝る。が、捲り挙げた腕の筋肉は、戦車隊の隨伴歩兵だったツチの方が逞しい。硬骨漢と優男と、容姿はまるで正反対だが、不仲ではなかった。
ツチは受け取った瓶の蓋を開けると、眼球だけを動かしてトキハを見上げた。通常、湯で溶いて飲むものだ。トキハはそれらを差し出さない。このまま舐めろとは言うまいと先を促す。
「今、ネジ班長が来る」
トキハが指差したのは、格納庫の床を駆ける作業着の人影だ。銀色の髪は北部ではさほど珍しくは無い。
帝国軍北部第五基地の北端に、この工兵科第八開発局専用格納庫は建設されている。晩冬に大雪が降ると、一階の出入り口は塞がってしまう。ただし谷底にあり、三階部分で崖上にある研究棟の一階と繋がっているので、人間はそこから出入り出来た。
出られないのは、格納庫五階分をぶち抜いて鎮座する、鋼鉄の巨人だ。
ツチがいるのは、その巨人の腹の中――巨人を動かすための搭乗席である。トキハは搭乗席の縁に腰掛け、手にカップを抱えた整備兵が駆けてくるのを待った。三十になったばかりの、青い瞳に眼鏡をかけた女である。銀髪は切りに行く暇がないらしく、中途半端に伸び、これまたうなじで中途半端にまとめている。二人の少尉の着る搭乗服と違い、薄い緑色の、酷く汚れた作業着の真新しい襟章は大尉である。胸には海狸とドライバーを戯画化した開発局のワッペンが縫い付けられていた。
「開発班にも声かけてきた! おやつがあるってヨー!」
ネジは青い瞳をキラキラと輝かせ、ポットとカップをトキハに押しつける。語尾が上がり調子になりがちなのは、北部出身者の訛りだ。
「茶菓子で喜ぶ年じゃねぇですよ」
トキハが呆れがちに言うと、ネジはフッと笑った。何か企んでる、とトキハは感じたが、ネジは無表情のツチを見ていた。ニヤッと口の端を吊り上げ声をかける。
「女神様サァ拝ませてやっから、ちっと退いてろ」
その言葉にツチはすぐに搭乗席を降りた。
「ビンニー、機体整備開始。担当はネジ班長」
入れ代わりに搭乗席に潜り込んだネジは声紋認証のマイクに向って口を開く。VEMの管理は徹底しており、整備班とて声紋認証がなければ内部をいじれないのだ。それをクリアし、ネジは巨人の腹の中、幾つものモニターを操作する。巨人の腹から、巨人の脳に干渉しているのだ。
ツチはそれを無言で見守っていたが、トキハは遠慮無く声を掛けた。
「ネジ班長、どうして西部についていかなかったんですか?」
ネジは整備班の班長である。機体の開発を行う開発班は上層部を除き居残っているのだが、整備班は班長のネジが残った他は大部分が出払っていた。整備班は現地でもっとも必要とされる人材でもある。トキハの疑問も尤もだった。
「んー? 私は飛行機が嫌いなんだヨー」
「そんな理由ですか!」
「私の専門は装甲さね。壊れねェように作っとくのが仕事で、壊すことには興味ねェや。
それにサ、向こうにはテツ技佐が行ってンべー?」
「そんなものですかねぇ」
「そんなもンだヨー。それより、お茶会ありがとう」
ネジの感謝に、トキハは肩を竦める。そうしているうちに、居残っていた開発班の人間が、手にポットやお茶菓子を持って集まってきた。
まだ夜が明けていない時間だが、作業着の面々は皆寝ていなかったようだ。やたらと濃い茶が入り、トキハの瓶はあまり人気が無い。
「お茶会?」
生姜汁を手にツチが問うと、トキハは湯気の立つカップを眺めて肩を竦めた。
「メラージャムブは修理中。ビンニーだったら西部に繋げると思ってさ」
「もしもーし! こちら北部第五基地、ビンニーよりネジ班長!
副隊長殿? 聞こえっけー?」
ネジの声にツチがバッと振り向いた。通信機ごしにネジが話しかけている。
『よぉ班長。雑音すげぇな』
雑音の中の、声質など解らないような応答に――
「すぁッちゃさぁああああああああん!!!」
無表情なツチが顔色を変え、その体のどこから出てくるのか解らないような甲高い奇声を上げて飛びつくのを、トキハは苦笑して見ていた。
もうすぐ新しい始まりだ。