天使現る
スクールバスが走り去っていく。
本来なら、休みではなかったのか運ちゃんよう、とでも言えばいいのだろうが、道に残された携帯電話の残骸を見ては、何の言葉も出てこない。
誰でも絶望的になろう。液晶の破片やら番号ボタンらしきものが散らばっているその様を見れば。
僕には周りの風景が突然、荒涼としたものに変わってしまったかのように見えた。
そんな絶望に打ちひしがれている僕に、少年が陽気に話しかけた。
「お兄さん、これは試練なのさ」と。
僕は見るともなく大破した携帯電話を見ていた。
少年は続ける。
「僕は恋の神様さ。携帯電話はこれから始まるお兄さんの恋の代償だと思ってくれよなっ。それに、とうもろこしも」少年はそう言うと、エコバックをゆさゆさと楽しそうに揺らした。
僕はギロリと少年を睨みつけた。
「少年、やっとまともに喋ったと思ったらそんな戯言ほざきやがって――」
「あれ、英輔先輩ですか?」と唐突に、この世のものとは思えぬほどの可愛らしい声が、僕の背中に(正確に言えばコタツに)投げかけられた。
振り向くと、そこには演劇部の後輩、宮崎さんが天使の微笑みを浮かべて立っていた。
「やっぱり英輔先輩だったんですね。コタツを持ってくるって聞いてたから、そうじゃないかなって」
宮崎さんの「かなって」という語尾を聞いて、僕は今にも体がとろけそうになった。なんという可愛らしい「かなって」なのだ、と。そこらの娘に真似できる芸当ではない。宮崎さんだからこそ可能な超絶技巧なのである。
僕は顔をきりりと引き締めて、宮崎さんに言った。
「そうなんだ。大道具係もなかなか大変なものさ。はっはっは」
「重そうですよね。そのコタツ」
「なんのなんの。これくらい。あと五つ重ねても何不自由なく動ける」
「わぁ、凄いですっ」
「ふふふ」
もちろん嘘八百である。あと五つもコタツを重ねて担いだりしたら、僕の腰は呆気なく真っ二つに折れてしまうことだろう。
「先輩、なんですかアレは?」と宮崎さんは言って、とある場所を指差した。そこには大破した僕の携帯電話らしきものが散らばっていた。らしき、となってしまうのは、もはや原形を留めていないからである。
「あれは俺の携帯電話だ。様々な不幸が重なり、ああなってしまったのだ」
「お気の毒に……」と宮崎さんはお悔やみの言葉を述べた。
「いったい誰が俺に電話してきたんだろう。おそらく藤縄か工藤だと思うのだが」
「では私が藤縄さんと工藤さんにお電話しましょう。大事な用事だったら大変です。事件が起きてからでは遅いのです」宮崎さんは緊迫感溢れる表情で携帯電話のボタンを軽快にプッシュした。
「――あ、もしもし。宮崎です。藤縄さんですか? はい……はい……そうなんですか」
藤縄め。宮崎さんから電話してもらえるなんて、幸せにもほどがある。今頃、宮崎さんの甘い声を聞いてハァハァなどと至福の溜息をついていることだろう。
「わかりました。英輔さんにはそのようにお伝えしておきます。それでは」宮崎さんは電話を切った。
「藤縄のやつはなんて言ってた?」
「藤縄さんは寝坊したとのことです。工藤さんと朝までお酒を飲んで、今の今まで眠っていたらしいです。『俺と工藤は遅れるから、部室で待っててくれ』と仰ってました」
「なんて勝手なやつだ」
「いえ、朝までお酒を飲まなければならない事情があったのかもしれません」
「宮崎さんは優しいのだな」
「いえ、私などまだまだです」