木っ端微塵
僕と突如現れた浴衣少年は、五メートルの距離を空けて対峙していた。
少年は僕の携帯電話を人質に、いや電話質にして、ニヤニヤと不気味な笑みを投げかけてくる。可愛げの欠片もありゃしない。
僕は携帯電話を取り返すべく、少年に近付く。すると、少年は後退する。
「……」
「……」
僕が一歩踏み出す。少年が一歩後退する。僕が一歩踏み出す。少年が一歩後退する。僕が一歩後退する。少年が一歩踏み出す。そんなことを繰り返した。
僕と少年の距離は一向に縮まらなかった。
「少年、その携帯電話を返してくれないか」
「べー」
僕は好青年の見本を示すかのように、爽やかに微笑んだ。
あんな品の無いあかんべーごときで怒り心頭していては、この先の人生、幾人もの人間を殴り倒しながら生きていかねばならない。ここは冷静に、穏便に、スマートに解決せねば。
「少年、さっきは小僧などと言って悪かった。この暑さのせいでいつもの冷静さを失っていたのだ。さあ、その携帯電話を俺に返そうじゃないか」
「べー」少年はけらけらと笑い、これまた見事なお尻ぺんぺんをかましたあげく、ぷっ、と屁までこいた。
「おのれ小僧……後悔することになるぞ」僕は怒り心頭した。「俺は大学中の人間に恐れられているほどの武術の使い手だ。血を見る前にとっととその携帯電話を返したほうが身のためだぞ」
もちろんハッタリである。武術なんかかじったこともない。
そもそも僕は大学に入学してからと言うもの、煙草を吸い、酒を飲み、ろくな食料にもありつけず常時栄養失調気味に陥り、体力は生きている傍から失われているのだ。僕の細い腕から放たれる鉄拳をくらったところで、ダメージは期待できないだろう。
それを見抜いたのか、少年は涼しい顔をしてけらけらと笑った。
よく見れば彼は一滴の汗もかいていなかった。この暑さでは立っているだけで誰だって汗だくになるはずなのに、少年ときたら春の草原にいるかのような佇まいだ。奇怪極まりない。
僕の体力はこうやっている間にも失われていく。コタツの重みが徐々に増えているような気もする。
どうにかせねば、と思ったその時、僕の頭に名案が浮かんだ。
「そうだ少年、とうもろこしは好きかな。実は知人からとうもろこしを頂いてね。今、俺が首から提げているエコバックの中に二本入っている。そこで提案だ。このとうもろこしとその携帯電話を交換する、というのはどうだろう」
少年は黙ったまま、じっと僕を見つめていた。女に見つめられるならともかく、お前みたいな糞ガキに見つめられても嬉しくもなんともない、とは思っても言わなかった。
「ほーら、とうもろこしだぞぉ。美味いぞぉ」と僕は言って首を振った。エコバックはゆさゆさとゆっくりと揺れた。
少年は僕の巧みな誘惑に負けたらしく、ゆっくりと僕のほうへ歩いてきた。それから彼は僕の首からエコバックを取った。
「よし。じゃあその携帯電話を俺に渡すんだ」
だが少年は僕の言葉が聞こえないのか、空を仰いで耳をほじくった。そして引き返して、再び僕と五メートルの距離を空けて立ち止まった。
「……少年、話が違うぞ」
「……」少年はフルフルと首を振り、携帯電話を地面に置いた。そこは携帯電話が最初に落ちた夢の城の門の前だった。
「おい、俺の手に返すのが筋だろう」と僕が言うと、少年はニッと笑った。
そして僕は恐ろしいものを見た。休みのはずのスクールバスが、向こうから走ってきたのだ。
少年は道の端に退いた。僕の携帯電話を残して。
どうにか携帯電話を救い出したかったが、時既に遅し。
「あっ――」
スクールバスの巨大なタイヤが、僕の携帯電話を木っ端微塵に粉砕した。