短い恋のものがたり
第1章 出会い
悦子と初めてあったのは、夏の終わり。風がやさしいころだった。そのころ僕は広告代理店に勤めていて、毎日とても忙しくしていた。その日も残業を終えて、何とか最終の地下鉄に滑り込んだ。がらがらの車内で、一人扉の前に立ち、じっと外を見ている女性がいた。僕はちょうど彼女が立っているその横のシートに体を滑り込ませた。
なぜ彼女はこんなに空いた電車の中で立っているのだろうか?
ふっと、そんな疑問が僕の頭の中に浮かんできた。一度浮かんできた疑問は僕の頭を離れることは、決してなかった。僕は気になって、何度も彼女を見上げていた。最初は気がつかなかったが、何度目かに彼女を見たとき、僕は気づいた。
彼女は泣いている。
嗚咽を漏らすでもなく、ただ静かに彼女は泣いていた。その姿を見て僕は反射的に立ち上がった。なぜだか分からないけど、とにかく、彼女が泣いている姿を他の誰にも見せてはいけないと思った。僕は彼女を覆うように、彼女のすぐ後ろに立った。地下鉄はいくつかの駅を過ぎ、いつもと同じように酔っ払いと疲れたOL、そしてはしゃぐ学生を乗せて走り続けていた。やがて彼女の降りる駅になったらしく、彼女は大きく目をあけてそして僕に気づいた。彼女が振り返って僕を見た。目には不信感がよぎっていた。僕はあわてて、上着からハンカチを取り出した。
あの、これを。
そういうのが精一杯だった。びっくりした顔で彼女がハンカチに目を落とした。そして手に取った。
何秒の会話だったのか。地下鉄のドアが閉まる笛の音がして、彼女はあわてて降りていった。ドアが閉まると同時に彼女が振り返った。そして言った。
ありがとう。
彼女の声はきこえなかった。でも僕には彼女がそう言ったように感じた。